第153回:王玄策の活躍
ミニコラムの続きです。
玄奘三蔵が活躍した少し後の時代に王玄策という役人がいました。
彼は太宗李世民の命令で天竺に外交使節として赴きました。天竺とは現在のインドの事です。正使は王玄策でした。そして、副使は蒋師仁という人物です。
その時インドは運悪く戦乱の真っただ中だったのです。王玄策はインド軍に捕まってしまいます。彼は途方にくれますが、王玄策は苦労してなんとか脱獄には成功します。
通常、すぐに本国に引き返すべき状況でした。一刻も早く唐に帰国して、「大変です。インドで唐の使節団が捕まってしまいました。私は命からがら逃げ出す事ができました。しかし、他の使節団は捕らえられたままです!助けて下さい」と報告しなければいけなかったのです。
しかし、王玄策は、肝の据わった人物でした。というかむしろ頭のネジが外れていた人物でした。「同行していた部下が捕らわれたままだな。このまま俺だけおめおめと唐に逃げ帰るワケにはいかん。天竺国の権力闘争なぞ俺が解決してやる!」と考えます。
というのも、中国からインドまでは距離が遠すぎるのです。大量の援軍などは出せません。なぜなら、援軍を出しても補給の問題が起きるからです。しかも、途中の国々に対して外交問題が起きてしまうのです。「唐の大軍を出すけど通過するだけでなにもしないよ」と言っても、諸外国が信じるとは限らないのです。
王玄策の立場からすると「は?俺の頭のネジが外れているだと?!ふざけんな!俺は冷静だ。どうやったら仲間たちの使節団を救う事ができるのか?それだけを目標として、知恵を絞ったのだ!」と言いたかったのでしょうね。
王玄策は檄文を出します。檄文とは、「自分の強い思いを伝えるための激しい文章」の事です。
王玄策の主張は以下のようなものです。「ハルシャ王は死んだ。この隙をついて臣下のアラナシュが横暴を働いている。私も囚人となったが脱獄した。唐王朝としてはこのような暴挙を許さぬ。ネパール王よ!吐蕃王よ!我らに兵をお貸し願いたい」と訴えたのです。
さらに直接ネパール王の元に赴いて「兵をお貸しください」と願い出ます。王玄策の巧みな外交交渉と当時の唐帝国の国威もあり王たちは兵を貸すことに賛同します。
ネパール騎兵の精鋭7千人。吐蕃兵1千人の合計8千人余りの兵を借りました。しかし、敵のアラナシュ軍は3万を超える兵力です。敵と比べて兵力が不足しています。
アラナシュ軍は戦象部隊まで保有しています。馬と違って象は動きは遅いものの戦力としては強力です。さらに地の利は相手にあります。借り物の軍では勝ち目は薄いはずです。
王玄策軍とアラナシュ軍はガンジス川周辺で決戦を行ないます。しかし、このような中でも王玄策は巧みな指揮で敵軍を翻弄します。そして、敵の半数に満たない兵で、敵対したインド軍を打ち破ってしまいました。
この時は、副使の蒋師仁も副将として大活躍しています。あれれ、蒋師仁は、インドで牢屋の中ではなかったのか?という疑問が沸きます。どうやら、王玄策と一緒に脱獄していたみたいですね。彼は。
しかし、通常、正使が暴走した場合、副使がそれを諫めて止めなければいけません。蒋師仁は「玄策殿!ここは異国ですぞ、戦争など御法度です。」と言わなければいけない立場です。
しかし、副使の蒋師仁も頭のネジが外れていた人物だったようです。
蒋師仁は、逃げ出した敵の総大将のアラナシュを追いかけて捕まえる活躍どころか敵兵千名を斬るという暴れっぷりでした。蒋師仁は「大将がコソコソ逃げるんじゃねぇ!ヒャッハー!」とか言っていたのかも知れません。
王玄策たちは、外国で異国人の兵を集めその兵を率いて勝ってしまうという通常考えられない武勲を挙げてしまいます。捕らわれの部下たちも無事救い出しました。
通常の歴史の事例では「王朝の実力者は倒したぞ。俺がこの国を乗っ取って王になってやる」と考えるケースが多々あります。そうすれば財宝に色欲に酒池肉林にとやりたい放題ですからね。
しかし、王玄策は部下たちを救出して外交使節としての自分の仕事を終えるとそれで満足します。「よし、俺の仕事は終わった。それでは唐に帰ろう」と考えるのです。
借りていた兵も他国に返しました。そして、王玄策は捕えた敵将アラナシュの一族を護送しつつ帰国します。
そして、「陛下、任務は遂行しました。ついでに天竺で悪さをしていたヤツを捕らえてきました。」と言って、敵の身柄を太宗李世民に引き渡します。
李世民は名君ですから王玄策がいかに常識外れの凄いことをやってのけたかを理解していました。「アイツ…たしか外交使節として天竺に行ったんだよな?だとしたら、やっていることはズレているよな?だがとにかくすごい武勲だ!」という評価を受けます。彼は活躍を評価され出世します。
そして、王玄策は、朝散大夫という役職に任じられました。朝散大夫を現代の会社で例えるなら、課長や部長クラス、あるいはもう少し上の本部長の手前くらいのイメージです。決してめちゃ偉い役職ではありません。
王玄策の場合、外交手腕を買われていたため、外交関連の重要な任務、例えば外国への使節団の長を務めるような役割を引き続き担っていたと考えられます。
玄奘三蔵は西遊記で1度きりのインド行きを達成しました。しかし、王元策は合計3回のインド往復を成し遂げています。まさに、超人のような体力と精神力ですね。
ちなみに王玄策はインドで見聞きした事や体験した出来事を「中天竺行記」という文章にまとめました。しかし、残念ながら現在では散逸してしまったようです。
なお、唐初期には名将が綺羅星のごとく誕生しました。そのせいで王玄策の活躍はイマイチ後世に伝わっていないのが残念です。
しかし、彼の行った行動は空前絶後であり、彼の成功は真似ができないものでした。つまり、「スゲー奴がここにも」って話でした。




