第百八話 何もなかったことにする距離
昼休み直前の教室。
琴葉は、いつも通り敦の席に来る。
琴葉「敦、次の授業さ──」
言いながら、自然に距離が近い。
本人基準では“多分普通”。
周りも気にしていない。
敦だけ心臓が和太鼓
敦(……近)
でも、何も言わない。
敦「うん、分かった」
それだけ。
ーーー
次の時間、移動教室。
廊下は混雑している。
前から人が来る。
横を抜ける。
そのたびに、
琴葉の足が、わずかに外へずれる。
ぶつからない位置。
通り過ぎると、
自然に元へ戻る。
――昼の距離。
敦(……静かだな)
さっきまでの鼓動が、嘘みたいに落ち着く。
しかし――
人の流れが途切れる。
一歩、
琴葉の足が内側に寄る。
敦(来た)
二歩。
少しだけ近い。
三歩目で肩が触れる。
触れた感触が、思ったより軽い。
(現在の距離:肩接触)
(琴葉:無自覚)
(俺:限界)
表情:無。
琴葉「?」
琴葉「どうした?」
敦「いや、順調だなって」
琴葉「何が?」
敦「慣れてきた」
琴葉「何に?」
敦「日常」
琴葉は意味は分からないが、
「そうなのか」と頷いた。
琴葉「……まぁいっか」
そのまま歩く。
人は、もういない。
廊下の先。
曲がり角。
教室棟の影。
完全に二人きり。
――その瞬間。
琴葉の歩幅が、ほんの一拍だけ詰まる。
次の一歩で、
腕が、軽く触れる。
――離れない。
琴葉
止めようとする感覚が、
来ない。
だから
そのまま
離れない。
敦
息が、少しだけ止まる。
(距離:詰んだ)
(人:いない)
(琴葉:無意識)
(俺:終了)
敦「……なぁ」
琴葉「ん?」
敦「ここ、ちょっと寒くないか」
琴葉「え? そう?」
琴葉は少しだけ顔を上げる。
足が止まる。
その一瞬で、
距離が、整う。
琴葉「確かに、風通るな」
また歩き出す。
今度は、
最初と同じ距離。
敦は何も言わない。
琴葉も気づかない。
ただ。
数歩進んで。
人の気配が戻った瞬間、
その距離は、
何事もなかったみたいに
“ちゃんとした”。
でも。
さっき触れていた感覚だけが、
少しだけ残っている。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
普通の中に、ちゃんと混ざっています。




