第26話 静かな夜と学生証
「どうしたの? 体調悪い?」
ベンチで横になっている俺に、スーツ姿の男の人が首を傾げながら問いかけてくる。
「あ……いや、」
誰だ、この人。スーパーの店員ではなさそうだ。
ぼんやり見つめていると、男の人は目を細めて俺の様子をじっと観察した後、確かめるように手にそっと触れてきた。
「手が冷たくなってるね。顔も真っ白だ。もしかしたら、貧血かも……よかったらこれ、食べて」
男の人はスーツのポケットから、個包装のチョコを取り出して差し出してきた。
「あ……ありがとう、ございます」
受け取ろうと手を上げたけど、手を動かすのすらしんどくて、結局ベンチに置きなおした。
「すいません。やっぱ、大丈夫です」
「口」
「え?」
「口、開けて?」
男の人が柔和な笑みを浮かべて言う。ぼんやりとしたまま、俺はそれに従った。
個包装から取り出されたチョコが、俺の口にそっと放り込まれる。俺は何も考えず、それを舌で転がした。
口の中でチョコが溶けて、甘さが染み渡っていく。すると何故だろう。身体の倦怠感が嘘のようにすっと引いていった。
驚いて見ると、男の人は「ほらね?」と笑いかけてきた。
「……ありがとうございます」
「よかったらこれも飲んで」
男の人はビジネスバッグからミネラルウォーターを取り出し、蓋を開けて渡してきた。起き上がってそれを受け取る。
水を飲みながら、改めて男の人を観察する。
シンプルだけど品のある感じのグレーのスーツ。センスの良さそうなネクタイと腕時計。本皮っぽいビジネスバッグ。
それに、それを嫌味なく使いこなしてるスタイルの良さ。整った顔立ち。
ぱっと見の印象は、ドラマとかに出てくるデキる営業の人って感じだ。
何なんだろうこの人。なんで俺に、こんなに親切に──。
「ぐっ!? げほっげほっ!」
よそ見しながら飲んでいたせいだろう。水が器官に入って、思わず咳き込む。
「ありゃ、大丈夫?」
きっと背中を擦ってくれようとしたのだろう。男の人の手のひらが、俺の背中に触れる。
その瞬間──。
バチッ!
盛大な静電気のようなものが、背中に走った。
「っ!」
男の人は驚いたように手を引っ込めた。
糸のように細められた瞳が、うっすらと開いて俺を見る。
「……君は」
さっきの静電気、結構大きい音鳴ってたし、もしかしたら痛かったのかも。
「あ、なんか……すいません」
とりあえずの謝罪をすると、男の人は再び口元に笑みを取り戻して言った。
「君、名前は?」
「素直……空木素直です」
あれ、俺、なんで名前言ってんだ? 別に言うつもりなかったのに。
『知らない人に自分の情報教えちゃダメだよ』って要に散々言われてたんだけど……でもまあ、この人悪い人じゃなさそうだしな。
「素直くんか。勉強困ったりしてない? 実は僕、こういう者でして」
慣れた手つきで懐から名刺を取り出して、こちらに差し出す。それを受け取って、名刺に視線を落とした。
俺でも知ってる有名な学生向けの通信教材の会社名が書いてある。
役職の所にはやっぱり営業の文字があった。確かに、見た目とか話した雰囲気から、そんな感じがするもんな。
名前には「調月湊」と書いていた。
「しらべつき……みなと?」
「つかつきって読むんだ。調月湊」
「へえ……珍しい苗字ですね」
「よかったらいつでも連絡してよ。連絡くれたら、ご飯くらいはいつでも連れてってあげるからさ?」
「え……ありがとうございます」
「じゃ、またね」
調月さんはにこりとそう言って、スーパーを出ていった。
その背中を眺めながら、俺は妙に感動していた。
知らない大人の人にあんなに親切にされたの、初めてだな。
それにいつでも連絡してって。なんか、素直に嬉しいかも……。
いやいや、あの人営業なんだから、連絡してっていうのは建前っつーか、ビジネスだろ。
「調月さん、か」
名刺を眺めながら呟いていると、こちらに駆けてくる足音。
要だと気づいた俺は、すぐに名刺をポケットにしまった。
「遅くなってごめんっ! 素直、大丈夫?」
要は片手にスポーツドリンク、もう片方に鉄分入りのゼリー飲料を持っていた。
「あれ、ちょっと顔色良くなってる」
「ああ、ベンチで少し休んだら、楽になってきたよ」
「……なんかあった?」
要が探りを入れるように問いかけてきた。こういう時の要って、妙に鋭いんだよな。
でも、さすがに見知らぬ人に助けてもらったなんて言ったらやばいよな。
「いや、何も」
ポケットの中で名刺をいじりながら、俺はそう答えた。
夜になったら逆巻とこれからの事について話し合う予定だったけど、俺の体調を考慮したらしい要が、「明日に延期しよう」と提案してきて、俺もそれを了承した。
なんだか申し訳ない気持ちになりながら、俺はベッドに寝転んで、キッチンに立つ要の背中を眺めていた。
「素直、晩御飯食べれそう? おかゆでも作ろうか?」
野菜を切る手を止めて振り向いた要が問いかけてくる。
「いや、大丈夫。要と一緒の食べるよ」
「……うん。わかった」
「素直、髪乾かすね」
「いーよ。そんくらい自分でやるって」
「でも、素直体調悪いんだし、それくらい俺にさせてよ」
「大丈夫だって、もう普通に回復してるし」
それは強がりではなかった。
調月さんに介抱してもらったし、要の作った飯を食ってゆっくり風呂に入ったおかげか、今はすっかり倦怠感も無くなった。
……それにしても調月さん、人の介抱するの慣れてる感じだったな。今までもああやって、色んな人を助けてきたのかな。
「……ごめん。ドライヤー、ここに置いとくね」
要はぽつりと告げ、ドライヤーをテーブルに置く。俺はそれにひどく違和感を覚えた。
珍しいな。いつもなら断っても勝手に乾かすのに。
というか、家に帰ってからずっと様子がおかしい。
いつもの要なら、しつこいくらいに俺に構ってくるのに……俺が体調崩したから、遠慮してるのか?
