第二十五章 「A」という生徒
残り時間が二時間を切った頃、美咲がもう一つの調査結果を携えて、田中の元に駆け寄ってきた。その顔には、これまでの疲労とは違う、何かをつかんだ者特有の高揚と緊張が入り混じっていた。
「カウンセラーの記録に出てきた『A』――当時、万引きのうわさの本当の対象だった生徒が、特定できました」
「誰だ」
「当時のクラス名簿と、記録の日付を突き合わせました。現在は、都内で働く二十歳の女性です。名前は、伏せさせてください。彼女自身が、事件について公にされることを、強く望んでいないので」
「連絡は取れたのか」
「電話で、少しだけ話を聞くことができました」
美咲は、緊張した面持ちで続けた。
「彼女は、当時のことを、鮮明に覚えていました。生活が苦しい家庭の事情があり、一度だけ、出来心で、コンビニで商品を万引きしてしまったことがある、と」
美咲は、続けて説明した。
「彼女の家庭は、当時、父親の失業が重なり、経済的にかなり厳しい状況にあったようです。本人いわく、『あの一度だけ、魔が差した』と。それ以来、二度と同じ過ちは犯していないそうです」
「本人が認めたのか」
「はい。ですが、そのうわさが広まりかけた時、美緒さんが、彼女のところに直接来て、こう言ったそうです」
美咲は、手元のメモを読み上げた。
「『誰にも言わない。もしうわさが広まりそうになったら、私が違うって言うから』」
田中は、しばらく言葉を失った。三年前の一人の少女の優しさが、これほど複雑な形で、今、この事件の核心に絡みついていることに、改めて胸を打たれる思いだった。
「書籍、実際にうわさが拡散しそうになった時、美緒さんは、自分自身がそのうわさの主人公であるかのように振る舞い、火消しに動いたそうです。結果として、佐藤さんの誤認――美緒さん自身を万引き犯とする投稿が拡散してしまった際も、美緒さんは、本当のことを一切話しませんでした」
「なぜ、そこまで」
「彼女――『A』さんは、電話口で、涙ながらにこう言っていました」
美咲の声も、微かに震えていた。
「『美緒は、私の家の事情を知ってた。もし私が万引き犯としてさらされたら、もう後がないって、知ってた。だから、かばってくれた。私は、その優しさに、甘えてしまった』と」
「その後、彼女は、美緒さんの遺族に、真実を伝えなかったのか」
「伝えようとしたそうです」
美咲は続けた。
「でも、高橋さんが、あまりにも深い悲しみの中で、娘の死を『理不尽なデマによる、一方的な被害』という物語として受け止めているのを知り、それ以上、自分から真実を告げることができなかった、と」
田中は、深い息を吐いた。
「彼女もまた、三年間、その秘密を抱え続けてきたのか」
「はい」
美咲は答えた。
「誰かをかばうための沈黙が、また別の誰かの、長い苦しみを生んでいた。この事件全体が、そういう連鎖でできているように思えます」
「彼女は、今も無事でいるのか」
田中は尋ねた。
「はい。今回の件について、彼女自身が今後標的にされる可能性は低いと考えられますが、念のため、地元の警察にも見守りをお願いしています」
美咲は言った。
「本人は、『もし必要なら、いつでも証言します』と話していました。長年抱えてきた罪悪感から、少しでも解放されたいという気持ちが、伝わってきました」
「そうか」
田中は、小さく息を吐いた。
「彼女にも、これ以上の重荷を背負わせないようにしたい」
田中は、しばらく黙り込んだ後、決断するように言った。
「このことを、高橋さんに、正確に伝える」
「今、ですか」
「今だからこそだ」
田中は言った。
「残り時間が少ない中で、佐藤さんを救うために、俺たちが打てる手はもう限られている。だが、高橋さんの中にある物語が完全な形で崩れた時、彼の中から、まだ何か――止める力が、生まれるかもしれない」
田中は再び取調室に向かい、高橋に、「A」の証言の全容を伝えた。
高橋は、最後まで、微動だにせずに聞いていた。話が終わった後、しばらくの沈黙があった。取調室の壁時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……そうでしたか」
高橋の声は、驚くほど静かだった。
「美緒は、最後まで、優しい子でした」
