第23話 結び直しの儀
休戦更新の儀は、決勝から三日目の朝に行われた。
聖域に競技者はいない。かわりに、上段の光る席の主たちが、百年ぶりに全員、輪郭を持って降りてきていた。雷を纏う偉丈夫。海の匂いのする女神。梟を肩に載せた静かな目。書物でしか知らない名前たちが、聖域の白い床に、円になって立っている。
その円の中心に、チギリがいた。
「宣誓文の、読み直しを行う」
進行を任された神官の手には、新しい巻物。今度の文言は、結人も事前に確かめた。全陣営、全写本、一言一句が同じであることを、ネフェルと二人がかりで三回照合した。
「——我ら、戦を捨て、競いをもって代え、勝者に、栄光を」
勝者「に」栄光「を」。
与える側と受け取る側が、正しい向きに戻った一文が、朝の聖域に響いた。諸神が順に、円の中心へ歩み出る。連署は血判でも刻印でもなかった。一柱ずつ、チギリの前に膝をつき——小さな神と、指切りをするのだった。
雷神の巨大な小指と、童女の小指が絡まる。海の女神が、笑いながら指を差し出す。細い赤の糸が、一本ずつ、確かに結ばれていく。
「妾は証人である」
チギリの声が、儀の言葉を締めた。
「双方が忘れる日にも、妾は覚えておる。……今度の約束は、破られるためのものに、あらず」
観客席は満員だった。券は要らない儀式に、万の人が詰めかけて、静まり返って、それを見ていた。歴史に立ち会う静けさというものを、結人は初めて肌で知った。
昼過ぎ、医務棟から報せが来た。
目を覚ました、と。
返還の場は、医務棟の中庭だった。鎧から解放された人々——百年ぶんの勝者たちが、毛布を肩に、ひとりずつ日の下へ出てくる。半分は、もう故郷に家族がいない時代の人だった。それでも神々は、一人ひとりに頭を下げた。神が人に頭を下げるところを、結人は生まれて初めて見た。
「ラグナル!」
シグネの声は、彼女の槍よりまっすぐ飛んだ。
列の後ろの方にいた長身の男が、その声に、ゆっくり顔を上げる。三年ぶんやつれて、それでも妹と同じ銀の髪、同じ目の色。
「……シグネ? お前、なんでここに——大きくなったな?!」
「三年だ! 三年経ったんだ、この、この……!」
言葉が続かず、シグネは走った。兄の胸に、体当たりのような抱擁が決まる。ラグナルはよろけて、笑って、妹の頭を乱暴に撫でた。それは強い女の姿ではなく、ただの、兄を取り戻した妹の姿だった。
少し離れて見ていた結人の隣に、いつの間にかシグネが戻ってきたのは、しばらく後のことだ。目の縁を赤くしたまま、彼女は言った。
「約束の代理。……借りが、二つになった」
「一つ目も、まだもらってませんけど」
「うるさい。一生かけて返すと言ったはずだ。……兄がな、お前に会いたいそうだ。『俺の型で戦った奴に礼を言う』と」
「礼を言われるようなことは。僕はさんざん逃げ回っただけです」
「それでいい。逃げ回って、生きて、届いた。……兄を連れ帰るのは、私の役目だからな」
シグネは、初めて会ったときの台詞を、まるで違う声で言い直した。
「弱いまま立つな——あれは、撤回する。お前は、立ち方を変えただけだった」
夕刻、諸神の使いが縁側に来た。
梟を肩に載せた、あの静かな目の女神だった。ソフィアの主。知恵の神は、縁側の下に立ったまま、丁寧に用件を述べた。
「諸神の総意である。証人チギリへ——名を、返還したい」
名前。三百年前に支払われた、あの代金。
「そなたの名は、記録から消えたが、我らの内のいちばん古い層には残っておる。望むなら、今日この場で、世界に呼び戻せる。祈りの宛先も、名鑑の頁も、すべて」
結人は、思わずチギリを見た。三百年。婚礼のたびに思ったという、妾の名を呼ぶ者はもうおらぬ、という夜の数を思った。
チギリは、飴を口から出して、少し考えて、言った。
「やめておく」
「……理由を、聞いても?」
「名のある証人は、消せる証人じゃ。せっかく結び直した約束を、また危うくしてどうする」
それから小さな神は、ちら、と結人を見て、ほんの少しだけ笑った。
「それにな。妾はもう、呼ばれておる。名がなくとも、毎日、たっぷりとな。——チギリさん、チギリ様、チギリ、と。呼び方も知らぬ小僧が、勝手につけた呼び名じゃが……存外、悪うない」
女神は深く一礼して、夕暮れの中へ帰っていった。
夜、結人はふと左手を見た。小指の付け根——七本あった糸が、いつの間にか、一本になっている。決勝の日、万神殿を編むために伸びていった糸たちは、役目を終えて、還らなかったらしい。
残った一本は、いちばん最初の糸だった。
あなたの隣で勝つ、の糸。
「……これ、僕はまだ、果たしてないんですよね。勝者なし、でしたから」
「うむ」
チギリは飴を齧った。
「じゃから、まだ解けぬ。……まあ、急ぐ話でもない。約束は、逃げぬよ」




