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最弱神の代理戦争  作者: 悠暉


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第14話 小指に増える糸、動かぬ指先の恐怖

聖域の外れ、木陰の縁台で、結人は左手を陽にかざした。


小指に巻きついた赤い糸は、五本になっていた。看破するたびに一本。数えるたびに、胸の奥がわずかに膨らむ。誰にも見えない勲章のようなものだと、結人は思っている。百年出ていない勝ち筋を、自分だけが手繰り寄せている証だと。


主催席は今日も空だった。誰も気にしていない。結人もまた、気にしないことにした。


「……ということは」


呟いてから、結人は自分の癖に苦笑した。看破の余韻で口が勝手に動く。糸の結び目を指の腹でなぞる。硬い。皮膚の内側まで食い込むように、結び目が指の付け根に沈んでいた。


そこで、ふっと疼いた。


傷ではない。痛みでもない。もっと奥、骨の際にあるはずのないものが引かれる感じ。結人は思わず手を握り、開いた。糸は緩まない。


「気づいたか」


駄菓子の袋を提げたチギリが、縁台の端に腰を下ろした。目は結人の小指を見ている。


「契約を切れば、糸は解ける。切るか」


静かな申し出だった。恩着せがましさも、迷いもない。ただ差し出された選択。


結人はしばらく、その言葉の重さを量った。それから首を横に振る。


「すみません。でも、約束は結んだ双方のものでしょう。片方だけで切るのは、チギリさんの流儀に反すると思います」


チギリは何も言わなかった。駄菓子を齧る音だけが、しばらく続いた。


結人はもう一度、小指を陽にかざした。五本の糸は、さっきより少しだけ、重く見えた。


陽が縁台の影を少しずつ伸ばしていく間、チギリは何も言わなかった。駄菓子の袋が、かさ、と鳴る。結人はその音の間隔で、時間の経つのを数えていた。


つい、考えてしまう。糸を切れば解けると、チギリは事も無げに言った。まるで自分の持ち物を差し出すように。だが、契約とはそういうものだったろうか。結人は五本の糸をもう一度指の腹で確かめる。硬い結び目のひとつひとつに、覚えのある看破の瞬間が刻まれている。


「チギリさんは、簡単に切れるものを、簡単に切らない人だと思っていました」


「切れぬのではない。切らぬのじゃ」


短い答えだった。駄菓子の欠片を口に含み、チギリは観客席の方へ目をやる。万神殿の最上段、いつもそこだけ人がいない。誰も座らない主催の席が、今日も陽を吸って白く光っているだけだった。結人はその空白を、当たり前のものとして見過ごした。


「妾の名など、とうに支払いに使うてしもうた」


チギリの声は、独り言のように低かった。結人は何のことか分からず、ただ小指の糸を見た。赤い糸が陽に透けて、血の色より薄く見える。


「支払いって……」


「よいか、結人。糸は、結んだ側にしか重さが分からぬ」


それ以上は言わなかった。駄菓子の袋を丸め、懐にしまう。夕刻の風が縁台を撫で、聖域の旗が乾いた音を立てた。結人は握った拳を開き、もう一度指を陽にかざす。五本の糸は、朝より確かに重い。だが、それを手放す気には、どうしてもなれなかった。


「約束は、ちゃんと返しますから」


チギリは答えず、ただ立ち上がって縁台を降りた。小さな背中が、夕陽に長く伸びる影を引きずっていく。結人はその影の先、誰もいない主催席をもう一度見上げ、なぜだか胸の奥がひやりとするのを感じた。


夕陽が聖域の石畳を橙に染めるころ、結人は縁台に残った駄菓子の包み紙を拾った。チギリの匂いが、まだそこに薄く残っている。


手のひらの上で紙屑を丸めながら、結人は考える。妾の名など、とうに支払いに使うてしもうた。あの一言だけが、耳の奥で何度も同じ場所を擦っていく。


……だとすれば、名を差し出した先に、何かを得たということだ。三百年、婚礼や手打ちの席に立ち会い続けた小さき者が、自分の名を手放してまで守ったものが、きっとある。


夜になって、結人は宿舎の廊下でチギリの部屋の前に立った。障子の隙間から、駄菓子の袋を膝に置いたまま動かない小さな影が見える。声をかけようとして、やめた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。


「約束は、ちゃんと返しますから」――昼間そう言った自分の声が、今は薄っぺらく感じられる。返す、と口にするのは容易い。だが返す先の相手が、名前という土台ごと失っているのだとしたら、結人の約束は何に結ばれているのだろう。


障子越しの影が、ふ、と動いた。駄菓子を齧る音。それだけで、結人は自分が見てはいけないものを見ていた気がして、そっと廊下を退がった。


自室に戻り、行灯の下で改めて左手を開く。五本の糸が、赤くたわんで指の間に食い込んでいる。次にまた真名を看破すれば、これは六本になる。勝つためには、それが一番確かな手段だった。だが、この糸がチギリの意思ではなく、権能そのものの理だと知ってしまった今、結人は指を握り込むことも、開き切ることもできずにいた。


結人は左手を握ろうとして、途中で止めた。五本の赤い糸が、指の付け根でわずかに突っ張っている。……ということは、と口の中で呟きかけて、続きが出てこない。ただの糸だと思っていた。数えるたび誇らしかった、勝利の証だと。だが今、拳を作ろうとする動きに、糸のほうが先に応え、指を止めている。結人が縛っているのではない。糸が、結人を縛っている。


明日の対戦相手は、もう決まっている。シグネ――あの、必ず主の手に帰る槍だ。真名を看破しなければ、勝ち目はない。看破すれば――糸は六本になる。指の間に、また一本、赤が食い込む。


廊下の障子は、もう動かない。チギリはとうに退がったのだろう。断られた沈黙の重さだけが、まだ部屋の隅に残っている気がした。約束は双方のものだと言った自分の声を、結人はもう一度なぞってみる。正しいと思う。思うが、正しさが糸をほどいてはくれない。


窓辺に寄り、高台の主催席を見た。今夜も暗い。誰もいないその席の周りだけ、庭木の梢がわずかに遅れて揺れている気がした。風が遅れて届く場所があるなど、昼間なら気のせいで済ませただろう。だが今この時刻、この左手を見た後では、済ませる気になれなかった。


明日、勝つために名を看破すれば、この糸は増える。増えた糸は、たぶん今日よりも強く指を縛る。いつか――握ることも開くこともできなくなる日が来るとしたら、それは何本目の糸のときだろう。結人は数えようとして、数える指がすでに思うように動かないことに気づいた。


行灯の火が、また、じ、と鳴った。


結人は左手を布団の下に隠すように差し入れた。隠したところで、糸が消えるわけではない。それでも、見ないでいる間だけは、まだ勲章だと思っていられる気がした。


窓の外で、遅れていた風が、ようやく追いついたように木々を揺らした。主催席の暗がりだけは、それでも動かなかった。結人はその静けさを、寒さとして肩に受け止めた。

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