その声には、これまでの怒りや悲哀とは違う、何か穏やかな諦念のようなものが宿っていた。
「私は、娘の死を、憎しみの燃料にしてしまいました」
高橋は、目を閉じたまま言った。
「本当は、娘は、誰かを守るために、自分の身を犠牲にした。それは、憎しみの物語ではなく、優しさの物語だった」
「高橋さん」
「刑事さん」
高橋は、目を開き、田中をまっすぐに見つめた。
「私に、できることがあるなら、教えてください。娘の物語を、これ以上、憎しみのために利用させたくありません」
高橋の目には、これまでにない強い光が宿っていた。それは狂信でも絶望でもない、もっと静かで、もっと確かな決意の光だった。
その声には、これまで田中が対峙してきた、確信に満ちた思想家としての高橋でも、絶望に打ちひしがれた父親としての高橋でもない、もう一つの顔があった。それは、何かを守るために、立ち上がろうとする人間の顔だった。
田中は、うなずいた。
「あなたの言葉が、必要です」
田中は言った。
「審判DAOのコミュニティに向けて、真実を、あなた自身の言葉で、語ってほしい」
高橋は、深く頭を下げた。
「分かりました。最後にもう一度だけ、娘のために、正しいことをさせてください」
その言葉を聞きながら、田中は、この三年間、高橋が一体どれほどの孤独と共に生きてきたのかを、改めて思った。娘を失った悲しみ、法への不信、そして、自らが作り出した仕組みが暴走していく恐怖――そのどれもが、一人の人間が抱えるには、あまりにも重すぎるものだった。
「高橋さん、最後に一つだけ、聞かせてください」
田中は言った。
「あなたは、今、何を一番後悔していますか」
高橋は、しばらく沈黙した後、ぽつりと答えた。
「娘の死を、誰かのせいにしようとしたことです」
高橋は言った。
「本当は、誰のせいでもなかった。佐藤さんのせいでも、私のせいでも、この社会のせいでもなく、ただ、娘が、誰かのために優しくあろうとした、その結果だったのかもしれません。それを、私は、憎しみの対象を探すことで、誤魔化そうとしていたんだと思います」
その言葉に、田中は何も返せなかった。誰かのせいにすることは、時に、悲しみに耐えるための、必要な防衛機制なのかもしれない。だが、その防衛機制が、いつしか一人歩きし、他者を傷つける刃に変わってしまうこともある。高橋という一人の人間の中で起きたことは、決して特殊な例外ではなく、誰の心にも起こりうる、普遍的な過程なのかもしれないと、田中は思わずにはいられなかった。ただ、静かに、高橋の告白を受け止めるしかなかった。
残り時間は、一時間半を切ろうとしていた。
高橋が投稿の準備をしている間、田中は、取調室の外で、一人、廊下の窓から外を見ていた。夜の街は、いつも通り静かに、それぞれの日常を営んでいた。この一角で今まさに繰り広げられている攻防のことなど、誰も知る由もない。その事実が、田中にはどこか奇妙に感じられた。
美咲が、廊下の向こうから駆けてきた。
「田中さん、佐藤さんの警護班から連絡です。今のところ、異常はありません」
「そうか」
田中は、小さく息を吐いた。
「高橋さんの投稿の準備は、あと少しで整う。あとは、それがどこまで効果を持つかだ」
二人は、しばらく並んで、取調室の中の高橋の様子を、窓越しに見つめ続けた。残り時間は、刻一刻と減り続けていた。
「田中さん」
美咲が、そっと言った。
「高橋さんの告白、間に合うでしょうか」
「分からない」
田中は正直に答えた。
「だが、間に合わせなければならない。それだけは、確かだ」
ガラス越しに見える高橋の背中は、これまでのどの瞬間よりも、小さく見えた。それでも、彼はキーボードを打つ手を止めなかった。娘のために、そして、これ以上誰も傷つけないために、彼にできる、最後の抵抗だった。
美咲が、ふと口を開いた。
「田中さん、高橋さんは、これから、どんな罰を受けることになるんでしょうか」
「分からない」
田中は答えた。
「だが、どんな判決が下されようと、彼が背負う罪の重さは、法律の言葉だけでは、測りきれないものだと思う」
その言葉に、美咲は黙って目を伏せた。ガラスの向こうで、高橋は、最後の一文を打ち終えたのか、キーボードから手を離し、深く息を吐いた。




