第13話 三本目の勝機、記されぬ名
深夜の聖域に、灯りが円く落ちていた。
知恵の女神の代理は、痩身の男だった。槍も盾も持たず、ただ両手を軽く組んで立っている。観客席は静かだ。倍率は十二対一まで下がっていた。
力比べ、と審判が告げる。台座の石球を、より高く持ち上げた方が勝ち。
代理が石球に触れた。持ち上げる動きに、迷いがない。だが結人は、その手前の一歩を見ていた。踏み込む前に、必ず爪先で地面を確かめている。
「……ということは」
結人は口の中で呟いた。転ばないことに、価値を置いている。
自分の番になり、石球を抱えた。重い。腕が軋む。それでも、代理の記録には及ばない。判定の声が響き、賭け札がまた読み上げられる。
負けた一本。だが結人は代理の顔を見ていた。勝っても、笑わない。石球を置く手つきが、静かすぎる。まるで、失敗しないことだけを守ってきたような。
沈黙の間に、隙間があった。称賛されて当然という顔ではない。むしろ、称賛されることに慣れていない。
(誇りは、勝つことにはない)
結人はそう思ってから、言葉にする前に打ち消した。まだ仮説だ。二本目、謎かけで確かめればいい。
縁の外で、チギリが駄菓子の袋を鳴らした。
「よいか、結人。負けた勝負にも、拾うものはある」
「はい。……あの、拾いました、たぶん」
答えてから、結人は自分の言い方に苦笑した。謝ってから頷くのは、いつもの癖だ。
夜風が、聖域の灯りをわずかに揺らした。二本目の支度が始まる。結人は、崩すべき輪郭の形を、まだ言葉にしないまま握りしめていた。
支度の時間は、思ったより長かった。石畳の上、燭台の油が減っていく音がする。結人は膝を抱え、代理の沈黙の間を思い出していた。石球を置く手つき。称賛に慣れていない指先。
(問いは、答えを求める形にしない)
結人は口の中で言葉を組み立てる。勝ち負けを問えば、代理は答えを持っている。持たない問いを渡さなければならない。
「もしかして……勝った時にだけ、誰かに見てほしかった、とか」
呟いてから、慌てて手で口を覆った。まだ仮説だ。声に出す段階じゃない。
チギリが縁の敷石に座り、駄菓子の袋を膝に置いていた。今夜は齧る手が遅い。目は結人の方を見ているが、少し伏せられている。
「よいか、結人。問いは、刃のように使うでない」
「はい。……でも、これは刃じゃなくて、鍵だと思ってます。開けたら、閉じられなくなる鍵」
チギリは何も言わず、駄菓子を一つ齧った。乾いた音が聖域の静けさに落ちる。
結人はふと、いつも縁の外にいるはずの誰かの気配がないことに気づいた。
「あの、シグネさんは」
「……図書のことじゃ」
チギリの答えは短く、いつもより短かった。目を伏せたまま、袋の口を折り直す。
「図書?」
「本を読む夜もある。人にはな」
それ以上は言わなかった。結人はそれ以上聞かなかった。訊けば何かが崩れる気がして、代わりに膝の上の手を握った。
(誓約に立ち会った者の名は、誓約に呑まれる)
いつかチギリが呟いた言葉が、今また耳の奥で鳴った。三百年、記録されない約束の傍らに立ち続けてきた者の顔は、称賛されて当然という顔とは、たぶん一番遠い場所にある。
結人は代理の顔を思い出す。石球を置く、静かすぎる手つき。あれもまた、記録に残らない何かを守ってきた手なのかもしれない。
(勝つことが、誇りじゃないなら)
言葉の輪郭が、少しずつ縁を持ち始める。まだ声に出す形ではない。だが、二本目の銅鑼が鳴る頃には、きっと問いの形になっている。
夜が薄くなっていく。聖域の灯りが、白む空に溶けていく。チギリが袋を丁寧に閉じ、懐にしまった。
「支度は済んだか」
「……はい。たぶん」
答えてから、結人はまた苦笑した。謝る癖も、頷く癖も、今夜はまだ抜けない。
銅鑼の支度をする係の足音が、遠くから近づいてくる。結人は立ち上がり、握りしめていた言葉を、そっと喉の奥に据え直した。
銅鑼が鳴った。
謎かけの番だ。代理は石球を膝の上に置き、静かすぎる手つきでそれを撫でた。結人は喉に据え直した言葉を、ゆっくりと解いた。
「では、お伺いします。……誰にも見られず果たされた約束は、誰のものになるのでしょうか」
審判の砂時計が返された。代理の手が止まった。石球を撫でる指が、途中で止まったまま動かない。
「……」
観客席のどよめきが、遠くから届いて消えた。結人は代理の目を見た。答えを探す目の動きが、ない。左右にも上にも動かない。ただ石球の面を見つめたまま、瞬きだけを数えるように繰り返している。
「すみません」結人は小さく言った。「意地悪な問いだったかもしれません。でも」
続きは出なかった。代理の唇が、一度開いて、閉じた。そのまま、砂が全部落ちた。
審判の旗が結人の側に上がる。歓声より先に、静けさが一拍あった。代理は石球を膝の上で握り、俯いたまま動かない。誰かに教わった型を崩されたあとの、姿勢だけが残っている。結人はそれ以上、何も言わなかった。
縁の外で、チギリが駄菓子の欠片を口に運ぶ手を止めていた。目を伏せている。結人と目が合うと、すぐに逸らされた。
「結人」
「……はい」
「勝ったからというて、次も勝てるとは思うな」
言葉はそれきりだった。三本目の支度を告げる銅鑼が、いつもより早く鳴った気がした。係が神器台を運んでくる。代理は石球を懐にしまい、代わりに古びた天秤を取り出した。皿の一方が、わずかに歪んでいる。
結人は左手の小指から赤い糸をひと結びぶんだけ緩めながら、代理の手つきをもう一度見た。天秤の歪みを直そうとしない。歪んだまま、当たり前のように使う手つきだった。
(……ということは)
言葉になる前の輪郭が、また縁を持ち始める。銅鑼が最後の音を響かせた。
糸が夜気を捉えた。結人は跳ばない。半歩だけ、天秤の傾いた側へ寄った。
代理の手が皿を支え直そうとする。歪みを直す動きは、遅い。糸の先はその隙間を抜けて、歪んだ皿に軽く触れただけで手元へ戻ってきた。当てるのではなく、触れて、確かめる。
(……ということは、この神器は歪みごと使うものだったんですね)
天秤が大きく傾いだ。代理は膝をつき、皿を両手で支えたまま動かなくなった。三つ目の勝利条件、戦闘不能。係の声が響き、審判の旗が結人の側へ上がった。
観客席が一斉に沸いた。名が呼ばれる。結人、結人、と繰り返される音の中で、チギリは駄菓子の欠片を口に運びながら、いつもと同じ顔で拍手していた。
記録係が羊皮紙に何かを書きつけている。結人はその手元を横目で見た。勝者の名。所要時間。使用神器。三行、それだけだった。
退場する通路の隅、天秤の欠片を拾い集めていた小柄な係の少年がいた。試合の途中、皿が跳ねて割れかけた破片を、誰にも気づかれぬうちに手のひらで受け止めていたのを、結人は今になって思い出す。あのとき代理が体勢を崩さずに済んだのは、その一瞬のおかげだったはずだ。
「あの、今のは」
少年は首を振った。名も告げず、破片を布に包み、通路の奥へ消えていく。
記録係の羊皮紙には、その名は一行もなかった。
結人は小指を見た。赤い糸は五本のまま、今日は少しだけ、重い気がした。




