第11話 奪われた過去①
◆
血だらけでぐったり倒れる男。その上に跨り、拳を振り上げる要。
勝敗は誰がどう見たって明らかだった。
「かなめっ! それ以上はダメだ! それ以上やったら……そいつが死ぬ!」
必死で叫ぶ。だけど、要の表情はぴくりとも動かない。
要の目は、確かにこちらを向いている。
なのに、その瞳には何の感情も浮かんでいない。
「何言ってるの? こいつは素直を殺そうとしたんだよ? この程度で済ませていいはず、ないだろ」
言葉と同時に、拳を振り下ろす。
ごきんと音を立て、男の口から血が噴き出す。
「謝れよ」
バキッ!
「素直を傷つけたこと、謝れ」
ゴキッ!
「『俺の素直』を危険な目に遭わせたこと──死で償え」
「やめろっ!」
背後から抱きつく。だけど要は止まらない。
血の滴る拳を、再び振り上げた。
「それ以上やったらっ──お前とは絶交だ!」
「っ!」
やっと拳が止まる。ハッとしたような顔で要がこちらを振り返った。
「すな、お」
「要、もう終わりだ。充分だろ。勝負はとっくについてる」
要は放心した顔で自分の手と、倒れている男を見る。そして、男の上から退いた。
空間が歪み、ゆっくりと元に戻っていく。
壁の大穴も、自販機も、何事もなかったかのように修復した。
ごうごうと車が走る音が、高架下に反響する。
世界に、日常が戻ってくる。
「……っ……うぅっ……」
静寂を取り戻した空間に、ぐす、ぐすんと嗚咽。
見ると、男が地に転がったまま、背を丸め、顔を両手で覆ってすすり泣いていた。
「……たい……いたいよっ……たすけて、おかあさん……」
完全に戦意を喪失しているみたいだ。恐る恐る男に近づく。
上等そうなスーツはぼろぼろに擦り切れ、顔を覆う手の骨は複雑に折れ、ワイシャツは血だらけ。
目を逸らしたくなるほど、悲惨だった。
敵だということが分かっていても、さすがに心配になってきた。
「おい……大丈夫か?」
恐る恐る男の肩にそっと触れる。
その瞬間、パキンと何かが壊れるような感覚。
それを合図に、指先から、何かが流れ込んできた。
◆
まず鼻を突いたのは、タバコとビールの匂い。
目に映るのは、酷く老朽化した部屋。
壁にはいくつか穴が空き、畳は薄汚れていた。
そして、怒り顔でこちらを見下ろす、薄汚れたタンクトップを着た、ヒゲを生やした男。
降ってきたのは──暴力。
バキッ!
音とともに頬に衝撃。まるでそこがへこんでしまったみたいに、頬に熱が走った。
「何度言ったらわかるんだぁ? 根性がないんだよお前はぁ! 男のくせにうじうじしやがってよぉっ! オラッ! おらぁ!」
「う゛っ!」
脂肪と筋肉を蓄えた足に脇腹を蹴られ、転倒する。
転がったボクを、黒ずんだ足の裏が容赦なく踏みつけた。
ドカ、バキッ!
身体を守るように頭を押さえ、うずくまる。
背中に衝撃と痛みが絶え間なく走って、息が詰まった。
「おとーさんっ! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
ボクは謝る。必死で謝る。理由もわからずに。
だってそれだけが、ボクにできる唯一の抵抗だから。
だけど、その暴力の雨が降り止むことはなかった。
襟ぐりを掴まれ、至近距離で睨みつけられる。
怒りでぐしゃぐしゃに歪んだ、真っ赤な顔。
鬼が存在するとしたら、きっとこんな顔をしているに違いないと思った。
ガタガタと身体が震えて、喉の奥がひくつく。
「道也。お前、自分が悪いってちゃんと分かってんのか?」
「っ……はいっ」
「何が悪かった? 言ってみろ」
その問いかけに、ボクは必死で頭を働かせる。
宿題は学校から帰ってすぐにやった。命令にはちゃんと大きな声で返事をして、すぐに取りかかった。
頼まれてたお酒もタバコも、間違わずに買ってこれた。
急に殴られても、蹴られても、ちゃんと笑顔でいた。
だから何が悪かったのか、分からなかった。
「……わかりません」
バシンッ!
頬をぶたれる。口の中が切れて、血の味が広がった。
「何が悪いかわかってないのに謝ってたのか? 本当にお前はどうしようもなく、ぐずでのろまだ。誰に似たんだ? なあ? 誰に似たんだと思う?」
おとーさんが振り返って問いかける。
すると部屋の隅でおどおどしているおかあさんが答えた。
「わたしです、道也がぐずでのろまなのは……わたしに似たからです」
その答えに満足したように、おとーさんは黒ずんだ歯を見せる。
「聞いたか道也。お前、かーちゃんにまでぐずでのろまって言われてるぞ? 悔しくないのか? あ?」
おかあさんがボクを見る。
その瞳は萎縮しきっていて、だけどボクを心配するように見つめていた。
「いいか道也、お前に友達が一人もいないのはなぁ。全部お前のせいなんだ。お前がくずでのろまなバカだから、一緒にいたいと思う人間なんかこの世に一人として存在しない。この先お前はなぁ、一生人から嫌われて生きていくんだ……分かるか?」
「……はい。ボクはぐずでのろまで、バカです。これからずっと、みんなに嫌われながら、生きていきます」
言われた言葉を繰り返すと、お父さんは満足げに鼻を鳴らした。
「道也、最後のチャンスだ。もう一度聞くぞ。いったいお前のどこが悪いから、父さんは腹を立ててると思う?」
こうやって理不尽な問いかけをされるのは初めてじゃない。
だから、そういう時の答えも、何パターンか用意していた。
ドキドキしながら、そのうちの一つを、ボクは答える。
「ボクが……まだお風呂に入ってなかったから、です」
お父さんがボクの目を覗き込む。心臓が破裂しそうになりながら、ボクは許しの言葉を待った。
だけど──。
ガツン!
頭突きをされる。目の前に星が散った。
どうやら外れだったようだ。お父さんを余計に怒らせてしまった。
「やっぱりお前はどうしようもない馬鹿だ! そんなに風呂に入りたきゃ、俺が入れてやるっ!」
髪を掴まれ、廊下を引きずられる。
ボクはこの後に起こることを理解して、あまりの恐怖に、おしっこを漏らしてしまった。
「ごめんなさいっ! おとーさんっ! ごめんなさい!」
「待ってあなたっ! それだけは──!」
「うるせぇ! 口出しすんな!」
バシンッ!
お母さんが頬をぶたれる。それを見て、ボクは涙が止まらなかった。
湯船に顔を沈められながら、ボクは気づいた。
この世には、二つしかない。
奪うか、奪われるか。
お父さんは奪う側で、ボクとお母さんは、奪われる側。
それが覆る瞬間なんて、来ない。
ボクは死ぬまで奪われ続けるんだって、そう理解した。
「……なんだ、これ」
感覚が、映像が、痛みが、流れ込んでくる。
まるでそこにいるみたいな感覚だ。
これは……俺の記憶?
違う。俺じゃない。
じゃあこれは、一体誰のものだ?