あまり会話の無いまま、寝る時間になる。
ベッドに寝転んではみるけど、今日ほぼ一日寝てたせいか、あんまり眠くない。
明日休みだし、ゲームでもするか? せっかくだから、要に提案してみるか。
「なぁ要、今からさ──」
寝返りを打つと、隣に要がいない。
あれ? と思って視線を下げる。要は何故か、フローリングの上に布団を敷いて、そこに転がっていた。
「要……そっちで寝んの?」
声をかけると、要はこちらに背を向けたまま答えた。
「うん。素直体調悪いし、ベッド広く使って休んだほうがいいだろうから」
その声は妙にそっけない。そんな態度を要が俺に対して取るのは、結構珍しい。
やっぱこいつ、なんか拗ねてんな。
ちょっと気がかりだけど、思い当たる節がない。気にしても仕方ないか。
「……わかった。おやすみ、要」
「おやすみ、素直」
手元にあるリモコンで電気を消す。寝返りを打って、要に背を向けた。
静かになった部屋に、掛時計の秒針の音だけがカチ、カチと鳴り響く。
眠れなかった。昼間に寝すぎたせいというのも大きいけど、本当の原因が何なのか、俺は理解していた。
だから、振り返る。要は相変わらずこちらに背を向けたまま、身を縮こまらせるようにして布団を被っていた。
「要」
その背中に声を掛けると、ぴくりと小さく肩が震える。恐る恐るといった感じで、要がこちらを振り向いた。
「……どうしたの、すなお」
暗くて表情がよく見えない。だけど、まるで今にも泣き出しそうな弱々しい声だ。
「こっちこいよ」
隣をぽんぽん叩きながら言ってみる。だけど、要は小さく首を横に振った。
「駄目だよ。最近ずっと一緒に寝てたし」
「だからだよ。お前が隣にいないと、落ち着かなくて眠れない」
「でも……」
「いいから来いって、お前が来ないなら、俺がそっち行くぞ」
暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる要の輪郭を睨みながら言う。すると要はしぶしぶ起き上がり、躊躇いがちに俺の隣に転がった。
でも、最後の抵抗だとでも言わんばかりに、数センチの距離がある。
なんだよ。いつもうざいくらいにくっついてくる癖に。
じれったくなった俺は、強引に要を抱き寄せた。というか、抱きついた。
俺の腕の中で、要が身を固くする。
「……素直」
「今日のキス、まだだったよな? 今からするぞ」
顔を近付けて迫ると、要は俺から逃げるように視線を逸らした。
「いや、今日は止めとこう。素直、体調崩したばっかだ、し──」
はっきりしないことばかり吐き出す口を黙らせるために、自分から唇を押し付ける。
キスの仕方なんか分からない。いつもしてくるのは、要の方だから。
とりあえず角度を変えながらぐいぐいと唇を押し付けて、離す。
要は心底驚いたような顔で俺を見つめ、固まってしまった。
「…………すなお?」
「お前さ。さっきからなんかずっと我慢してるだろ」
「え、」
「何年一緒にいると思ってんだよ。全部分かってんだよ、こっちは……そういうの、ちゃんと言えよ。俺達ダチだろ?」
ハッとしたように要が目を見開き、みるみるうちに表情が崩れていく。目を伏せた要が、ぽつりと呟いた。
「ごめん。今日素直が体調崩したの……俺のせいかもしれない」
「どういうことだ?」
「最近能力循環のために、よくくっついてたでしょ? キスも毎日してたし、長めのハグも……そのせいで、俺が素直の力を吸いすぎてしまったのが原因かもしれない。素直が俺とくっつくと眠くなるのも、そのせいだと思う。本当に……ごめんね」
消え入るような謝罪を吐いて、要は苦しげに眉間を寄せる。俺は拍子抜けしてしまった。
「お前、そんな事気にしてたのか?」
「そんなことって。そんな言葉で済ませていいことじゃ無いだろ。だって素直、あんなに辛そうにしてたのに……」
要の表情がどんどん沈んでいく。今にも泣き出しそうだ。
そんな要を見ても俺は「なんなんだこいつ」という感想しか思い浮かばなかった。
とりあえず、要の頭を乱暴に撫でる。
要は水分を含みはじめた頼りない瞳で、俺を見た。
「こっちからしたらな。そんなんおあいこだっての。お前だって俺を守るために、散々傷ついてきたんだろ?」
「それは──」
まだ何か言おうとする唇に人差し指を押し当てる。
「一旦黙れ。最後までちゃんと聞けよ」
「……うん」
「正直さ。俺になんでも壊す能力があるだとか、そのせいで能力者に命狙われてるだとか。そういうの、未だによく分かんねえよ。でも、要が俺の為に頑張ってくれてんのは、ちゃんと分かってるよ俺。道也に腹ぶち破られても、逆巻に痛めつけられても、どれだけぼろぼろになったって、俺のために戦ってた。今だってずっと、俺の事考えてくれてる……だから、俺に出来ることくらい精一杯させろよ。俺にも要のために、頑張らせろって」
要は呆然としたように俺を見つめていた。そのまま数秒間の沈黙が流れ、要の唇が、薄く開く。
何か言おうとしたらしいけど、上手く言葉にならなかったらしい。
困ったように眉を下げて、俺の肩に額を押し付けてきた。
「あはは……素直はほんと……ずるいなぁ」
噛みしめるように言って、要が顔を上げる。
その頬は微かに赤らんでいて、蕩けるようなゆるい笑みを浮かべていた。
「じゃあさ……もう一回キスしていい?」
「いいよ。いくらでも来い」
待ち構えるように目を閉じて唇を突き出すと、要はくすりと笑ってキスしてきた。
啄むように唇を何度か甘噛みされて、ぬるい舌先が俺の唇の輪郭をなぞるようにくすぐる。
それに応えるように、俺もちょっとだけ舌を出して突っついてみる。
舌先が触れ合った瞬間、いつもの陶酔感が広がって、身体の力が抜けていく。
そのままちろちろと互いの舌をくすぐりあっていると、頭の奥が痺れて、何も考えられなくなっていった。
唇が離れて、熱っぽい視線が俺を見つめる。
要がそんな風に見るからだろう。なんか俺の方まで、顔に熱が集まってきた。
「素直ってさ、俺がどういう奴か、分かってないでしょ」
「分かってるよ。要は俺の幼なじみで、一番のダチだ」
「……うん。そうだよ。俺は素直の幼なじみで、唯一の友達。それに、俺にとって素直は……まあいいや。これからも、よろしくね」
要の手が俺の手を取る。手のひらを合わせ、指を絡めるように握ってきた。
キスを何度もしたからだろう。眠気が一気に来て、視界が霞む。
「なあ、俺が寝てる間に……勝手に布団行くなよ」
「行かないよ。『あっち行け』って言われても、これからはずっと、素直と一緒に寝る」
「あっそ……」
うとうとしていると、要の腕が俺の頭の下に滑り込んでくる。
俺はそれを枕にし、安堵感に満たされながら目を閉じた。
◆
「ふんふんふ~ん♪」
夕暮れに染まる街を歩く男が、鼻歌混じりに歩いていた。
その足取りには、大きな目的を遂げた後のような軽やかさがある。
品の良いグレーのスーツ。それによく合う深いネイビーのネクタイ。色素の薄い、癖毛風のゆるいパーマが掛かった髪。
スタイルが良く、整った顔立ちをしているせいだろう。通りすがる女性の何人かが、彼のことを好意的な視線で見送る。
彼──調月湊はこの上なく上機嫌だった。
まさかこんなに早くたどり着くなんて、やっぱり僕は運がいいな。神様に愛されてる証拠だ。
湊は口元にゆるい笑みを称えて立ち止まり、スーツのポケットから何かを取り出す。
彼の手にあるのは学生証。そこには高校生にしては幼い顔立ちの生徒写真と──空木素直という名前が書いてあった。
案外普通の子だったな。写真でも見なきゃ忘れてしまいそうな、その他大勢って感じの子だ。
でも間違いない。彼の背中に触れた時に確信した。
あの子の能力は、きっと──。
心底嬉しそうな糸のように細められた目が、素直の学生証を眺める。
そしてちゅ、と音を立て、彼は学生証へと口づけた。
「やっと見つけた、僕の本命ちゃん♡」




