谷底
「追え、逃がすでない!
必ずや息の根を止めろ!」
全速力で走る喜之助は、後ろから刑部の怒鳴り声を聞いた。
カマイタチの連中は全員、追いかけてきている。
喜之助は夜の森の中をジグザグに、走って行った。
一定方向ばかり逃げては、捕まるかも知れないからだ。
だが月明かりだけでは、前方の状況もよく分からない。
自分でも今いる場所の東西南北さえ、分からなくなってしまった。
しかし今はそんな事を気にしてる場合ではなく、カマイタチから逃げ切る事が肝心なのだ。
思惑とは逆に、喜之助の走るペースは徐々に下がって行った。
息切れがしてきたのだ。
喜之助はゼエゼェあえぎながら、茂みを抜けた。
すると突然、喜之助の体は宙に浮いた。
地面は無かった。
目の前にあるのは、崖だったのである。
闇夜で分からず、危うく奈落の底に落ちる所だった。
だが喜之助は落ちる寸前で木の枝をつかんだので、事なきを得た。
必死に這い上がり、喜之助は崖の上に這い上がった。
もうこれ以上は、進めない。
だからと言って、引き返してる余裕はない。
ここはこの崖に沿って進むしか、方法はないのか。
喜之助がそう考えている内に、カマイタチの連中が走る音が聞こえてきた。
しまった。
早くも追いつかれたのか。
ここは観念するしか、他に方法はないのか。
重蔵を筆頭に、カマイタチが崖にたどり着いた。
喜之助は崖を背に、カマイタチ全員に囲まれる形になった。
「追いつめたぞ、喜之助。
ここら辺で神妙にいたせ」
重蔵が息を、はずませながら言った。
「後ろは谷底。もう逃げ場はない」
木陰から、刑部が現れた。
「お主のような地に堕ちた者が、カマイタチの頭領とはな」
喜之助は刑部に向かって言った。
「言ってくれたな、喜之助」
いきなり刑部の刀が、喜之助の脇腹を貫いた。
喜之助は刀で腹を刺されたらどういう感触がするか、初めて知った。
意識は遠くなり、喜之助は谷底に落ちた。
喜之助の体は、真っ暗闇に消えてしまった。
漆黒の中の谷底を、重蔵は腰をかがめて覗き込んだ。
「これで奴も成仏出来るだろう」
刑部は全員を見回して言った。
「皆の者、大義であった。
我らカマイタチに取っての邪魔者は、地獄に落ちた。
これで全員の士気を高める事が出来る。
さあ、戻って祝杯をあげようぞ」
カマイタチの連中は皆、満足気な表情わを浮かべながら崖を去って行った。
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翌日の朝。
喜之助は死んではいなかった。
脇腹の激痛で目覚めると、周囲を見回した。
自分は断崖の岩壁の隙間から生えている木の枝に、引っかかっているではないか。
木の枝はうまい具合に腹に当たり、エビのように体を折り曲げてぶら下がっていた。
俺は死ななかったのか。
喜ぶべきか、悲しむべきか。
これでは天が、「喜之助、死ぬな。お前にはまだやるべき事がある」と言っているようだ。
俺は生か死かの選択で、強引に生の方を押し付けられている。
ならば生きて寄せよう、この命ある限りは。
喜之助は足元から、血がしたたり落ちているのを見た。
昨日の晩の事が、脳裏に甦ってきた。
俺は刑部に腹を斬られたのだ!
このままの状態で、生きていけれるのだろうか。
それは分からぬ。
だがそんな事は、考えるだけムダだ。
頻死の重傷を負おうとも、命ある限りは生きねばならんのだ。
喜之助は下を見た。
幸いにも、地面にはさほど遠くない。
喜之助は地面へと、落ちた。
落ちた衝撃よりも、腹の痛みの方がひどかった。
残された気力を振り絞り、喜之助は地面を這って進んで行った。
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のどが渇いていた。
二日間、何も食べていない。
何かを口にしなければ、この先進む事は出来ない。
ちょうどその時、近くから川の水が流れる音を聞いた。
良かった、これでのどの渇きを癒す事が出来る。
喜之助はジリジリと水の流れる音のする方へ、這って行った。
草むらを抜けると、そこに川が流れている。
だが昨日大雨が降ったせいで、川の流れはかなり速い。
一度川の中へ落ちてしまえば、今の自分の体力では這い上がる事は不可能だろう。
しかし今は、そんな事を言っている場合では無かった。
何か口の中に入れなければ、動けなくなるほど弱っている。
喜之助は川岸から身を乗り出して、水を飲んだ。
その時、喜之助の体重で川岸の盛り土が崩れた。
雨水を吸いすぎて、地面が柔らかくなっていたのだ。
喜之助は成す術もなく、川に落ちた。
思ったとおり、川の流れはかなり早い。
喜之助はどんどん流されて行くが、もはや泳いで川岸までたどり着ける体力が残っていない。
このまま川の流れに、身を委ねるとするか。
そう思うと喜之助は、手足をバタつかせて水の流れに抵抗するのをやめた。
その途端、喜之助の意識は遠くなった。
緊張の糸が切れてしまうと同時に、喜之助は気を失い、川の下流へと流されてしまった。




