第九十四話 引けなくなったのはどっちか
放課後の校舎裏。
夕陽が差し込み、コンクリートの壁を柔らかな金色に染めていた。
人の気配はなく、風の音だけが静かに通り抜けていく。
琴葉は、少し肩をすくめながら立っている。
けれど表情はいつも通り。
敦は、そこが人のいない場所だと気づいた瞬間、反射的に一歩だけ距離を詰めかけた。
肩が触れそうになる寸前で足を止め、慌てて息を整える。
ほんの一瞬。
けれど琴葉は、その気配を確かに感じた。
距離が縮まりかけて、止まった。
敦は逃げるわけでもなく、その場に留まっている。
琴葉は視線を落とし、無意識に肩の力を抜いた。
理由は分からない。
でも、さっきよりこの距離が、少しだけ自然に思えた。
敦が、意を決したように手を差し出す。
引くか、進むか。
どちらとも取れる、短い間。
——そのあとで、
琴葉は少し遅れて手を出した。
視線は合わせない。
でも、逃げる気配もない。
指先が伸びてくるのを見て、敦は息を止めた。
(……待て、それ……反則だろ)
ためらっているのは分かる。
怖くないわけじゃないのも。
それでも「行く」と決めた、その速度。
急がない。
逃げない。
ただ、確実に近づいてくる。
指先が触れる寸前で、敦の心臓が一段、強く跳ねた。
触れてもいい、と許可しているだけ。
逃げ道を残したままの手。
だからこそ、敦の方が引けなくなる。
(……これ、俺が行くしかないやつじゃん……)
指が触れた瞬間、琴葉は驚くほど自然に受け入れた。
拒まない。
でも、求めすぎもしない。
その距離感が、全部刺さる。
敦はほんの少しだけ力を込めた。
確かめるように。
壊さないように。
琴葉も、自然に握り返す。
数秒。
離そうと思えば、離せる。
でも、琴葉の手は逃げなかった。
(……あ、これ……)
理性が抵抗する前に、心臓が答えを出す。
(……もう、無理だな)
敦はゆっくり息を吐いた。
それから、逃げ道を残したままの手を、そっと引き寄せる。
急がない。
強くもしない。
ただ、自然に。
肩と肩が触れた。
琴葉が身を引かないのを確かめてから、
敦はもう一歩だけ距離を詰める。
腕を上げ、抱くほどじゃない位置に添える。
絡める、というより——
そこに置く、という感じだった。
それだけなのに。
(……あー……)
胸の奥が、静かに崩れた。
(……好きだ……無理……)
体温が、腕越しに伝わってくる。
近すぎて、でも嫌じゃない。
敦は、言い訳をやめた。
(……ここまで来たら……俺の負けだ)
逃げない琴葉。
離さない自分。
それで、十分だった。
目が合うと、琴葉は少し赤くなった顔を
反対方向にプイッと向けた。
——その仕草が、
さっきまでの全部を一瞬で台無しにするくらい、
可愛かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
触れる許可は、言葉より静かに伝わります。




