第9話 勝者の行き先
準々決勝を控えた夜、選手団には祝賀の宴が振る舞われた。
結人は宴が苦手だった。人いきれから逃げて、厠を探すふりで裏の回廊へ出た。万神殿の回廊は入り組んでいて、灯りの落ちた区画は、昼間とは別の建物のように静かだった。
道に迷ったのは、本当に偶然だった。
高い天井の下、柱の陰を歩いていた結人は、前方から届く声に足を止めた。人の声ではなかった。響き方が違う。空気を通らずに、直接頭の内側で鳴る種類の声。
——今年の収穫は上々。
——ええ。真名看破まで出た。あれは質がいい。
収穫。結人は柱の陰で息を殺した。競技の話にしては、言葉の選び方がおかしい。
——では勝ち残りは、例年通り。
——例年通り、接収を。
笑い声のようなものが、頭蓋の内側を撫でて、遠ざかっていった。
結人は長いこと、柱の冷たさに背中を預けていた。接収。収穫。質がいい。単語はどれも知っている。知っている単語が、知らない並び方をしていた。そしてその「収穫」の中に、真名看破——自分が、入っていた。
翌朝、結人は宴の疲れを装って部屋に籠り、借り出せる限りのリーグ年鑑を机に積んだ。
調べることは決めてあった。歴代の優勝者。彼らの、その後。
最初の数冊で、指が冷たくなった。
《第九十七回優勝、槌の代理オルヴァル》——記録は優勝の行で終わっていた。凱旋の記述がない。帰郷も、その後の消息も。
《第九十八回優勝、弓の代理メリト》——同じ。優勝の行が、最後の行。
九十九回、百回、百一回。全員だった。優勝の瞬間まで詳細に記され、そこから先が、頁ごと存在しない。まるで名鑑のチギリの項のように。一行で終わる神と、優勝の行で終わる人間。この万神殿は、余白の作り方だけ、妙に手際がいい。
「……接収って、そういうことですか」
呟いた自分の声が、思ったより掠れていた。
机の端に置いた左手の、小指が目に入る。赤い糸は、いまや五本になっていた。契約の一本。境内百周。チギリとの「時が来たら話す」。あとの二本は、いつ増えたのかも定かでない。看破のたびに増えている——ネフェルの秤の日から、その疑いは確信に近づいていた。糸は増える。締めつけはしない。ただ、細い重さが、確かに指に蓄積していく。
勝ち進むほど、記録から消える資格に近づく。看破するほど、糸は増える。
このリーグは、上に向かうほど、何かを支払わされる階段でできていた。
夜、結人は年鑑を一冊だけ持って、縁側のチギリの隣に座った。
「聞くべき時が来たら、話してくれる約束でした」
「……うむ」
「まだ、その時じゃないですか」
チギリは膝の上の袋から飴を出しかけて、やめた。出しかけて、やめる。三百年の癖のような仕草を、結人は初めて見た。
「優勝者の記録が途切れておること。宣誓の一語。おぬしが調べ当てたことは、たぶん、全部ほんとうじゃ」
「たぶん?」
「妾も、全てを知っておるわけではない。知っておるのは——」
言葉が、そこで途切れた。小さな神は月を見上げて、結人が聞いたことのない声で、続けた。
「……勝たせたくないのう、妾は。おぬしを」
風が、縁側を抜けた。
「勝てば、おぬしはあの階段の上へ行ってしまう。負ければ、妾との約束がおぬしを苛む。妾はの、結人。おぬしと契約した日から、ずっと同じことを考えておる。どこで降りれば、おぬしが一番傷つかずに済むか」
「チギリ様」
結人は、自分の左手を見た。五本の糸。それから、隣の小さな横顔を見た。
「僕の約束は『隣で勝つ』です。勝ち方は、まだ決めてません。——降り方も、です」
その夜は、それ以上どちらも喋らなかった。準々決勝は、四日後だった。山の上のほうの席で、誰かがこちらを見ている気配だけが、ずっと消えなかった。




