初音、耳が孕みそうになる
『修復学』の授業後、雨宮さんに声をかけられた。
「画家のアトリエって興味あります? 室生さんって工芸分野だから、油絵画家には興味ないかもだけど」
「いいえ、凄く興味あります。私が絵を描くようになったのも、油絵に興味を持ったのがきっかけなので」
「良かった。じゃあ、一緒に行きましょう」
連れて行かれたのは、雨宮家だった。
洋館造りのガラス張りで陽がよくあたるアトリエ。薔薇やさまざまな花が植えられていて美しい場所だった。テレピンの匂いが、アトリエそのものの雰囲気を醸し出している。
「ご家族が絵描きさんなのですか?」
「ええ、父が画家で。兄の秀青からは聞いていなかったのですか?」
「やはり、秀青さんとご兄弟だったのですね?秀青さんは、その話題を敢えて避けて言わなかったんだと思います。」
「そうですね、月島家では父は苦しみの種でしかなかったでしょうから」
アトリエにはイーゼルに描きかけの一枚の絵が飾ってある。女性の絵だ。その他にも、花と女性が描かれている絵が何枚か置いてある。
「どこかで見たことがある……美人画が専門なんですね?」
「ええ。月山青湖という画号で」
「あ、あの月山青湖!」
まさか、美人画で有名なあの画家が秀青さんのお父様だったなんて!
「実は、月島家って離婚してないんですよ。父があの家から出てそのまま帰らなかったので、離婚届を出していないようなんです。本当は僕は父の姓を受け継いで、月島青児という名前になるはずだったんですが……母の姓を名乗っています」
「複雑なんですね……」 なんとコメントして良いかわからない状態になった。
「あの、雨宮さんが私を誘った理由って、本当にアトリエを見せたかっただけなんですか?」
つまり、本当の目的を言って欲しい、と遠回しに聞いてみた。
雨宮青児は静かな声で囁くように言った。
「いいえ、貴女とお近づきになりたくて……」
私はもう、耳が孕むのを必死に堪える状態だった。 御影様、ごめんなさい。そして貞操帯は御英断でした。
*****
一緒に紅茶を飲みながら、彼の経歴を聞く。
彼の通っていた高校は少し変わっていて、卒業後も専門的に勉強できる「専攻科」という場所があるらしい。
そこで大学二年分の単位を取得できたため、この芸大の三年に編入してきたのだという。
だから、兄である月島秀青が生きている間にこの大学で会いたくても、結局会えずじまいだったそうだ。
彼は少し困ったように微笑みながら言った。 「この大学に入ってから、兄の名前で呼ばれたり、『月島さんの兄弟?』と同じ質問を何度もされてしまって……」
「ふふっ、私も思わず見入ってしまいましたもん」 と、私は笑って伝えた。
「あの、雨宮さんって長い髪で目を隠すようにしてますけど……ひょっとして、ストーカーとか女難を避けるための対策ですか?」
「……そうですね。人と関わりたくないのに、向こうから強引に押しかけてくる人が苦手なんです。できるだけ、目を合わせないようにしています」
彼は静かにそう答えると、ふと私の胸元へ視線を落とした。
「そういう室生さんだって……その首に掛けている指輪で、男性を寄せ付けないようにしているのでは?」
「私には男性なんてほとんど寄ってこないので、そういうわけでは……ただ、指につけていると絵の具などで汚れてしまうので、首に掛けているだけです」
その後は、好きな絵や芸術について語り合った。御影様と話すのとはまったく違う充実した時間を過ごし、私はアトリエを後にして帰路についた。




