第4話 糸は結ぶもの
「そろそろ教えておこう。妾の神器のことじゃ」
宿舎の裏庭で、チギリは結人の左小指を指した。朝の光の中で見ると、赤い糸はやはり二本になっていた。気のせいではなかったらしい。
「妾の権能は、約束。結んだ約束を、双方に守らせる。それだけじゃ」
「守らせる、というのは」
「試すがよい。妾と何か、小さな約束をな」
結人は少し考えて、「今日中に、境内を百周走ります」と言った。チギリが頷いて小指を絡めると、三本目の糸が、しゅる、と音もなく生まれた。
そして走り出して四十周目、結人は理解した。
足が、止まらないのだ。疲れる。息は切れる。膝も笑う。なのに「やめよう」と思った瞬間、身体の芯が勝手に前へ進む。約束が、筋よりも深いところを動かしている。
百周を終えて倒れ込んだ結人に、チギリは水と飴を差し出した。
「守れる約束しか結んではならぬ。守れぬ約束は、糸が主を喰う」
「……喰う、と言いますと」
「破った側から、力を取り立てる。神器とは、そういう理じゃ」
汗だくの結人は、二本目の糸を見た。あの試合の日に増えた、細いほう。あれは何の約束の糸なのか、聞こうとして、チギリがもう縁側に戻ってしまったので、聞きそびれた。
昼からは、二人で戦い方の相談をした。
「相手と『場外に出たら負けを認める』と約束できれば……」
「するわけがなかろう、敵がそんな約束」
「ですよね」
裏庭の地面に、結人は棒きれで図を描いていた。赤糸の強制力は絶大だが、発動には双方の合意がいる。戦いの最中に、不利な約束を結ぶ敵はいない。つまりこの神器は、戦闘では、ほぼ役に立たない。
「チギリ様は、昔からこの権能で、何をしてきたんですか」
何気ない質問のつもりだった。チギリは飴を口の中で転がして、少しだけ間を置いた。
「……人と人の、細々した約束の立ち会いじゃ。婚礼。商いの手打ち。喧嘩の仲直り。名鑑に書くほどのことは、何もしておらぬ」
「立ち会った数は、どのくらい」
「憶えておらぬ。三百年ぶんじゃ」
結人は、地面の図を消した。三百年ぶんの、記録されなかった立ち会い。名鑑の一行と余白の意味を、少しだけ考えた。それから、考えても仕方のないことなので、目の前の課題に戻った。
「糸は武器にならない。なら僕の武器は、やっぱり観察と看破だけです」
「それでよい」チギリは頷いた。「よいか、結人。糸は結ぶものじゃ。縛るものではない。妾の代理が糸で敵を縛る日が来たら、それは妾たちが負けた日じゃと思え」
その言い方が妙に真剣だったので、結人は棒きれを置いて、はい、と背筋を伸ばした。
夕刻、二回戦の抽選結果が回廊の掲示板に貼り出された。
人だかりの後ろから背伸びをして、結人は自分の名札を探した。あった。線で結ばれた相対の札に、目を走らせる。
《日本枠代理・イツルギ(草薙剣)》
人だかりが、すっと引いた。正確には、結人の周りから人が引いた。気の毒なものを見る目が、いくつも通り過ぎていく。
「……チギリ様。イツルギさんって」
「三連覇の候補筆頭。この百年で最も完成された代理、と呼ばれておる男じゃ」
掲示板の隅に、戦績が小さく書かれていた。十七戦、十七勝。全て場外か戦闘不能。一度も膝をついたことがない。神器は草薙剣——結人でも逸話を諳んじられる、日本神話でいちばん有名な剣だった。
「有名すぎる神器は、手強いぞ」
帰り道、チギリは珍しく自分から戦いの話をした。
「異説も言い落としも、千年かけて刈り込まれておる。看破の隙間が、ないのじゃ」
「……綺麗に整えられすぎた庭、ということですか」
「そうじゃ。雑草の一本もない」
結人は黙って歩いた。タラリアには隙間があった。有名でも、二番手の神器だったからだ。草薙剣は違う。物語の背骨そのものだ。
宿舎の灯りが見えてきたところで、結人は口の中で小さく呟いた。ということは。ということは——何も、続かなかった。初めてだった。観察の先に、何も見えない相手は。
試合は、二日後だった。




