第17話 幸福な日々と、その崩壊
「……ん、」
翌朝、いい匂いが鼻をくすぐって、意識が覚醒する。なんとも腹のすく匂いだ。
ぐううと腹が自然と鳴り、あはは、と誰かの笑い声が降ってくる。
誰かが俺を見下ろしていた。垂れ目気味の優しい瞳……要だ。
「おはよ、素直」
何やら要はにこにこしながら、ベッドの縁に腰掛けて、目元を擦っている俺を眺めていた。
「……なに笑ってんの」
「素直の寝顔、子供の頃から変わんないなぁって」
「うざ……いちいちそういう事言うなって……」
上機嫌で恥ずかしいことを言ってくる要を軽く睨み、ぼんやりしながら起き上がる。
テーブルの上に、既に朝食が用意されていた。
「朝ご飯できてるよ。一緒に食べよ?」
「うまっ! なんだこの味噌汁っ! うますぎる!」
「あはは、でしょ? 家の料理長さんに出汁の取り方教えてもらったんだ。お弁当も作っといたよ」
「まじか。サンキュー……めっちゃ助かる」
最初はどうなる事かと思ったけど、要との同居……かなり有りかもしれない。
というわけで、なんやかんやと準備が整って、俺と要の同居生活がスタートした。
話し合いの結果。家事は折半。ベッドは俺、要は下に布団を敷いて寝るという風に決まった──はずだったんだが。
「素直、お風呂沸かしとくね」
「ん、」
「素直、靴紐結ぶね」
「サンキュー」
「素直、背中流すよ」
「うん」
「素直、爪切るからじっとしてて」
「はいはい」
「ほら素直、あ~ん」
「あ~……って、さすがにおかしいだろっ!」
「え?」
ご飯食べさせようとしてきた要に思わず突っ込む。
要は意図が掴めないようにきょとんとしていた。
「飯くらい自分で食べられるわ! それにお前色々とやりすぎっ!」
「そうかなぁ? だって住ませてもらってるんだし……」
「生活費出してもらってんだから、それで充分だって。そんなに気使い過ぎるなよ」
「気なんか使ってないよ~やりたいからやってるだけ……ダメ?」
女子が一瞬で恋に落ちる上目遣いで首を傾げ、要が俺を見つめる。
俺はそれに断固として首を横に振った。
「駄目。要がここに住んでる間、家事は当番制にする!」
二人で話し合って、俺達は分担表を作った。
冷蔵庫に貼り付けると、要は目をキラキラとさせながらそれを見た。
「わぁ~……こういうのもいいねっ! 共同生活って感じ!」
「ちゃんと守れよ。勝手に俺の担当の家事したら追い出す」
念を押すように言うと、要は手を上げて「は~い♡」と上機嫌に返事をした。
それから数日が経った。
風呂に入って就寝前、ベッドに座った要が待ちかねたように柔らかい笑みを浮かべ、両手を広げる。
「素直、おいで」
「……わかったよ」
俺はむくれながらも、対面で抱き合う形でその腕の中に収まった。
能力循環のためにも、できるだけ身体の接触があった方がいいということで、1日1回、こうして長めのハグをしているのだ。
すんすん。
要の鼻先が俺の頭に当たる。どうやら匂いを嗅いでいるようだ。
「素直……俺とおんなじ匂いがする」
「そりゃ同じシャンプー使ってんだからな」
「俺と同じはずなのに、素直はすごくいい匂い……なんでだろうね?」
「恥ずかしいから止めろよ。変態っぽいぞ、それ」
「う~ん。もうちょっとだけ……」
要は夢中でくんくんと俺の頭の匂いを嗅いでいる。
前々から思ってたけど、こいつ、前世は絶対大型犬だな。
腕の中にすっぽり収まりながらそんな事を考えていたが、やはり俺は気になって問いかけた。
「なぁ、これほんとに必要?」
