前日譚 守るためじゃなく、隣にいるために
これは、琴葉の両親。
まだ学生だった雅人と桜の小さな物語です。
双鏡の君へ〜前日譚:
桜と雅人の高校・大学時代の物語
高校生の頃
――笑っている教室の中で、桜だけが息を止めていた。
誰も泣いていないのに、胸が苦しい。
誰も怒っていないのに、怖い。
桜「……また、流れ込んでる……」
桜は軽く肩をすくめる。
けれど、そこに寄り添う人がいた。
雅人――クラスメイトであり、誰よりも優しい眼差しを持つ少年。
雅人「桜、大丈夫か?」
桜「うん……大丈夫……ちょっと疲れただけ」
雅人はその言葉をそのまま受け入れず、そっと手を握る。
雅人「また多い日か。今日は早く帰ろう」
桜は小さく笑った。
高校生らしい甘さと、ほんの少しの勇気。
こうして二人の関係は、自然に特別なものになった。
時は流れ
二人は大学生になっていた。
桜は相変わらず人の感情が流れ込む体質を持っている。
だが雅人が隣にいることで少しずつ安定していた。
ある日の夕方、デートを終え帰路につく。
バスの中は、いつも通りだった。
誰かがスマホを見ていて、
誰かが眠っていて、
夕方特有の、少し疲れた空気。
その中で――
隣の桜だけが、急に息を止めた。
笑い声の中に混ざる、濁った感情。
恐怖。
怒り。
終わらせたいという願い。
桜「……っ」
指先が震える。
雅人(……来た)
分かるようになってしまっていた。
桜の指先が冷たくなる時。
呼吸が浅くなる時。
視線が、ここじゃない場所を見る時。
雅人「桜?」
返事が遅い。
次の瞬間、桜の手が強く服を掴んだ。
桜「……いる……」
小さな声だった。
けど震えていた。
雅人の背中に、嫌な汗が流れる。
雅人
理由は分からない。
見えるわけでもない。
でも桜がこうなる時、
“何か”が起きる。
それだけは、もう知っていた。
桜が前を見たまま言う。
桜「……怖い人がいる」
雅人は反射的に周囲を見る。
分からない。
誰も普通に見える。
だから余計に怖かった。
雅人
その時だった。
桜が、立とうとした。
雅人「待て」
思わず腕を掴む。
細い。
信じられないくらい震えている。
桜「……行かなきゃ」
雅人「なんでだよ」
声が少し強くなる。
桜は振り向かない。
ただ、震えた声で言った。
桜「……あなたが、乗ってるから」
桜の身体は震えている。
怖い。
怖い。
怖い。
でも。
肩に触れる手があった。
支えられている。
隣に、雅人がいる。
桜は初めて理解した。
守りたいのは、
世界じゃない。
この人が生きて帰る未来。
雅人は彼女の震えながらも紡いだ言葉で理解した。
守ろうとしてる。
自分を。
こんな状態で。
雅人
怖いに決まってる。
逃げたいに決まってる。
なのに。
雅人は手を離せなかった。
離したら、この人は一人で行く。
絶対に。
雅人「……一人で行くな」
気づいたら立っていた。
足が勝手に動いていた。
桜はゆっくり前に向かって歩く。
力が入らない状態でも雅人を守ろうとする動き。
雅人(なんでお前が前に出るんだよ……)
怖いのは桜も同じなのに。
犯人らしき男が視界に入る。
目が、死んでいた。
雅人の喉が乾く。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
それでも。
隣で震えながら前に進む桜を見て――
逃げられなかった。
桜の声が震えながら響く。
ほとんど掠れていた。
「……お願い……」
大きな声じゃない。
責める声でもない。
ただ、震えていた。
男は眉を歪める。
男(気づかれた……)
カバンの中でナイフを握る手が強くなる。
しかし目の前の少女は、
今にも倒れそうなくらい弱々しかった。
足が震えている。
顔色は白い。
なのに。
逃げない。
男(なんで来るんだよ)
距離がおかしい。
もっと離れるはずだ。
叫ぶはずだ。
誰かを呼ぶはずだ。
なのに。
この二人だけ、
静かに近づいてくる。
まるで――
危険なものが
自分じゃないみたいに。
男の思考が一瞬止まった。
桜「……生きて……帰って……」
その言葉が落ちた瞬間。
男の指が、
わずかに緩んだ。
理解より先に、
体が反応していた。
胸の奥が痛い。
怒りじゃない。
もっと昔の感覚。
帰りを待っていた誰かの記憶。
男(……なんで今さら)
呼吸が乱れる。
忘れるためにここまで来たのに。
その瞬間。
雅人は初めて気づく。
この人は、
彼を止めようとしているんじゃない。
救おうとしている。
男(……は?)
