第15話 帰る槍
準決勝の朝、賭け札屋の声が変わっていた。
「約束の代理、三対一! 三対一まで来たよ!」
百対一から始まった数字が、いまや聖域前の呼び声の先頭にある。結人はその声を、妙な面映ゆさで聞いた。数字が下がるということは、世界に数えられ始めたということだ。名鑑の欄外から始まった二人が。
「浮かれるでない」
肩の上でチギリが飴を齧る。「相手は本戦無敗の槍じゃ」
聖域の入口で、シグネが待っていた。背の布はすでに解かれ、グングニルが朝の光を鈍く返している。銀の髪が風に流れた。
「来たか」
「はい」
「私は言ったな。次に私の列に上がってくるなら、武器を持ってこいと」
シグネの目が、結人の腰から爪先までを検分する。剣はない。盾もない。あるのは小指の赤い糸と、使い込まれた手帳が一冊。
「……それが、お前の武器か」
「観察を持ってきました。五本ぶん」
結人は手帳を掲げた。あの食堂の夜から書き溜めた、彼女の槍の記録だった。シグネは一瞬だけ目を細め、それから、ほんのかすかに笑った。彼女の笑みを見たのは、それが初めてだった。
「いいだろう。約束の代理。——全力で行く。それが、お前への礼儀だ」
銅鑼の音が、朝の空気を割った。
最初の一投を、結人は見なかった。見えなかった、が正しい。
風の音が右耳を掠め、次の瞬間、槍はもうシグネの手の中にあった。聖域の砂に、結人の外套の裾が一寸だけ裂けて落ちている。
「避けたつもりか」
「いえ。外して、もらえた気がします」
「戯言を」
二投目。三投目。結人は転がり、跳ね、砂を舐めた。必中の槍。だが、まだ当たっていない。観客席は困惑し始めている。外れているのか。遊んでいるのか。
結人だけが、手帳の記録の意味を確かめていた。
——シグネは、投げた槍を一度も目で追わない。
初戦からずっとそうだった。投げた瞬間、彼女の目は次の間合いを見ている。槍がどこへ飛ぼうと、どう曲がろうと、見ない。見る必要がない。
慢心ではない。あれは、**確信**だ。
「……ということは」
四投目が来る。結人は今度こそ避けずに、槍の軌道を目で追った。刃は結人の肩口で不自然に曲がり、弧を描いて、シグネの開いてもいない掌へ吸い込まれていく。的を外れたのではない。最初から、あの手に向かって飛んでいる。
全部、逆だったのだ。
「わかりました」
結人は立ち上がり、砂を払った。膝が笑っている。それでも声は、腹の底から出た。
「グングニルの逸話は『投げれば必ず当たる』。でも言い落としがある。この槍が絶対に外さない的は、敵じゃない——**あなたの手だ**。槍は必ず主の手に帰る。帰り道の途中に、獲物がいるだけ。だからあなたは槍を見ない。帰ってくると、知っているから」
シグネの構えが、初めて揺れた。
「真名看破。グングニルの真名は——《帰る槍》。必中の神器じゃない。どこまで投げても必ず主のもとへ帰る、**帰り道の神器**です」
一拍。
聖域の床が、真昼の光より白く鳴った。承認の鐘。本戦で、二度目。
歓声は、なかなか鳴り止まなかった。
三対一が的中した賭け札屋の笑い声と、番狂わせに沸く席と、上段の光る席々の重いざわめき。その全部の下で、シグネは槍を布に巻き直していた。手つきは丁寧で、敗者の乱れがなかった。
「……私の負けだ、約束の代理」
「シグネさん」
「言うな」彼女は布の結び目を締めた。「弱いまま立つなと言った私が、観察に負けた。なら、あれはもう弱さではないのだろう。それだけのことだ」
結人は何か言おうとして、やめた。代わりに、手帳を差し出した。五試合ぶんの、彼女の槍の記録。シグネは受け取らず、長いことそれを見ていた。
「帰る槍、か」
呟きは、試合の話をしているようで、していない響きだった。
「なあ、約束の代理。……いや」
言いかけて、シグネは首を振った。銀の髪が揺れて、その下の目が、結人ではなく縁の外のチギリを見た。小さな神は駄菓子の袋を膝に置いたまま、静かに視線を受け止めた。
「今夜、宿舎へ行く。二人に、見せたいものがある」
それだけ言って、彼女は槍を担いで歩き出した。決勝進出者ではなく、何かを決めた人間の背中だった。
夕暮れの帰り道、結人は自分の左手を見た。小指の付け根に、新しい糸が一本。六本目。看破の勲章だと思っていた、破れない約束の重さ。今夜のシグネの目を思い出すと、その糸が少しだけ、冷たい気がした。
「よいか、結人」
チギリが、飴を口の中で転がしながら言った。
「今夜は、妾も同席する。……長い夜になるぞ」




