第二十六章 最後の言葉
高橋悟の「告白」は、捜査に協力する形で、極めて異例の措置として実現した。この判断を下すにあたり、田中は中川部長と長い議論を交わした。容疑者の投稿を捜査に利用することの是非、その内容が後の裁判に与える影響――検討すべき論点は多岐にわたったが、最終的に「一人の命を救うことを最優先する」という一点で、二人の意見は一致した。
投稿の文面を作成する間、高橋は何度も言葉を選び直した。田中の隣で、彼はキーボードを打つ手を幾度も止め、目を閉じ、また開いては、文字を消しては書き直した。
「正しい言葉を選ばなければ、娘に申し訳が立たない」――高橋はそうつぶやきながら、最後の一文を書き終えた。
審判DAOのコミュニティが利用する、ダークウェブ上のフォーラムに、高橋自身のアカウントを通じて、一つの長文が投稿された。それは、警察の監視下で、しかし高橋自身の言葉によってつづられたものだった。
『このシステムを作った、私です。
三年前、私は娘を失いました。SNS上のデマによって、心を殺されました。私は、その悲しみと怒りから、この仕組みを作りました。誰も裁かない悪を、私たち自身の手で裁くために。
でも、今日、私は、自分が長い間、信じてきた物語が、間違っていたことを知りました。
娘は、理不尽なデマの、一方的な被害者ではありませんでした。娘は、友人を守るために、自ら誤解を受け入れました。自分が傷つくことを選んで、誰かをかばいました。
私は、その優しさを、憎しみの燃料に変えてしまいました。
いま、この仕組みは、佐藤ひかりという、一人の女性を狙おうとしています。彼女もまた、かつて、若さゆえの過ちを犯した、一人の人間に過ぎません。彼女は、この三年間、誰よりも、自分の過ちの重さを背負い続けてきました。
もし、あなたたちが、まだこのシステムに、正義を感じているなら、どうか、考えてください。
あなたたちが裁こうとしているのは、本当に、悪でしょうか。
それとも、ただ、私と同じように、悲しみと怒りに飲まれた、一人の人間の物語を、都合よく利用しているだけではないでしょうか。
このシステムを作った私が言うのも、おかしな話かもしれません。でも、これだけは、伝えなければならないと思いました。
どうか、佐藤さんへの投票を、取り下げてください。
彼女を、娘の名前で、これ以上、傷つけないでください』
投稿は、瞬く間にフォーラム内に広がった。フォーラムの反応スレッドには、驚きと困惑の声が次々と書き込まれていった。中には、「先生がこんなことを言うなんて」「じゃあ、俺たちは何のために」という、動揺を隠せない投稿も見られた。
捜査本部のモニターの前で、伊藤が、震える声で報告した。
「投票の減少ペースが、加速しています。この十分間だけで、保有量の二割近くが、佐藤さんへの投票から離脱しています」
「しきい値までの猶予は」
田中が尋ねた。
「……四十分」
伊藤は言った。
「ギリギリ、間に合うかもしれない」
伊藤は、モニターの数字を見つめながら、独り言のようにつぶやいた。
「高橋さんの言葉が、こんなにも効いているなんて、正直、予想していなかった」
「なぜだ」
田中は尋ねた。
「システムを設計した本人が、自らその過ちを認める――それは、このコミュニティにとって、想像以上に大きな意味を持ったんだと思う」
伊藤は言った。
「彼らは、正義を信じてトークンを買った。その正義の根拠そのものが揺らいだ今、多くの人間が、自分の行動を見直さざるを得なくなっている」
だが、伊藤の楽観は、すぐに打ち砕かれることになる。
「田中さん」
美咲が、別のモニターを指し示した。
「実行部隊とみられる不審な動きが、検出されました」
「どういうことだ」
「投票のしきい値到達とは別に、これまでの拉致事件のパターンから、佐藤さんの身柄を確保するための『準備』が、すでに進んでいる可能性があります。渡辺さんの証言によれば、審判DAOのシステムは、投票の進捗が一定水準を超えた段階で、あらかじめ登録された実行担当者――ダークウェブの闇バイト掲示板を通じて集められた、匿名の実行者に、自動的に指示を送る仕組みになっています」
「山本や坂本の時も、同じ手口だったのか」
「渡辺さんによれば、役割は二段階に分かれているようです」
美咲は言った。
「掲示板で集められる末端の実行者は、あくまで対象者を指定された場所まで運ぶ『運搬役』に過ぎません。彼らは、自分が何に加担しているのか、詳しくは知らされていない。実際の配信内容――投票結果に基づく処遇の実行は、その先で受け渡される、別の、より事情を知る人間の手に委ねられているようです」
「つまり、末端を捕まえても、本当に手を汚している人間にはたどり着けないということか」
田中は、拳を握りしめた。末端の実行者を捕まえるだけでは、この暴力の連鎖を根本から断ち切ることはできない。だが、今この瞬間、佐藤ひかりを救うためには、その末端の一歩ですら、決して見逃すわけにはいかなかった。
「そうなる可能性があります」
美咲は険しい表情でうなずいた。
「だからこそ、佐藤さんの場合は、まだ『運搬役』の段階で止める必要があります」
「つまり、投票がしきい値に達しなくても、その手前の段階で、実行の準備自体は、すでに動き出しているということか」
「はい」
美咲はうなずいた。
「佐藤さんの警護体制を、今すぐ強化する必要があります」
田中は、息を短く吸い込んだ。
「彼女の現在地は」
「専門学校からの帰宅ルート上、警護担当と共に、指定された安全な場所へ移動中です」
その時、無線に緊急の通信が入った。
『――こちら警護班。至急応援を求む。佐藤さんの移動ルート上に、不審な車両を確認。複数名の人物が接近中』
その報告を受けた瞬間、田中の頭の中で、これまでの全ての情報が、一つの結論へと収束していった。もう、迷っている時間はなかった。
田中は、瞬時に立ち上がった。
「行くぞ」
残り時間は、三十五分を切っていた。
田中と美咲は、待機していた捜査車両に飛び乗った。ハンドルを握るのは、若い制服警官だった。
「警護班との距離は」
田中は、後部座席から身を乗り出すようにして尋ねた。
「現場まで、車で十分弱です」
助手席の美咲が、カーナビの画面を確認しながら答えた。
「間に合うか」
「間に合わせます」
運転する制服警官が、短く答えると、アクセルを強く踏み込んだ。
サイレンを鳴らさずに、しかし限界まで速度を上げた車は、深夜の道路を駆け抜けていった。無線からは、警護班と不審車両の位置関係を伝える報告が、途切れることなく流れ続けていた。
「見えました」
美咲が、身を乗り出しながら声を上げた。
「前方に、警護班の車両」
田中は、その報告に、思わず前のめりになった。目的地は、もう目前に迫っていた。




