第3話 逃げ足の値段
「なあ、恨むなよ、一行神の。オレは手加減が下手なんだ」
聖域の反対側で、ラフィは踵を鳴らした。足首に、白い翼のサンダル。翼は主の言葉に合わせるように、ぱたぱたと二度はためいた。
タラリア。伝令神ヘルメスの神器。風より速い、と名鑑にはある。
結人は答えるかわりに、じっとその翼を見ていた。昨夜、規則書と貸本の神話集を読めるだけ読んだ。ヘルメスは伝令の神。盗みの神。旅人の神。タラリアの逸話はどれも「神々の言葉を届けるために空を駆けた」で始まる。
届けるために。
「両者、位置へ」
神官の声。観客席は今日もよく笑っている。賭け札屋の呼び声が、百対一、百対一、と歌のように繰り返す。チギリは聖域の縁ぎりぎりに座って、駄菓子の袋を膝に置いていた。開けてはいなかった。
「結人」
銅鑼の前の静けさの中、小さな神は小さな声で言った。
「よく見よ。翼が動く時と、動かぬ時をな」
銅鑼が、鳴った。
最初の三十秒で、結人は二度、砂を舐めた。
速い、というより、消える。ラフィの姿は右にいたと思えば左にいて、感じるのは追い風と、すれ違いざまの掌打だけだった。場外までは押されない。遊ばれている。観客席は沸いていた。
「ほらほら、どうした!」
三度目の突風。結人は跳ばず、転がって砂の上から見上げた。見る。見ることだけが、自分の全部だ。
——翼は、いつ羽ばたいている?
仰向けの視界を、白いサンダルが横切る。羽ばたいていない。滑空。ラフィが直線に走るとき、翼は閉じている。開くのは——方向を変える瞬間。それから、もうひとつ。
「……ということは」
掌打が来る。結人は避けずに、懐から昨夜書いた紙片を落とした。風にさらわれたそれを、ラフィの身体が反射のように追う。翼が、大きく羽ばたいた。
見えた。
「タラリアは、風の靴じゃない」
結人は立ち上がって、まっすぐに指をさした。声が震えないよう、腹に力を入れた。
「ヘルメスの逸話は全部『届けるために駆けた』——運ぶものがある時にだけ、翼は本気で羽ばたく。あなたはさっきから手ぶらだ。だから本当の速さが出ていない。今、僕の紙切れを拾った一瞬だけ、翼が全開になった」
聖域がしんとする。結人は息を吸った。
「真名看破。その神器の真名は——《使いの翼》。速さの神器じゃない。届け物を、決して遅れさせないための神器です」
一拍。
聖域の白い床が、鐘の音そっくりの光を放った。承認の光だった。
百年ぶりの真名看破は、歓声ではなく、沈黙で迎えられた。
観客席の人間たちは呆気にとられ、上のほうの光る席々は——結人には分からない密度で、ざわめいたように見えた。賭け札屋の泣き声だけが、やけに人間らしく響いた。
「……ははっ」
先に笑ったのは、負けたラフィだった。大の字に砂へ寝転がって、ひとしきり笑ってから、起き上がって右手を出した。
「あんた、変なやつだな。オレの相棒の本当の仕事、オレより分かってやんの」
「握手は、します。でも次は負けません、はたぶん僕が言う台詞じゃないです」
「言っとくけど、次までにオレは荷物を持って走る練習をするからな。覚えとけよ」
手は、思ったより硬くて、熱かった。
その夜、宿舎の縁側で、チギリはようやく駄菓子の袋を開けた。祝いじゃ、と言って結人にも一本くれた。安い麩菓子だった。二人でそれを齧りながら、どちらもしばらく黙っていた。
「見事じゃった」
「チギリ様の言う通りに、見ただけです」
「見ただけ、で勝てた者は百年おらなんだ」
チギリは月を見ていた。結人は自分の左手を見た。小指の付け根に、赤い糸が——増えている気がした。契約の一本の隣に、もっと細いのがもう一本。気のせいかもしれない。麩菓子の甘さが、妙に沁みた。
次の相手は、三日後に決まるという。




