第12話 三百年分の指、赤い糸がまた一本
書庫の午後は、埃の匂いがした。
結人は棚の奥、誰も引かない段から一冊を抜いた。革表紙は反り、題箋の文字はほとんど擦れている。『神代取次記・断』。
頁を繰る。戦役の名、講和の日付。読み進めるうち、指が止まった。
仲介者の欄に、ただ一行。
――糸を結びし小さき者、名は記されず。
結人は口の中で繰り返した。糸を結びし、小さき者。
前後の頁を探しても続きはない。まるでそこだけ、時間が呑み込んだように余白だった。
結人は小指を見た。真名を看破するたびに増える赤い糸が、そこに一本、また一本と巻きついている。勲章のようなものだと思っていた。
万神名鑑の欄外に、チギリの一行があったのを思い出す。約束を司る。記録なし。
記録なし、と最初の頁にも書いてあった。同じ言葉が、離れた場所で符合する。
窓の外が茜色に傾く頃、結人は本を閉じた。
夕刻の縁側で、チギリは湯呑みを両手で包んでいた。結人が異本の話をすると、小さな神はしばらく黙り、それから茶を一口すすった。
「古い話じゃ」
それだけだった。三百年、婚礼や手打ちに立ち会ってきたと、以前チギリ自身が言っていたのを結人は覚えている。誰の記憶にも残らない約束の場所に、いつも一人で立っていたのだと、今更のように思い当たる。
「すみません、勝手に読んで」
「よい。読まれて困るような約束は、最初からせぬ」
チギリは笑った。だが目は笑っていなかった。
隣で勝つ、と交わした約束を、結人は小指の糸のようにそっと握り直した。
駄菓子の小袋を、チギリは懐から取り出した。かりんとうを一本、指先でつまむ。
「もう少しだけ、聞いてもいいですか」
「うむ」
「異本には、最初の休戦、と書いてありました。神々が二柱、剣を収めた場所に、名の無い神が一柱、立ち会ったと」
チギリはかりんとうを齧った。ざくり、と音がして、しばらく答えがなかった。
「二柱、というのは間違いじゃ」
「……というと」
「三柱じゃったかもしれぬ。四柱じゃったかもしれぬ。数えておらなんだ」
はぐらかされている。結人にもそれくらいは分かった。だが、数えなかった、という言い方には、覚えている何かの輪郭があった。
「怖かった、とは思わなんだ」
チギリが呟いたのは、結人の問いへの答えではなかった。ひとりごとのようでいて、確かに結人に向けられていた。
「双方とも、剣を抜いたまま近づいてきた。妾はただ、間に立っただけじゃ。それだけで、済んだ」
「済んだ、というのは」
「済んだ話じゃ」
二袋目の駄菓子に手を伸ばしながら、チギリはそれ以上を言わなかった。湯呑みの茶はすでに冷めていて、それでもチギリは両手で包んだままだった。
「名は」
「妾の名など、とうに支払いに使うてしもうた」
聞いたことのある台詞だった。前にも同じことを言われた気がする。同じ言葉が、違う夜に、同じ重さで置かれる。
日が落ちて、縁側の色がすっかり暗くなった。虫の声が遠くで鳴き始めている。結人は湯呑みにもう一杯、茶を注ごうとして、急須がとうに空なのに気づいた。
「明日も、稽古じゃ」
チギリが言った。それだけで、今日の話は終わりだと分かった。結人は頷いて、空の急須を持って立ち上がる。振り返ると、チギリはまだ縁側に座ったまま、暗い庭のほうを見ていた。何か遠いものを数えているような横顔だった。
書庫の灯りは、縁側の暗さより少しだけ明るい。結人は空の急須を戸口に置いたまま、万神名鑑の重い頁をもう一度開いた。
欄外の一行。約束を司る。記録なし。
その横に、異本の綴じ目からわずかに覗く紙片があった。表と裏を確かめても、書かれているのはたった一行だけだ。あとは白い。三百年分の余白が、そこにひとつだけ折り畳まれている。
結人は口の中で繰り返した。記録なし、というのは、書かれなかったのではなく、書けなかったということではないか。アヌビスの秤――《隠り事の秤》は、言い落とされたものの重さを量る。誰かが黙ったぶんだけ、秤は傾く。この頁の白さも、同じ理屈で量れるはずだ。誓約に立ち会った者の名が、誓約そのものに呑まれて消える。仲介の代償とは、たぶんそういう形をしている。
小指の先が、かすかに疼いた。見ると、五本の赤い糸が、灯りの色を吸っていつもより深く見える。看破のたびに増えるそれを、結人はまだ勲章のように思っていた。だが今夜は、数えるより先に、疼きのほうが気になった。
宣誓文の一語の違和感が、ふいに繋がった。あの言葉は、朗読者が知らずに省いた一語ではなく、誰かがあらかじめ抜いておいた一語だったのではないか。抜かれた場所に、名が入るだけの隙間がある。
虫の声が、書庫の窓の外でまだ鳴いていた。結人は頁を閉じずに、しばらくその白さを見ていた。チギリが「勝たせたくない」と漏らした夜のことを思い出す。あの声は、負けを厭う声ではなかった。隣で勝つ、と約束した夜の声とも違う響きだった。二つの約束が、同じ小さな胸の中でどちらも本物のまま、まだ結ばれずにいる。
灯りが一度、揺れた。風のせいだ、と結人は思うことにした。頁の余白に指を置く。紙は冷たく、何も書かれていないのに、そこだけ薄く凹んでいる気がした。何度も指でなぞられた跡のように。
結人は異本を閉じ、灯りを落とした。深夜の廊下を歩きながら、明日の稽古のことより、あの一行だけの頁のことを考えていた。名は支払いに使われた、とチギリは言った。支払われた先が、この余白のどこかにあるのだとしたら――結人は小指の糸をそっと握った。まだ、勲章だと思っていたかった。
回廊の外れ、月明かりの縁石に、チギリは膝を抱えて座っていた。手の中の飴は、もう半分に減っている。
結人は隣に腰を下ろした。異本のことは、鞄の底に仕舞ったままにした。
「……ということは」
言いかけて、やめた。看破の呼吸が、喉の途中で止まる。あの一行だけの頁に、名を差し込むことはできる。多分、今夜のうちに。けれど結人は、飴の包み紙を丸めるチギリの指を見ていた。小さな指だ。三百年分の約束を、そこで幾つも結んできた指。
「今日は、何も聞きません」
チギリは瞬きをした。それから、ふ、と笑う。
「よいか、結人。妾は何も、隠しておらぬぞ」
嘘だ。けれど責める気にはならなかった。結人は小指を見た。五本の赤い糸が、月の光に細く透けている。勲章だと思っていた。今も、そう思うことにする。
「勝たせたくない、と仰いましたよね」
「……」
「隣で勝つ、とも。すみません、両方、本当なんだと思います。だから」
結人は立ち上がった。夜風が、廊下の灯りを揺らす。
「僕が、両方守れる勝ち方を見つけます。次の三本勝負も――その先の、あの必中の槍も」
チギリは答えなかった。ただ、飴の包み紙を、もう一度丁寧に畳んだ。結人はそれを、返事だと思うことにした。




