第11話 縁側の茶は冷めて、飴がひとつ多い
縁側の板は、まだ昼の温みを少し残していた。 結人が障子を引くと、チギリはすでに座っていて、駄菓子の小袋を三つ、行儀よく並べていた。
「夜更けに何をしておられる」 「……すみません。眠れなくて」
結人は縁側に腰を下ろした。手の中の紙には、グングニルの絵と矢印が書き殴ってある。逸話の柄の位置、風の切れ方、戻ってくる軌道の癖。
「……ということは、あれは当てるための槍ではなく」 「帰る槍やもしれぬ、と」
チギリが先に言った。駄菓子の袋を開ける音が、答え合わせのように続く。
「よいか、結人。投げられた槍が主の手に戻るなら、それは的を選ばぬ。選ぶのは、槍を放った者の未練よ」
結人は紙の隅にそう書き足した。書きながら、口の中で繰り返す。未練が的を選ぶ。未練が、的を選ぶ。
「今度戦うなら、避けるのではなく」 「引き止めればよい。約束めいた仕草でな」
約束、という言葉に結人は少しだけ肩を強張らせた。三百年、記録されない約束にばかり立ち会ってきた者の口から出ると、その一語は妙に重い。けれどチギリは何も足さず、ただ駄菓子を噛んだ。
しばらく紙を睨んでいた結人は、湯呑みに手を伸ばして――止まった。 すでに、ぬるいくらいに温められている。自分が出す前から。
「……あの、これ」 「冷めては味気ない」
短い答え。結人はそれ以上聞かなかった。かわりに、自分の分の駄菓子袋をひとつ、チギリの膝の前に押し出す。
「今日のところは、これで」
チギリは片眉を上げ、それから小さく笑って袋を受け取った。
「双方のものよな、これは」
結人は返事のかわりに、紙の続きを書き足した。夜風が、二人分の沈黙をちょうどよく攫っていった。
縁側の板が、夜気を吸って冷たかった。
「……だとすると、イツルギの太刀筋には、癖と呼べる癖がないんです」
結人は指を組み、宙に架空の間合いを描いた。チギリは湯呑みを両手で包み、うんうんと頷く。頷きながら、いつのまにか結人の前にも湯呑みが一つ増えていた。いつ置かれたのか、結人にはわからない。
「取っ手がないなら、削り出すしかありません。何度も打たせて、その中から」
「削り出す、か」
チギリは駄菓子の小袋を膝に置いていた。結人が話の接ぎ穂を探して視線を泳がせている間に、その小袋がもう一つ、結人の手元に増えている。結人は気づかず、包み紙を剥いて口に入れた。甘い。ここ数日ずっと同じ味だと思っていたが、今夜のはほんの少し温い。
「すみません、話が逸れました。でも、あの太刀筋を崩すには、こちらから先に型を見せる必要があると思うんです」
「見せて、崩す」
チギリは繰り返し、駄菓子を一つ齧った。齧る音だけが、しばらく庭の虫の声と重なった。
結人は小指を見た。糸は五本。増えるたびに、看破が確信に変わっていく感触がある。だが今夜の糸は、いつもより指に近い場所で緩んでいる気がした。理由はわからない。わからないまま、次の話題に移った。
「あの、五本目の糸なんですが」
「数えるより、結び目を見るがよい」
チギリの声はいつも通り穏やかで、結人はふむ、と口の中で繰り返してから、湯呑みに手を伸ばした。中身が、さっきより増えている。
「……これ、いつの間に」
言いかけて、結人は手を止めた。膝の上の駄菓子の数を数える。三つ。最初は一つだったはずだ。湯呑みの湯気は、結人が話している間、絶えず注ぎ足されていたとしか思えない量だった。チギリの手は、いつも駄菓子の小袋の上にあって、台所に立った気配など一度も感じなかったのに。
「……チギリさん、もしかして」
「もしかして、何じゃ」
とぼけた顔で、チギリは駄菓子を齧る。結人は湯呑みを両手で持ち、頭を下げた。
「ありがとうございます。……頂きます」
チギリは何も言わず、ただ小さく笑った。結人は齧りかけの駄菓子をもう一つ、チギリの膝の小袋に、そっと置き直した。
縁側の板が、朝露で少し湿っていた。
結人は寝間着のまま、欠伸を噛み殺して座った。庭の隅で、鶏が一声鳴く。復活戦の疲れは、まだ肩の奥に残っている。稽古で捻った左手首を、無意識に回した。
痛くない。
結人は自分の手首を見た。晒しが、いつのまにか巻き直されている。結人が寝る前に巻いた覚えより、明らかに丁寧だった。結び目が小さく、動いても擦れない位置にある。
