第2話 三つの勝ち方
万神殿は、山ひとつを丸ごと椀に伏せたような場所だった。
中央に白い円形の聖域。それを囲んで、すり鉢状に観客席がどこまでも上がっていく。下のほうの席には人間の観客がひしめき、上へ行くほど空気が薄く光って、その光の中に、人ならぬ輪郭がいくつも座っていた。
神々の席。ここからでは表情も見えない。ただ、視線の重さだけが降ってくる。
「口を開けるでない、結人。田舎者と思われる」
「チギリ様も見てるじゃないですか」
「妾は三百年ぶりじゃからよい」
結人の肩の上で、チギリは小さくなって座っていた。契約神は代理選手に随行できる。ただし競技中は聖域の縁より内へ入れない——昨夜、規則書を二人で読み合わせた。
代理選手の入場が終わると、司会の神官が宣誓文を広げた。各陣営の代表が一節ずつ読み上げていく。ギリシャ、北欧、エジプト、日本。低く朗々と、同じ文言が繰り返される。
——我ら、戦を捨て、競いをもって代え、勝者に栄光を。
四度目の朗読のとき、結人の耳が、小さく引っかかった。
今、少しだけ違わなかったか。前の三回と、どこかの助詞が。
聞き直そうにも朗読は終わり、大歓声が塗り潰した。結人は口の中で四つの文言を復唱しようとして、もう正確には思い出せないことに気づいた。耳に残っているのは、違和感の感触だけだった。
規則の説明は、聖域の中央で行われた。
「神威競べ、一対一。勝敗は三つに限る」
神官が指を立てる。
「一つ、相手を聖域の外へ出すこと。二つ、相手の戦闘続行を不能とすること」
ここまでは、観客のざわめきも穏やかだった。三本目の指が立つ。
「三つ——相手の神器の真名を、看破すること」
一拍おいて、観客席のあちこちから笑い声が起きた。結人の近くの席でも、誰かが連れに説明している。あれは飾りの条項だよ。神器の真名なんて、契約神と代理しか知らない。当てられるはずがない。実際、この百年で真名看破の勝ちは一度も出ていない——。
結人は笑わなかった。三つ目の条項だけ、口の中で二度復唱した。
真名。本当の名。本当の、用途。
「続いて、初戦の組み合わせ!」
巨大な名札が宙で組み替わっていく。最弱枠、と誰かが野次を飛ばした席の高さに、結人の名札は吊られていた。相対する札が回転して止まる。
《ギリシャ枠代理・ラフィ(ヘルメス神)》
翼のサンダルの紋。神降ろしの日、真っ先に選ばれて跳び上がっていた、あの軽薄そうな青年だった。観客席のどこかで、また賭け札の値が読み上げられている。結人の勝ちは、百対一だった。
選手控えの回廊は、大理石の冷たさと、他人の笑い声でできていた。
「おい、見ろよ。一行神の代理」
通りすがりの誰かが言って、連れが吹き出す。名鑑に一行。事績なし。奇跡なし。よくそんなのと契約したな。何を賭けたって当たらない。声はどれも、結人にではなく、結人の肩の上に向けられていた。
チギリは駄菓子を齧っていた。表情は変わらない。
結人は、廊下の真ん中で立ち止まった。
「……結人?」
振り返りはしなかった。ただ、笑った連中に聞こえる声量だけは、確保した。
「初戦、観に来てください。賭け札は僕に張ると儲かります。百倍なので」
笑い声が、一瞬だけ止んだ。それから倍になって返ってきたが、結人はもう歩き出していた。頬が熱いのは自分でもわかった。柄にもないことをした。でも、後悔はしていなかった。
宿舎の部屋に入ってから、チギリがぽつりと言った。
「怒るな、結人。妾は慣れておる。三百年、あの扱いじゃ」
「チギリ様が慣れているのは、わかりました」
結人は荷物を置いて、神器の規則書を机に開いた。ヘルメス。伝令神。翼のサンダル。調べるべきことは山ほどある。
「でも僕は、慣れません。慣れる予定もありません」
チギリは何か言いかけて、やめて、飴を一粒、結人の机の端に置いた。それが返事らしかった。
窓の外、万神殿の灯りは夜通し消えない。初戦は、明日の昼だった。




