第7話 必中の槍の彼女
本戦復帰の掲示の前は、朝から人だかりだった。
結人の名は、復活枠の隅に小さく貼られていた。それでも貼られていた。じっと見上げていると、隣に立った誰かの影が、掲示板に届くほど長かった。
「敗者復活か」
見上げるほど背の高い、銀髪の女だった。北欧枠の外套。腰ではなく背に、布で巻いた長いものを負っている。結人は掲示で名前だけ知っていた。シグネ。本戦の優勝候補で、グングニルの代理。
「復活の制度は嫌いだ。負けは負けだろう」
「……そうかもしれません。でも、規則にあるので使いました」
「いい神器だな、約束の糸というのは」
褒められた、と思う間もなく、続きが刺さった。
「武器ではないのが残念だ。——弱いまま立つな。それは相手への侮辱だ。次に私の列に上がってくるなら、せめて武器を持ってこい」
言い捨てて、銀髪は行ってしまった。人だかりが割れて、また閉じる。
結人は少しの間、彼女の言葉を口の中で転がした。侮辱という言葉を使うわりに、彼女の目は結人を軽蔑していなかった。もっと別の、焦げくさい何かだった。怒りに似ていて、怒りではない何か。
「……ということは、あの人は」
続きは、まだ言葉にならなかった。
昼、シグネの三回戦を、結人は観客席の最前で観た。
相手はギリシャ枠の大柄な代理で、青銅の大盾を構えていた。銅鑼が鳴って、十秒で終わった。
シグネが布を解き、槍を——グングニルを投げた。それだけだった。槍は大盾の中心を撃ち抜かず、掠めもせず、盾の縁を巻くように弧を描いて、相手の膝裏を薙いだ。戦闘不能。教科書には絶対に載らない軌道だった。
「必中の槍、か」
隣でチギリが呟く。オーディンの槍グングニル。狙ったものを外さない。逸話は単純で、単純ゆえに強い。
でも結人は、勝敗より別のものを見ていた。
投げられた槍は、相手を薙いだあと、ひとりでに宙を戻って、シグネの掌に収まった。彼女は受け取る動作すらしなかった。掌を開いて待ってもいない。槍のほうが、彼女の手の位置に合わせて戻った。
「チギリ様。グングニルの逸話に『戻る』という記述、ありましたっけ」
「……ないの。戻るのはミョルニル——トールの槌の逸話じゃ」
「ですよね」
結人は指を折って数え始めた。試合は一投で終わったが、入場時の試し投げが二回あった。三投、三回とも、槍は投げた本人の手に戻っている。必中の槍。外さない槍。でも、誰に当たっても、最後に必ず帰る槍。
当てるための性質と、帰るための性質。どちらが先なのだろう。
手帳に、結人は小さく書きつけた。《グングニルは、当たる槍ではなく、帰る槍かもしれない》。まだ仮説ですらない、ただの違和感だった。
夜の選手食堂は、本戦組だけになって、少し静かだった。
結人が盆を持って席を探していると、窓際にシグネがいた。ひとりだった。豆のスープを、几帳面に匙で計るように食べていた。
迷って、結人は向かいに座った。シグネの眉が上がる。
「……何のつもりだ」
「今日の試合、観ました。すごい軌道でした。盾の縁を巻いた投げ方」
「世辞はいい」
「世辞じゃなくて、観察です。あの軌道、狙って曲げたんじゃなくて、槍に任せてましたよね。あなたは投げたあと、一度も槍を見てなかった」
匙が、止まった。
シグネは初めて、結人をまっすぐ見た。値踏みの目だった。それから、ふ、と短く息を吐いた。
「……お前、本当に変なやつだな。ヘルメスの代理も言っていた」
「よく言われるようになりました、最近」
「私がお前に突っかかる理由を、考えたことはあるか」
「ずっと考えてます。まだ分かりません」
シグネは答えなかった。ただ、その視線が結人の肩越しに、入口のほうへ動いて、一瞬だけ固まった。振り返ると、チギリが立っていた。小さな神と、槍の代理の目が合って——どちらも、何も言わなかった。長い一秒だった。
「……食事の邪魔をした」
シグネは盆を持って立ち上がり、去り際に一言だけ落とした。
「準決勝で当たるぞ、私たちは。山を見ればわかる。それまでに、強くなれ」
彼女が去った後、チギリは何事もなかったように結人の隣へ座った。何を聞いても、その夜のチギリは、飴の味の話しかしなかった。




