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第11話 奪われた過去①


血だらけでぐったり倒れる男。その上に跨り、拳を振り上げる要。


勝敗は誰がどう見たって明らかだった。


「かなめっ! それ以上はダメだ! それ以上やったら……そいつが死ぬ!」


必死で叫ぶ。だけど、要の表情はぴくりとも動かない。


要の目は、確かにこちらを向いている。

なのに、その瞳には何の感情も浮かんでいない。


「何言ってるの? こいつは素直を殺そうとしたんだよ? この程度で済ませていいはず、ないだろ」


言葉と同時に、拳を振り下ろす。


ごきんと音を立て、男の口から血が噴き出す。


「謝れよ」


バキッ!


「素直を傷つけたこと、謝れ」


ゴキッ!


「『俺の素直』を危険な目に遭わせたこと──死で償え」


「やめろっ!」


背後から抱きつく。だけど要は止まらない。

血の滴る拳を、再び振り上げた。


「それ以上やったらっ──お前とは絶交だ!」


「っ!」


やっと拳が止まる。ハッとしたような顔で要がこちらを振り返った。


「すな、お」


「要、もう終わりだ。充分だろ。勝負はとっくについてる」


要は放心した顔で自分の手と、倒れている男を見る。そして、男の上から退いた。


空間が歪み、ゆっくりと元に戻っていく。

壁の大穴も、自販機も、何事もなかったかのように修復した。


ごうごうと車が走る音が、高架下に反響する。


世界に、日常が戻ってくる。


「……っ……うぅっ……」


静寂を取り戻した空間に、ぐす、ぐすんと嗚咽。

見ると、男が地に転がったまま、背を丸め、顔を両手で覆ってすすり泣いていた。


「……たい……いたいよっ……たすけて、おかあさん……」


完全に戦意を喪失しているみたいだ。恐る恐る男に近づく。

上等そうなスーツはぼろぼろに擦り切れ、顔を覆う手の骨は複雑に折れ、ワイシャツは血だらけ。


目を逸らしたくなるほど、悲惨だった。

敵だということが分かっていても、さすがに心配になってきた。


「おい……大丈夫か?」


恐る恐る男の肩にそっと触れる。

その瞬間、パキンと何かが壊れるような感覚。


それを合図に、指先から、何かが流れ込んできた。





まず鼻を突いたのは、タバコとビールの匂い。


目に映るのは、酷く老朽化した部屋。

壁にはいくつか穴が空き、畳は薄汚れていた。


そして、怒り顔でこちらを見下ろす、薄汚れたタンクトップを着た、ヒゲを生やした男。


降ってきたのは──暴力。


バキッ!


音とともに頬に衝撃。まるでそこがへこんでしまったみたいに、頬に熱が走った。


「何度言ったらわかるんだぁ? 根性がないんだよお前はぁ! 男のくせにうじうじしやがってよぉっ! オラッ! おらぁ!」


「う゛っ!」


脂肪と筋肉を蓄えた足に脇腹を蹴られ、転倒する。

転がったボクを、黒ずんだ足の裏が容赦なく踏みつけた。


ドカ、バキッ!


身体を守るように頭を押さえ、うずくまる。

背中に衝撃と痛みが絶え間なく走って、息が詰まった。


「おとーさんっ! ごめんなさい! ごめんなさいっ!」


ボクは謝る。必死で謝る。理由もわからずに。

だってそれだけが、ボクにできる唯一の抵抗だから。


だけど、その暴力の雨が降り止むことはなかった。


襟ぐりを掴まれ、至近距離で睨みつけられる。

怒りでぐしゃぐしゃに歪んだ、真っ赤な顔。


鬼が存在するとしたら、きっとこんな顔をしているに違いないと思った。


ガタガタと身体が震えて、喉の奥がひくつく。


道也みちや。お前、自分が悪いってちゃんと分かってんのか?」


「っ……はいっ」


「何が悪かった? 言ってみろ」


その問いかけに、ボクは必死で頭を働かせる。


宿題は学校から帰ってすぐにやった。命令にはちゃんと大きな声で返事をして、すぐに取りかかった。

頼まれてたお酒もタバコも、間違わずに買ってこれた。

急に殴られても、蹴られても、ちゃんと笑顔でいた。


だから何が悪かったのか、分からなかった。


「……わかりません」


バシンッ!


頬をぶたれる。口の中が切れて、血の味が広がった。


「何が悪いかわかってないのに謝ってたのか? 本当にお前はどうしようもなく、ぐずでのろまだ。誰に似たんだ? なあ? 誰に似たんだと思う?」


おとーさんが振り返って問いかける。

すると部屋の隅でおどおどしているおかあさんが答えた。


「わたしです、道也がぐずでのろまなのは……わたしに似たからです」


その答えに満足したように、おとーさんは黒ずんだ歯を見せる。


「聞いたか道也。お前、かーちゃんにまでぐずでのろまって言われてるぞ? 悔しくないのか? あ?」


おかあさんがボクを見る。

その瞳は萎縮しきっていて、だけどボクを心配するように見つめていた。


「いいか道也、お前に友達が一人もいないのはなぁ。全部お前のせいなんだ。お前がくずでのろまなバカだから、一緒にいたいと思う人間なんかこの世に一人として存在しない。この先お前はなぁ、一生人から嫌われて生きていくんだ……分かるか?」


「……はい。ボクはぐずでのろまで、バカです。これからずっと、みんなに嫌われながら、生きていきます」


言われた言葉を繰り返すと、お父さんは満足げに鼻を鳴らした。


「道也、最後のチャンスだ。もう一度聞くぞ。いったいお前のどこが悪いから、父さんは腹を立ててると思う?」


こうやって理不尽な問いかけをされるのは初めてじゃない。

だから、そういう時の答えも、何パターンか用意していた。


ドキドキしながら、そのうちの一つを、ボクは答える。


「ボクが……まだお風呂に入ってなかったから、です」


お父さんがボクの目を覗き込む。心臓が破裂しそうになりながら、ボクは許しの言葉を待った。

だけど──。


ガツン!


頭突きをされる。目の前に星が散った。

どうやら外れだったようだ。お父さんを余計に怒らせてしまった。


「やっぱりお前はどうしようもない馬鹿だ! そんなに風呂に入りたきゃ、俺が入れてやるっ!」


髪を掴まれ、廊下を引きずられる。

ボクはこの後に起こることを理解して、あまりの恐怖に、おしっこを漏らしてしまった。


「ごめんなさいっ! おとーさんっ! ごめんなさい!」


「待ってあなたっ! それだけは──!」


「うるせぇ! 口出しすんな!」


バシンッ!

お母さんが頬をぶたれる。それを見て、ボクは涙が止まらなかった。


湯船に顔を沈められながら、ボクは気づいた。


この世には、二つしかない。


奪うか、奪われるか。


お父さんは奪う側で、ボクとお母さんは、奪われる側。

それが覆る瞬間なんて、来ない。


ボクは死ぬまで奪われ続けるんだって、そう理解した。



「……なんだ、これ」


感覚が、映像が、痛みが、流れ込んでくる。

まるでそこにいるみたいな感覚だ。


これは……俺の記憶?

違う。俺じゃない。


じゃあこれは、一体誰のものだ?


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