14 ボクシング
14 ボクシング
鮎川が駅前のボクシングジムの扉を開けて受付に立っていきなり入会を申し込んできたので、受付にいた元はボクサーであろうと思われるシェイプアップされた肉体を持った中年男は、目の前にいるへたった初老の男を見て、少しビックリしたようだった。
鮎川は中年男からボクシングの経験はあるのかと訊かれ、即座に「ありません」と答えた。ボクシングの世界チャンピオンの名前を誰か知っているのかと訊かれたので、少し考えて「モハメッド・アリ」と答えた。中年男は「なかなか渋いね」とささやいた。日本人のボクサーの名前は、と訊かれたので、少し間が空いて「あしたのジョー」と答えた。中年男は事務全体に聞こえるような大きな声で「おい、誰か「あしたのジョー」ってボクサーを知ってるか」と訊き、誰かが「知ってますよ。少年マガジンでしょ」と答えた。鮎川は答えてしまってから、あしたのジョーは漫画の中の人物だということを思い出した。「面白いことを言う人だな」と中年男は口元だけで笑ったようだった。
これまでボクシングは観たことがあるのかと訊かれたので、「ありません」と答えると、テレビでもないのかと訊かれ、「ありません」と答えた。ダイエットをしなければいけないほど太ってはいないし、もっと食べて太った方が良いくらいじゃないか、と中年男は独り言を言った。それから、健康増進のためにボクシングを始めるのかと訊いてきたので、「そうではない」と答えた。すると、「誰かを殴って復讐したいのか」と鮎川を直視して訊いてきたので、「そうです」ときっぱりと答えると、「時々、そんな奴が入会を希望してくるけれど、みんな若い奴だよ。あんたみたいな言っちゃあ悪いけど、老人が誰かを殴りたいと言って入会してきたのは初めてだ。いい年して殴ってやりたい奴はいったい奴なんだよ」と訊いてくるので、「小学校5年生の時におれが苛めた奴が復讐に来るんです。そいつらを返り討ちにするんです。それに、小学校6年生の時におれをいじめたクラスの奴らに仕返しをしてやるんです」と言うと、「失礼だけど、あんたいったい何歳なの?」と訊いてきた。鮎川が「65歳です」と答えると「多分、相手はいじめたこともいじめられたことも忘れているよ。あんたも忘れた方がいいんじゃない。少し執念深過ぎるよ。尋常じゃないね」と言われた。おれは執念深い男ではないのに、と思った。「復讐してくる奴と、最近同窓会かなんかで会ったの? 脅されたの? それ多分冗談だよ」「いえ、会ってはいないのですが、間接的に声を聴いたんです」「間接的? よくわからないね。でも、それは被害妄想というもんだよ。それで相手の顔はわかってるの?」「いえ、誰がいつ来るかもわからないんです」「それじゃあ、殴ることもできないでしょう」「でも、いつ襲われるかもしれないし、おれをいじめた奴がわかったら殴ってやるんです。襲われてからボクシングを習っても遅いでしょう。それにいつおれをいじめた奴に会うともわからないし」と鮎川が言うと、中年男は相手にするのがバカバカしくなったようで、「まあ、いいか。復讐したいと言って今まで入会した若い奴は、みんな長続きしなかったけどね。入会動機は人それぞれだから。おじいさんも無理をしないようにね。いつやめてもいいからさ。では、入会金2万円に、月謝2万円ね。あっ、準備してきたのね。そりゃあ、手回しいいね。助かるよ。今日からやっていくの? トレーニングシューズと運動着は持ってきたの? うん、それでいいよ。じゃあ、折角だから、そこにあるグローブをはめてサンドバッグを叩いてみるといいよ。初回だから好きに殴っていいからね。我流でいいから。きちんとしたパンチの打ち方は次回から教えるからさ。サンドバッグを殴りたい相手に見立てて思いっきり殴ってよ。準備運動をしてよね。自己流でいいからさ」
「もう息が上がったの。まだ、30秒も経っていないよ。グローブが重いでしょう。これで一ラウンド3分間殴り続けるんだから。グローブが重くなったからといって腕を下げたら、相手に顔を殴られちゃうからね。まあ、技術的なことは次回からで、今日はストレスが発散するまでサンドバッグを殴り続けてよ。他の人の練習の邪魔だけはしないでね。怪我をするからさ。わからないことがあったら、おれに声をかけてくれればいいからさ。練習は一回2時間ね。早く帰ってもいいから、帰るときには一応声をかけてね」
サンドバッグと対峙しても鮎川は小学校の時に自分をいじめた奴や自分がいじめた奴の顔は思い浮かばなかった。いったい相手は何人いるんだろう。サンドバッグを殴り続けていれば、一人ひとりの顔が思い浮かんでくるのではないか思ったが、全然浮かんでこなかった。それよりも、すぐにばててしまった。息があがった。腕がパンパンに張っていた。腕が上らない。それでもトレーニングを始めてまだ5分も経っていない。サンドバッグに頭突きでもしたくなって、頭突きをすると、他の練習生が止めて、隅で休んでいるように言われた。若い練習生がサンドバッグに凄いスピードで重いパンチをめり込ませていった。こいつは誰にどんな恨みがあるんだろうかと鮎川は思った。
息を切らせて、休んでいると、しばらくして幻聴が聴こえてきた。
「それじゃあ、おれを殴れないぜ」
入会して一か月が経ち、鮎川は自分から志願してボクシングのスパーリングをした。一方的に殴られ、グローブで顔を防御し続けた。スパーリングパートナーは子供を相手にするように随分手加減してくれた。セコンドから「腕を下げるな。顔を守れ」という大きな声が飛んだ。鮎川はもう倒れて楽になってしまいたい心境にかられたが、突然、幻聴から「パンチを出せ」と言う声が聴こえた。反射的に鮎川は右のストレートを放ったが、それは相手には届かず、相手のパンチを顔面にくらって、彼の記憶は遠のいていった。
そうだ、この反撃のパンチを打つ勇気だったんだ。これがこれまでの自分にはなかったんだ。鮎川はどこかから力が湧いてくるのを感じた。
鮎川は、小学校5年生の時はいじめっ子だった。多くの同級生をいじめて泣かせた。小学校6年生になると、反動で、同級生全員から無視をされて淋しい学校生活を一年間送った。中学校の時、親の転勤で家を引っ越した。彼は小学校の時の記憶を消して、目立たないようにその後の生活を送ることにしたのだった。いつしか鮎川に小学校の時の記憶はなくなってしまった。
鮎川はリングのマットの上で、小学生の頃のことを思い出したが、それが本当の彼の過去であるかどうかはわからない。こうした記憶も彼の頭の中で創作されたものかもしれない。遠くで幻聴のせせら笑う声が聴こえてきた。