縁側の隅、駄菓子の空き袋が三つ並んでいた。チギリが、また夜更かししていた証拠だった。
「よいか、結人」
声がして、チギリが縁側の角から現れた。手に新しい飴の包みを持っている。童女の顔に、老いた声だけが乗っている。
「今日は薬師のところへ寄れ。手首はまだ本調子ではない」
「……はい。あの、チギリさん」
結人は晒しを軽く撫でた。
「これ、巻き直してくださったんですか」
「妾は知らぬ」
チギリは飴を口に含んだ。頬が小さく膨らむ。答えになっていない答えだった。結人はそれで、ほとんど確信に変わった。
あの初戦の日、観客席は結人の名前だけを覚えて帰った。百対一の賭け札をひっくり返した小僧の名。円形の聖域に響いた歓声も、結人の背に浴びせられたものだった。晒しを誰が巻いたかなど、記録には残らない。
結人は自分の左手を見た。小指に結ばれた糸は、今朝も五本のままだった。増えた分だけ、確かめたいことも増えている。けれど、それを今この場で問い詰める気にはなれなかった。
「すみません。でも」
結人は縁側に置かれた駄菓子の袋の中身を覗いた。まだ封を切っていない一つを、そっと自分の懐に入れる。
「これは、いただきます」
「……それは妾の分ぞ」
チギリが初めて、童女らしい声を出した。頬の飴が止まる。
「隣で勝つ約束は、まだ果たしておりません。せめてこのくらいは、いただかないと」
結人は懐を軽く叩いた。チギリは少しの間、結人の顔をじっと見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……よかろう。次は負けぬ」
「駄菓子勝負でですか」
「試合でじゃ」
チギリは澄まして言い、新しい飴の包みを開けた。庭の鶏がまた鳴いて、朝日が縁側の板を少しだけ温めた。結人は懐の駄菓子の重みを確かめながら、晒しの結び目にもう一度触れた。
朝の光が縁側の板目を白く炙っていた。結人は湯呑みを両手で包み、まだ湯気の名残がある茶を啜る。チギリは隣で、駄菓子の袋を膝に置いたまま、指先で包み紙の端をつまんでいた。
「結人。今日は市が立つ日じゃ」
チギリはそう言って、飴玉を一つ口に放り込んだ。頬がわずかに膨らむ。結人はその横顔を見て、湯呑みを縁側の板に置いた。
「はい。……あの、屋台の水飴、また買ってもらえますか」
「約束しよう」
短い返事だった。いつもならそこに、飴の代わりに何か一つ小言が付く。今日は付かなかった。結人は口の中でそれを転がした。付かなかった。珍しいこともある。
何かを考えている。そう思ったところで、チギリの視線がふっと庭の向こう、生垣の隙間に流れた。誰もいない。鳥の影すらない。それでもチギリの目は、しばらくそこに留まっていた。
「……チギリさん?」
「ん」
返事はしたが、目は生垣に置いたままだった。結人はその横顔の中に、言いかけてやめたような、薄い皺のような影を見つけた。老成した童女の顔に、珍しく迷いのようなものが差している。すぐに消えた。消えたのに、結人の胸の内側には残った。
「すみません。何か、あったんですか」
「何もないわ」
齧りかけの煎餅の欠片が、チギリの膝からぽろりと落ちた。それを拾い上げる仕草は、いつもと変わらぬ緩やかさだった。だが結人は、その拾い上げるまでの一瞬の間の長さを、無言のうちに数えていた。普段より、指の動きが遅い。
「……ということは」
言いかけて、結人は続きを飲み込んだ。何が「ということは」なのか、自分でも分からなかった。ただ、何かが糸の向こう側で動いた気配だけがあった。手の中の約束の糸は、変わらず結ばれたまま、緩みもせず張りもせず、静かにそこにあった。
「結人」
「はい」
「そなたの茶、冷めておるぞ」
言われて見ると、湯呑みの湯気はとうに消えていた。結人は慌てて口をつけ、ぬるくなった茶を飲み干す。チギリは笑って、また一つ飴を口に入れた。何もなかったように、いつもの縁側の時間が続いていく。
昼が近づき、光の角度が変わる。生垣の影が縁側に半分届く頃、結人はふと気づいた。今朝もらった飴の数が、いつもよりひとつ多い。数えてから、なぜだかそれを言い出せなかった。
チギリの横顔には、もう何の影もなかった。ただ、結人の中にだけ、その一瞬の色が残って、行き場のないまま漂っていた。




