第8話 宣誓の一語
本戦入りした八名は、あらためて宣誓をやり直す。それが万神殿の習わしだった。
再宣誓式は、開会式より小さく、静かだった。八人の代理が聖域に並び、各陣営の神官が順に宣誓文を読む。結人は今度こそ、と耳のすべてをそこに集めた。開会式で引っかかった、あの一語。
ギリシャの神官が読む。
——我ら、戦を捨て、競いをもって代え、勝者に栄光を。
勝者「に」栄光を。聞き取った。次、北欧。
——勝者を栄光に。
結人の背中を、細い氷が撫でた。
勝者「を」栄光「に」。
助詞が、入れ替わっている。たった一語。聞き流せば同じ意味に聞こえる。栄光を与えるのと、栄光へ送るのと。でも——与えるのと、送るのとでは、動く方向が逆だ。
エジプトは「に」。日本は「に」。北欧だけが「を」。いや、と結人は開会式の記憶を掘り返す。あのときの違和感は四度目、日本の朗読の後に来た。順番で言えば、あれは主催側の総代朗読——。
式が終わるまで、結人は口の中で二つの文を並べ続けた。勝者に栄光を。勝者を栄光に。繰り返すほど、後者は祝福の形をした、別の何かに見えてきた。
万神殿の古文書庫は、申請すれば代理選手にも開かれている。ただし人気はない。黴と埃の匂いの中に、結人とチギリのほかは、受付の記録僧が一人いるだけだった。
「宣誓文の、写本を。できるだけ古いものを」
記録僧は結人の顔を長く見てから、三冊の綴りを出してきた。
一冊目。百年前の写本。どの陣営の文言も「勝者に栄光を」。二冊目、二百年前。同じ。つまり北欧の「を」は、後から変わったか——あるいは、どこかの時点で「に」に整えられたのが、北欧にだけ残っているのか。
三冊目は、綴りではなく巻物だった。開くと、字が違った。今の共通語より古い、画数の多い字体。チギリが結人の肩の上で、すっと息を止めたのが分かった。
「チギリ様、これ、読めますか」
「……読める」
小さな神は、しばらく黙ってから、指で一つの字をなぞった。栄光、と今は訳されている字だった。
「この字はの、結人。古くは『供物の火』を意味する字じゃ」
供物の、火。
勝者を、供物の火に。
結人が声を出すより早く、背後で足音がした。受付の記録僧が、いつの間にかすぐそこに立っていた。
「閲覧時間は終わりです」
窓の外は、まだ明るかった。記録僧は巻物を、結人の手から静かに、しかし有無を言わせず抜き取った。「この巻は修復に回りますので、以後の閲覧は」——できません、という言葉より先に、書庫の扉が開かれていた。
帰り道は、来た時より長く感じた。
参道の人混みの中、結人は二度、振り返った。二度とも、誰かの視線が肌から剥がれる感触だけがあって、姿は見えなかった。気のせいと言い聞かせるには、剥がれ方が露骨すぎた。
宿舎に戻って、灯りを点けて、結人はようやく息を吐いた。
「チギリ様。あの巻物の字——」
「結人」
遮った声が、いつもと違った。チギリは縁側ではなく、部屋の真ん中に立って、まっすぐ結人を見上げていた。駄菓子の袋は、どこにもなかった。
「深追いするな。今は、まだ」
「……知ってるんですね。宣誓文の、本当の意味を」
「妾が知っておるのは、古い字の読み方だけじゃ」
嘘だ、と結人は思った。秤の一件以来、言い落としの気配には敏感になっている。今のチギリの言葉には、巨大な言い落としの形をした沈黙が、後ろにぶら下がっていた。
でも、追及はしなかった。できなかった。三百年ぶんの何かを抱えた小さな背中に、今の結人が持っている言葉は、まだ軽すぎた。
「分かりました。今は、聞きません」
「……うむ」
「その代わり、約束してください。聞くべき時が来たら、話してくれると」
チギリは結人を見た。長い沈黙のあと、小さな小指が、すっと差し出された。
糸が、また一本増えた。今度のは、気のせいではなかった。




