第10話 縁側と駄菓子
翌日の昼、縁側には日向の匂いがしていた。
「結人。麩菓子と黒棒、どちらが好きじゃ」
「……昨日の今日で、その質問ですか」
「昨日は昨日、麩菓子は麩菓子じゃ」
チギリは真顔でそう言って、袋を二つ、縁側に並べた。重い話は、今日はしない。そういう宣言なのだと分かったので、結人は黒棒を取った。
昼下がりには、賭け札屋のおじさんが宿舎の垣根越しに顔を出した。初戦で結人に張り損ねてから、なぜか妙に懐かれている。
「兄ちゃん、準々決勝の倍率、見たか? 十二対一まで下がったぞ。出世したなあ」
「百対一よりは、ましですね」
「わしはもう兄ちゃん一筋よ。今度こそ大穴で家を建てる」
「重いなあ……」
笑いながら、結人は左手の糸に触れた。五本。日向で見る赤は、夜に見るより薄くて、ただの飾り紐のようだった。チギリが糸の手入れの仕方を教えてくれた。手入れといっても、撫でて、ほどけていないか確かめるだけ。それでも指を動かしていると、昨夜の重さが、少しだけ軽くなった。
日が傾くまで、二人はそうやって、何でもない話ばかりした。
夕方の選手村の食堂は、本戦組と敗者たちが入り混じる、リーグでいちばん奇妙な場所だった。
「よお、一行神の! 聞いたぞ、準々決勝残り」
ラフィだった。敗退したのに、まだ選手村にいる。聞けば、荷運びの仕事を貰って残っているらしい。「荷物を持って走る練習になるだろ」と、彼は大真面目だった。
ネフェルもいた。彼女は自分の陣営の後輩の世話係になっていて、食堂の隅で年下の代理に匙の持ち方から説教していた。目が合うと、彼女は小さく頷いた。それだけだったが、それで足りた。
「賑やかじゃのう」
「負けた人たちが残れる場所があるのは、いいことです」
結人は盆を持って歩きながら、ふと思った。敗者は記録に残らない。でもこうして、ちゃんとここにいる。記録と、いること。その二つは、別のことなのだ。
窓際の定位置に、シグネがいた。今日は豆のスープではなく、黒麦の粥。結人と目が合うと、彼女は珍しく、先に口を開いた。
「……準々決勝、勝ち上がってこい。約束の代理」
「努力します。約束は、できませんけど」
「ふん。神器の主のくせに、約束を安売りしないのだな」
それは、たぶん彼女なりの合格の言い方だった。
結人の寝息が安らかになったのを確かめてから、チギリは窓の桟から夜へ出た。
童女の足は月明かりの参道を音もなく渡り、閉門後の万神殿へ入る。三百年、誰にも数えられなかった神の歩みを、止められる門番はいない。
無人の観客席は、昼間より広く見えた。
チギリはすり鉢の底ではなく、いちばん高い席の並びへ上がった。神々の席。その最上段の中央に、ひとつだけ、誰も座っていない席がある。主催席。開会式でも、再宣誓式でも、空のままだった席。誰もそれを不思議がらない、ということ自体を、不思議がる者もいない席。
「……久しいの」
チギリは、空席に向かって言った。
「妾じゃ。名はもう、名乗れぬが」
夜風が、すり鉢の底を渡っていった。返事は、なかった。ただ、空席の周りだけ、風が少し遅く流れた——ように、古い神の目には見えた。
「まだ、約束は生きておるか。……生きておるなら、なぜ、あの子らを階段に上らせる」
返事のない席に、チギリは長いこと立っていた。
帰り際、書庫の並びの屋根の上で、チギリは足を止めた。眼下、閉じた書庫の窓がひとつ、内側から静かに開いて、銀色の髪が滑り込んでいくのが見えた。槍の代理の娘。彼女が何を探しているのか、チギリには見当がついた。過去のリーグの、接収の記録。おそらくは、兄の名前。
小さな神は、それを結人に告げるべきか、屋根の上でしばらく考えて——今夜は、胸にしまうことにした。
月だけが、全部を見ていた。




