第1話 一行の神様
どの神にも選ばれなかった少年と、史書に一行しか残らない神様の話です。
武器は、小指の赤い糸と、観察眼だけ。
完結まで、毎日朝7時過ぎに更新します。今日だけ、夜までにあと二話。
神降ろしの社の白砂は、朝のうちから熱かった。
候補者は今年、四十七人。歳の順に並ばされて、結人はいつも通り列の最後尾にいた。三年連続、三度目の儀式。十七になった今年で、資格は最後になる。
正面の祭壇には、万神名鑑が開かれている。人の背丈ほどもある古い綴りで、頁には世界中の神々の名が書かれ、名の主が代理を選ぶと、その行が金色に光るのだという。結人はまだ、光る瞬間を近くで見たことがない。いつも遠くで、他人の頭越しに歓声を聞くだけだった。
「ギリシャ枠、ヘルメス神——選定!」
列の前のほうで、軽薄そうな青年が跳び上がった。歓声。金色の光が、砂の上まで届く。
結人は歓声には加わらず、名鑑の係員の手元を見ていた。頁をめくる速さ。めくる前に指が一瞬止まる位置。選ばれる者の名は、呼ばれる少し前に、係員の視線が先に触れている。
——観察は、結人にできる唯一のことだった。
剣も振れない。魔も練れない。ただ、見て、憶えて、口の中で確かめる。それだけの十七年だった。
「北欧枠、選定済み。エジプト枠、選定済み——」
読み上げは進む。列は前から順に薄くなっていく。白砂の熱が、草履の裏から静かに上がってくる。結人は、まだ列にいた。
昼の鐘が鳴る頃、白砂の上に立っているのは結人ひとりになった。
「以上をもって、本年の神降ろしを終える」
係員の声は、事務的で、悪意すらなかった。悪意のなさが、いちばん堪えるのだと三年目の結人は知っている。名鑑がゆっくりと閉じられていく。分厚い頁が空気を押して、祭壇の埃が光の中を舞った。
そのとき。
風もないのに、最終頁の端が、めくれた。
結人の位置からしか見えない角度だった。頁の本文が終わったあと、欄外——余白と綴じ目の境目に、細い墨の文字が一行だけある。かすれて、日に灼けて、それでも確かに読めた。
《チギリ。約束を司る。以下、記録なし》
以下、記録なし。
結人は、その文字をしばらく見つめた。四十六人ぶんの神々の名は、どれも何行にもわたって事績が書かれていた。武勇。奇跡。伝承。この神には、それがない。名前と、役目と、あとは余白だけ。
「……ということは」
口の中で呟いて、結人は気づけば一歩前に出ていた。係員が眉を上げる。閉じかけた名鑑を、結人は指さした。
「その神様は、まだ誰も選んでいないんですよね」
「これは——欄外だ。名鑑の正式な項ではない」
「でも、名前があります」
読み上げられなかった名前を、だから結人は、自分の声で読んだ。
「チギリ様。僕を、代理にしてください」
白砂の社に、その声だけが落ちた。金色の光は、どこにも灯らなかった。ただ、結人の左手の小指に、糸が触れたような感覚だけがあった。
家の縁側で夜を待っていたのは、結人のほうだった。
社では何も起きなかった。係員は困った顔で「無効だろう」と言い、結人は肩を落として帰った。それでも小指の感覚だけが消えなくて、夕餉のあいだも、湯を使うあいだも、左手ばかり見ていた。
月が屋根の高さまで上がったとき、縁側の端に、童女が座っていた。
古い柄の着物。切り揃えた黒髪。膝の上に、どこから出したのか駄菓子の袋。童女は結人を見ずに、飴を一粒口に放り込んでから言った。
「やめておけ、と言いに来た」
「……チギリ様、ですか」
「妾を選ぶな、小僧。妾は何も持たぬ。武勇もない。奇跡もない。名鑑に書くことが何もないから、あの一行なのじゃ」
声は穏やかで、突き放す響きはなかった。ただ事実を並べる声だった。結人は縁側に正座して、しばらく考えてから、正直に言うことにした。
「僕も、何も持っていません。三年、誰にも選ばれませんでした」
「知っておる。見ておったからの」
「見て——」
「毎年、列のいちばん後ろで、選ばれもせんのに他人の選ばれ方ばかり観察しておる妙な小僧がおると。神々の間でも、少しだけ噂じゃった」
初耳だった。結人の耳が熱くなる。チギリは初めてこちらを向いて、飴の袋を差し出した。受け取ると、童女は小さく笑った。
「リーグに出れば、笑われるぞ。最弱の神と、選ばれなかった小僧じゃ」
「約束します」
結人は、自分でも驚くほど滑らかにその言葉を出した。
「あなたの隣で勝ちます。一勝でもいい。あなたの名前が、笑われないところまで」
チギリは長いこと黙っていた。それから、ちいさな小指を立てて、結人の左手に伸ばした。
「……妾の最初の代理じゃ。指切りといこう」
小指と小指が絡んだ瞬間、月明かりの下に、細い赤がひとすじ、確かに見えた。