怒鳴られると思っていた。
止めろと言われると思っていた。
なのに違う。
“生きて”?
自分に?
視界の端で、
少女を支える男が見えた。
必死な顔だった。
震えているくせに、
一歩も下がらない。
理解できない。
怖いはずなのに。
守られている側のはずなのに。
二人とも、
こっちを見ている。
敵を見る目じゃない。
桜「……あなたも……」
息が途切れる。
それでも言葉を繋ぐ。
桜「……帰ってほしい人……いるんでしょう……?」
胸の奥で、
何かが軋んだ。
忘れていた顔が浮かぶ。
玄関で笑っていた母親。
くだらない話をしていた友達。
もう連絡を取っていない誰か。
男
思い出したくない。
だから終わらせようとしたのに。
桜の涙が落ちる。
ぽたり、と床に。男は気づく。
この子は、
自分を止めたいんじゃない。
――自分に戻そうとしている。
雅人が一歩前に出た。
雅人「俺たちは敵じゃない」
声は震えている。
格好悪かったと思う。
でも、それでよかった。
桜の隣に立てているなら。
ただ本気だった。
雅人「……終わらせるな」
その言葉が、
刃物を握る手に重くのしかかる。
男の指が震える。
握る理由が、分からなくなる。
男(……俺、何してる)
怒りで埋めていたはずの頭に、
静かな隙間が生まれる。
そこに入り込んできたのは――
「生きて」
という、さっきの声だった。
男
男の手が止まる。
時間が止まったみたいだった。
胸が痛い。
息が苦しい。
涙が出そうになる。
男(……俺だって)
喉が震える。
男(……本当は……)
手の力が抜ける。
その時。
男の目に映った。
少女を支える男の手。
強く握られているのに、
無理に引き止めていない。
逃げることもできたはずなのに、
ただ隣に立っている。
男は理解した。
――ああ。
これは、
失くしたくなかった側の人間だ。
胸の奥で、
何かが音を立てて崩れた。
カバンの中で……
刃物が音もなく落ちた。
男「……もう……いい」
声にならない声。
膝が揺れる。
男「……もう、やめる」
全身の力が抜けた。
男は動けなかった。
ただ理解していた。
自分は止められたんじゃない。
――戻されたのだと。
同時に、桜の体が崩れ落ちる。
雅人「桜!」
抱きとめた瞬間、
自分の手が震えているのに気づいた。
怖かった。
今さら、どうしようもなく。
桜が小さく笑う。
「……生きてる?」
雅人は何度も頷いた。
「ああ。生きてる」
声がうまく出なかった。
たぶん泣いていた。
雅人の声が耳に届く。
フっと糸が切れたように意識が遠のいた。
意識を失った1人分の重さが腕にかかる。
絶対落とさないと引き寄せる。
その時、雅人は思った。
この人は、
きっとこれからも無茶をする。
だから――
せめて。
雅人(俺は、隣にいよう)
守るためじゃない。
この人が倒れた時、
帰ってくる場所になるために。
――それが、
自分にできる唯一の強さだと思った。
そして桜はこの日、初めて知った。
自分の力は、
誰かを救うためにあるんじゃない。
大切な人と、
同じ未来に立つためにあるのだと。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
守る力は特別じゃなく、ただ隣にいることで生まれるものです。




