第八十七話 気づいたらもう決まってた
夜は女型で過ごしている琴葉の家。
琴葉両親は居ない。
敦が家に着くと共に『お醤油なくなっちゃったー☆』と言って買い物に
優しい気遣い。
琴葉はそのままダイニングに敦を通してお茶を出した。
机の上で緑茶の湯気が揺れている。
テーブルを挟んで、二人は向かい合って座った。
張りつめた空気だけが、言葉を先回りしていた。
敦は息を吸い、ゆっくり口を開く。
敦「……ちゃんと話したい」
女型の琴葉は、胸元で指を絡めていた。
目は伏せられ、呼吸が少し速い。
唇に触れそうになった指を、思い出したように引っ込める。
――敦が続けようとした、その瞬間。
琴葉「……待って」
短く、でもはっきりとした声。
琴葉は視線を逸らしたまま、指先をきゅっと握りしめる。
琴葉「……なんかさ」
一拍置いて、息を吸う。
琴葉「敦の話を聞いたら」
琴葉「……戻れなくなる気がする」
琴葉「……俺、多分」
琴葉「少しずつ、こっちに寄ってる」
説明は、それだけ。
顔を上げると、敦をまっすぐ見る。
琴葉「ひとつだけ、確かめたい」
琴葉「もし、男だった頃の俺の記憶が薄れるとしても……」
一拍、置く。
琴葉「……それでも」
琴葉「来る?」
沈黙。
敦は、視線を下げた。
敦「……分からない」
間。
敦「正直なところ……分からない」
一度、息を吸う。
……そして、逃げない目で、まっすぐ見つめる。
敦「……でも、その問いの重さは、分かってる」
琴葉の指が、わずかに震える。
椅子が静かに音を立てる。
敦が立ち上がり、琴葉の隣へ来る。
近すぎない距離。
でも、逃げ場のない近さ。
敦「……言わせて欲しい。答えは急がない」
琴葉の肩が、わずかに揺れる。
敦は一度だけ息を整え、
ゆっくりと、その場に膝をついた。
座ったままの琴葉と、目線が合う高さ。
逃げない。
誤魔化さない。
敦「どんな形になっても」
敦「どんな答えを出すことになっても」
一拍。
敦「……それでも」
敦「俺が琴葉を好きだって気持ちは、変わらない」
少しだけ、声が掠れる。
一拍。
敦「琴葉が好きだ」
敦「……付き合ってください」
琴葉は、瞬きもせずに敦を見つめたまま――
数秒、動けなかった。
言葉が落ちた瞬間、
部屋の音がすべて遠のく。
胸の奥で、
何かが一気に溢れた。
琴葉「……っ、は……」
大きく、息を吸って。
吐いて。
もう一度、吸う。
……怖さも、不安も、確かにある。
それでも――
琴葉(………もう…固定されても……いいや)
涙がにじむ。
琴葉(敦と一緒なら)
椅子が軋む音。
琴葉は立ち上がらなかった。
代わりに、そのまま前へ身を預ける。
椅子から落ちるみたいに、
敦の腕の中へ。
ドン、と軽い衝撃。
敦の体が、わずかに揺れる。
敦「……っ」
抱きとめる。
琴葉は、敦の胸に顔を埋めた。
琴葉「……」
琴葉「……心、捕まった」
言った瞬間、息が詰まる。
それが悔しくて、でも――嬉しくて。
琴葉は、笑ってしまった。
琴葉「そんなふうに想われたら……」
声が、少し掠れる。
琴葉「……もう、逃げられない」
敦の服を、両手でぎゅっと掴む。
琴葉「……ばか……」
琴葉「敦のばか……」
顔を上げて、目を合わす。
琴葉「……なんかもう」
琴葉「無理だこれ」
琴葉「好き……めちゃくちゃ好き……!」
琴葉「……どうすんだよこれ」
そう言ったあと、耐えきれなくなったみたいに、
琴葉はもう一度敦の服に顔を埋める。
小さく、深呼吸して。
くぐもった声で。
琴葉「……よろしく、お願いします」
敦は、一瞬だけ言葉を失う。
それから、膝をついたまま、そっと背中に腕を伸ばした。
抱きしめるには、少し遠慮がちで、
でも離す気もない距離。
敦「……良かった」
琴葉の頬に手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で、止まる。
敦「嫌なら、言えよ」
琴葉は小さく首を振る。
琴葉「嫌じゃない」
ゆっくり、ゆっくり距離が縮まる。
唇が触れた瞬間、世界が静かになる。
初めての口づけは、甘くて、震えていて、
でも確かに――約束だった。
触れただけの唇が、そっと離れる。
敦は、ゆっくり息を吐いてから
二人の額をくっつけた。
敦「……なったな」
琴葉「……何が」
敦「恋人に」
琴葉「……あー……」
琴葉「……今の、そういうやつか」
敦「他に何だと思ってたんだよ」
琴葉「……いや……」
琴葉「……思ってたより、ちゃんと来たな」
敦「……」
敦「……行くって決めてた」
言ったあと、ほんの少し視線逸らす
琴葉「……」
琴葉「……それ、効く」
敦「……効かせてるつもりねぇよ」
耳が赤い。
琴葉はくすっと笑う。
そのまま、少しだけ強く抱きしめ返した。
ずっとこんな風に触れたかったのかもしれない。
その夜、どちらも“形”を願わなかった。
敦は、琴葉が望むなら受け入れるつもりでいて、
琴葉はもう、どんな姿でもよかった。
世界は、二人の前で答えを急がなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ちゃんと向き合いました。おめでとう。




