第十三話 当たり前が揺れる
湿った空気。
雨が来る匂いが、はっきりする。
落ち着かないまま帰って、
結局また外に出て、走っていた。
琴葉の家へ。
インターホンを押す。
間。
ドアが少しだけ開く。
濡れた髪。
シャワー上がりの女型琴葉が、半分だけ顔を出した。
琴葉「……だ、誰?」
敦「……?」
敦「……何言ってんだよ。大丈夫か、琴葉」
琴葉の指が、唇の手前で止まる。
表情を見た敦は眉を寄せる。
敦「お前、その顔する時だいたい無理してる」
一瞬呼吸が止まった。
だが、肩の力と共にそのまま呼吸もほどける。
琴葉「……よかった……」
一拍。
琴葉「ちゃんと……覚えてるんだな」
かすかに笑う。
敦「……覚えてるから来てんだろ」
軽口のつもりだった。
でも琴葉は、笑わない。
琴葉「……もしさ」
少しだけ、間。
琴葉「このまま“固定”されたら……」
視線を落とす。
琴葉「男の俺のこと……敦も、みんなも……覚えてない」
ぽつり。
琴葉「それが……怖かった」
沈黙。
空気が、重い。
敦「……」
敦(……固定?)
一瞬。
敦「……それ、どういう――」
言いかけたところで。
『ガチャッ』
玄関が勢いよく開く。
琴葉母「ちょっと〜!
玄関でそんな顔しないの!」
明るい声。
琴葉母「敦くん、こんばんは。
……来ると思ってたわ」
敦「……こんばんは」
琴葉「お母さん……」
琴葉母は、琴葉の肩を指でつつく。
琴葉母「敦くんが“覚えてた”なら、話すって決めたのね?」
琴葉は少しうつむいて、うなずく。
琴葉「……ん。話す」
琴葉母「そっか」
柔らかく笑う。
琴葉母「じゃあ母さんは退場ね」
一歩下がって、
琴葉母「──敦くん、よろしくね」
敦「……はい」
敦(……よろしく、って)
お母さんは軽く手を振って、奥へ消えた。
静かになる。
敦「……部屋、上がっていいか」
琴葉「……うん」
ドアが閉まる。
靴を脱ぐ音だけが響く。
琴葉「……さ」
敦「ん」
琴葉「覚えてるってさ……」
言葉を探す。
琴葉「当たり前みたいに言われると、ちょっと救われる」
敦「……当たり前だろ」
即答。
一拍。
敦「……忘れる理由、ねぇし」
琴葉の肩がピクッと動いた。
視線が、一瞬だけ揺れる。
……だが、何も言わなかった。
促されて廊下を歩き出す。
敦は半歩後ろ。
さっきの反応が少し気になる。
敦(……何が起きても)
敦(……俺は)
一瞬。
敦
考えが形になる前に遮断する。
敦「……行こう」
部屋のドアが、静かに閉まった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
失うかもしれないと気づいた瞬間から、形は変わります。




