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最弱神の代理戦争  作者: 悠暉


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12/14

第12話 三百年分の指、赤い糸がまた一本

書庫の午後は、埃の匂いがした。


結人は棚の奥、誰も引かない段から一冊を抜いた。革表紙は反り、題箋の文字はほとんど擦れている。『神代取次記・断』。


頁を繰る。戦役の名、講和の日付。読み進めるうち、指が止まった。


仲介者の欄に、ただ一行。


――糸を結びし小さき者、名は記されず。


結人は口の中で繰り返した。糸を結びし、小さき者。


前後の頁を探しても続きはない。まるでそこだけ、時間が呑み込んだように余白だった。


結人は小指を見た。真名を看破するたびに増える赤い糸が、そこに一本、また一本と巻きついている。勲章のようなものだと思っていた。


万神名鑑の欄外に、チギリの一行があったのを思い出す。約束を司る。記録なし。


記録なし、と最初の頁にも書いてあった。同じ言葉が、離れた場所で符合する。


窓の外が茜色に傾く頃、結人は本を閉じた。


夕刻の縁側で、チギリは湯呑みを両手で包んでいた。結人が異本の話をすると、小さな神はしばらく黙り、それから茶を一口すすった。


「古い話じゃ」


それだけだった。三百年、婚礼や手打ちに立ち会ってきたと、以前チギリ自身が言っていたのを結人は覚えている。誰の記憶にも残らない約束の場所に、いつも一人で立っていたのだと、今更のように思い当たる。


「すみません、勝手に読んで」


「よい。読まれて困るような約束は、最初からせぬ」


チギリは笑った。だが目は笑っていなかった。


隣で勝つ、と交わした約束を、結人は小指の糸のようにそっと握り直した。


駄菓子の小袋を、チギリは懐から取り出した。かりんとうを一本、指先でつまむ。


「もう少しだけ、聞いてもいいですか」


「うむ」


「異本には、最初の休戦、と書いてありました。神々が二柱、剣を収めた場所に、名の無い神が一柱、立ち会ったと」


チギリはかりんとうを齧った。ざくり、と音がして、しばらく答えがなかった。


「二柱、というのは間違いじゃ」


「……というと」


「三柱じゃったかもしれぬ。四柱じゃったかもしれぬ。数えておらなんだ」


はぐらかされている。結人にもそれくらいは分かった。だが、数えなかった、という言い方には、覚えている何かの輪郭があった。


「怖かった、とは思わなんだ」


チギリが呟いたのは、結人の問いへの答えではなかった。ひとりごとのようでいて、確かに結人に向けられていた。


「双方とも、剣を抜いたまま近づいてきた。妾はただ、間に立っただけじゃ。それだけで、済んだ」


「済んだ、というのは」


「済んだ話じゃ」


二袋目の駄菓子に手を伸ばしながら、チギリはそれ以上を言わなかった。湯呑みの茶はすでに冷めていて、それでもチギリは両手で包んだままだった。


「名は」


「妾の名など、とうに支払いに使うてしもうた」


聞いたことのある台詞だった。前にも同じことを言われた気がする。同じ言葉が、違う夜に、同じ重さで置かれる。


日が落ちて、縁側の色がすっかり暗くなった。虫の声が遠くで鳴き始めている。結人は湯呑みにもう一杯、茶を注ごうとして、急須がとうに空なのに気づいた。


「明日も、稽古じゃ」


チギリが言った。それだけで、今日の話は終わりだと分かった。結人は頷いて、空の急須を持って立ち上がる。振り返ると、チギリはまだ縁側に座ったまま、暗い庭のほうを見ていた。何か遠いものを数えているような横顔だった。


書庫の灯りは、縁側の暗さより少しだけ明るい。結人は空の急須を戸口に置いたまま、万神名鑑の重い頁をもう一度開いた。


欄外の一行。約束を司る。記録なし。


その横に、異本の綴じ目からわずかに覗く紙片があった。表と裏を確かめても、書かれているのはたった一行だけだ。あとは白い。三百年分の余白が、そこにひとつだけ折り畳まれている。


結人は口の中で繰り返した。記録なし、というのは、書かれなかったのではなく、書けなかったということではないか。アヌビスの秤――《隠り事の秤》は、言い落とされたものの重さを量る。誰かが黙ったぶんだけ、秤は傾く。この頁の白さも、同じ理屈で量れるはずだ。誓約に立ち会った者の名が、誓約そのものに呑まれて消える。仲介の代償とは、たぶんそういう形をしている。


小指の先が、かすかに疼いた。見ると、五本の赤い糸が、灯りの色を吸っていつもより深く見える。看破のたびに増えるそれを、結人はまだ勲章のように思っていた。だが今夜は、数えるより先に、疼きのほうが気になった。


宣誓文の一語の違和感が、ふいに繋がった。あの言葉は、朗読者が知らずに省いた一語ではなく、誰かがあらかじめ抜いておいた一語だったのではないか。抜かれた場所に、名が入るだけの隙間がある。


虫の声が、書庫の窓の外でまだ鳴いていた。結人は頁を閉じずに、しばらくその白さを見ていた。チギリが「勝たせたくない」と漏らした夜のことを思い出す。あの声は、負けを厭う声ではなかった。隣で勝つ、と約束した夜の声とも違う響きだった。二つの約束が、同じ小さな胸の中でどちらも本物のまま、まだ結ばれずにいる。


灯りが一度、揺れた。風のせいだ、と結人は思うことにした。頁の余白に指を置く。紙は冷たく、何も書かれていないのに、そこだけ薄く凹んでいる気がした。何度も指でなぞられた跡のように。


結人は異本を閉じ、灯りを落とした。深夜の廊下を歩きながら、明日の稽古のことより、あの一行だけの頁のことを考えていた。名は支払いに使われた、とチギリは言った。支払われた先が、この余白のどこかにあるのだとしたら――結人は小指の糸をそっと握った。まだ、勲章だと思っていたかった。


回廊の外れ、月明かりの縁石に、チギリは膝を抱えて座っていた。手の中の飴は、もう半分に減っている。


結人は隣に腰を下ろした。異本のことは、鞄の底に仕舞ったままにした。


「……ということは」


言いかけて、やめた。看破の呼吸が、喉の途中で止まる。あの一行だけの頁に、名を差し込むことはできる。多分、今夜のうちに。けれど結人は、飴の包み紙を丸めるチギリの指を見ていた。小さな指だ。三百年分の約束を、そこで幾つも結んできた指。


「今日は、何も聞きません」


チギリは瞬きをした。それから、ふ、と笑う。


「よいか、結人。妾は何も、隠しておらぬぞ」


嘘だ。けれど責める気にはならなかった。結人は小指を見た。五本の赤い糸が、月の光に細く透けている。勲章だと思っていた。今も、そう思うことにする。


「勝たせたくない、と仰いましたよね」


「……」


「隣で勝つ、とも。すみません、両方、本当なんだと思います。だから」


結人は立ち上がった。夜風が、廊下の灯りを揺らす。


「僕が、両方守れる勝ち方を見つけます。次の三本勝負も――その先の、あの必中の槍も」


チギリは答えなかった。ただ、飴の包み紙を、もう一度丁寧に畳んだ。結人はそれを、返事だと思うことにした。

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