「必要だよ。能力循環の話したでしょ? 能力は心臓に宿ってるんだ。こうやってくっつくのが、効率いいんだって」
要が俺を抱き寄せ、互いの胸板が密着する。
ドクン、ドクンと、確かに鼓動がリンクするような感覚があった。
「でも、毎日キスもしてんじゃん」
「それはそれ、これはこれ」
「なんじゃそら……」
「そういえば、今日のまだだったね。素直、目閉じて」
「はいはい」
要を見上げながら目を閉じる。大きな手のひらが俺の頭を滑り、呼吸が近くなる。俺達の唇は、呆気なく触れ合った。
慣れって怖いな。唇が触れ合う程度じゃ、もう驚きもしない。
触れた唇から、力がゆっくり流れ込んで、吸い取られていく。不思議な感覚だ。
最初は落ち着かなかったはずなのに、今はこの感覚に、安心すら覚えるようになってきた。
だめだ……ねむい。
唇を離し、ぼんやりと要を見上げていると、背中を撫でられた。
「このまま一緒に寝る?」
「やだよ……ベッド狭いし」
「じゃあ今度もっと大きいの見に行こっか。俺お金出すよ」
「いいってそんなん。余計部屋、狭くなる……し、」
背中を撫でる手が心地よいせいだろう。眠気がどんどん深くなる。
我慢できず要の胸に頭を預けると、「おやすみ、素直」と声が降ってくる。
俺はそのまま意識を手放した。
それからも気がついたら何故か俺が要の布団に入って寝ていたり、要がベッドで俺を抱きしめながら寝ていたりと(要いわく、俺がこっちに来いと命令したらしい)。
結局一緒に寝ることが多いので、俺達は結局、俺を壁際にする形で二人で寝るのがデフォになった。
いつの間にか、学校でも手を繋ぐようにもなった。
そのせいか、「神宮寺要と空木素直は付き合ってる」なんて噂話まで出る始末だ。
でも、別にもう、そんなのどうでもよかった。
気にして要と距離を離すのもめんどくさい。だって帰ったらずっと一緒だし。
クラスの奴らがどう思うかより、俺は要と一緒にいることの方が大切だ。
でも……俺達、本当にこれでいいのか?
なんか、変な方向に行ってないか?
「すなお」
声に顔を上げる。要がとろけるような笑みを浮かべて俺を見つめていた。
繋いでいる手に少し力が籠る。だから俺も同じように握り返した。
要が嬉しそうだし、俺はこの関係が嫌じゃない。むしろ落ち着く。
じゃあ、別にいいか。
夜、コンビニにアイスを買いに行こうと誘うと、要は喜んでついてきた。
手を繋いで住宅街を歩く。鈴虫の声が、静かに響いていた。
「すっかり暑くなってきたね」
「だな。そろそろカーペット夏用に替えないと」
「明日学校から帰ったら一緒にやろっか。金曜日だし」
「……そうだな」
距離が近くなれば煩わしくなると思ってた。でも逆だ。
いつでも隣に要がいて、一緒に寝て、起きて、くだらない話をしながら飯食って、休みの前は遅くまで二人でゲームして。
俺は今、かなり幸せかもしれない。
あれから能力者が襲ってくることもないし。
もしかしたら、このまま何事もなく日々が過ぎていくのかも。
だとしたら、俺と要は──。
ふと要の足が止まる。
そして、ビルとビルの隙間の暗がりを、じっと凝視していた。
「要、どうし、た──」
気になって俺も覗き込む。時間が止まった。
ビルとビルの間の暗がり、誰かが倒れていた。
いや、誰かという表現は、『もう』正しくないのかもしれない。
だって、転がっているそれは死体だ。死体が、転がってる。
胸にぽっかりと穴が空いた死体。
比喩じゃない。本当に、胸の部分だけがくり抜かれたみたいに空いている
見開かれたままの瞳は真っ黒に濁って、身じろぎもせず、夜空を見つめていた。




