第百十話 触れなかった分だけ意識する
違う日の夕方。
カーテン越しの光が部屋をオレンジに染めている。
床に並んでくつろぐ二人。
女型の琴葉が、何の前触れもなく——
後ろへ体重を預けた。
敦の胸に、背中が当たる。
敦は一瞬だけ止まって、
それから自然に腕を回す。
いつもより、
ほんの少しだけ強く。
琴葉「っ……おい」
敦「ん?」
琴葉「……今の、なんか違う」
敦「そうか?」
琴葉「知ってるやつより深い」
敦「更新された」
琴葉「勝手にアップデートすんな」
敦「仕様です」
琴葉「心の準備って項目ないのかよ」
敦「未実装」
琴葉「クソ仕様!」
でも離れない。
むしろ、
少しだけ力を抜いて体を預ける。
敦はそれに気づいて、
何も言わず呼吸を合わせる。
少し静かになる。
琴葉「……なぁ」
敦「ん」
琴葉「昼と夜、差ありすぎじゃね?」
敦「あるな」
即答。
琴葉「昼、あんな距離だったのに」
敦「昼は昼」
琴葉「雑だな」
敦「仕様だろ?」
琴葉「……まぁな」
一瞬だけ間。
敦が、何か言いかけてやめる。
その沈黙が――近い。
視線が合う。
逸らそうとして、逸らせない。
敦の目が、少しだけ揺れる。
ほんのわずか、距離が縮まった。
琴葉の心臓が跳ねる。
理由は分からないのに、身体が理解してしまう。
来る。
そう思った瞬間、指先が落ち着かなくなる。
逃げるべきか、
待っていいのか、
判断が追いつかない。
敦の視線が、目から唇へ落ちた。
それだけで胸の奥が熱くなる。
琴葉は思わず唇を結び――
少しだけ、顔を近づける。
琴葉(……来る?)
自分でも驚くくらい素直な動きだった。
鼓動がうるさい。
近づくほど、相手の呼吸が分かる。
もう言葉が入る隙間はない。
反射で、目を閉じる。
暗くなった世界の中で、
距離だけがゆっくり消えていく――
——しかし。
触れたのは、
目元の少し横。
軽いキス。
琴葉「っっ!!」
即座に振り返り、
ポカポカ殴る。
琴葉「今のフェイントだろ!!」
敦「痛ぇって」
笑ってる。
琴葉「完全に唇来る流れだっただろ!」
敦「まだ無理そうだった」
琴葉「判断すんな!!」
敦は拳を軽く受け止める。
逃がさない程度に。
敦「ほら」
琴葉「何が」
敦「やっぱ慌ててる」
琴葉、言葉に詰まる。
視線を逸らす。
琴葉「……そりゃ慌てるだろ」
敦「だよな」
それ以上、何もしない。
距離も詰めない。
ただ、
捕まえた手を離すだけ。
沈黙。
琴葉は少しだけ物足りなさを感じて、
でも理由が分からない顔をする。
琴葉「……」
敦「……」
夕方の光だけが動く。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
届かなかった方が、残ることもあります。




