第22話 祭りのあと
翌朝の万神殿は、二日酔いのような顔をしていた。
参道には昨夜の紙吹雪が掃き残され、屋台は半分だけ店を開け、誰もが少し寝不足で、誰もどこか嬉しそうだった。百年に一度の夜の、次の朝というのは、こういう顔をするらしい。
「よお、兄ちゃん! ……いや、もう兄ちゃんなんて呼べねえか」
賭け札屋のおじさんが、店先で帳簿を抱えて呻いていた。
「勝者なし、だからな。全額払い戻しだよ。うちの店は今日も傾いてら」
「すみません。儲けさせられなくて」
「馬鹿言え」
おじさんは帳簿を置いて、にっと笑った。
「百対一の欄外者が決勝まで行くのを、最初から最後まで見られたんだ。木戸銭にしちゃ、安いくらいだよ。……なあ、次はあるのかい。来年の万神殿は」
「あると思います。今度は、本物の約束の上で」
結人は麩菓子を二袋買った。一袋は自分の分、一袋は、縁側でまだ眠っている小さな神の分だった。
医務棟の廊下は、日だまりと消毒の匂いがした。
鎧から解放された人々は、奥の棟で眠っている。百年ぶんの勝者たち。目を覚ますまで何日かかるか、医務方にも分からないという。
廊下の長椅子に、シグネがいた。昨日と同じ場所、同じ姿勢。銀の髪だけが、窓の光の角度で昨日と違って見えた。
「代われる人、いないんですか」
「いる。断った」
「ですよね」
結人は隣に座った。それきり、どちらも喋らなかった。廊下の奥から、規則正しい寝息がいくつも、薄く聞こえてくる。そのうちのひとつが兄のものだと、彼女はもう確かめたのだろう、と結人は思った。
長い時間が経ってから、シグネがぽつりと言った。
「昨日、光の粒が、私の前で止まった」
「見ていました」
「あれは……止まった、よな。気のせいでは、ないよな」
三年間、記録の一行を追いかけてきた人の声だった。強い女の、いちばん柔らかい場所から出た声。結人は、観察者として答えた。観察者としてなら、断言できた。
「止まりました。三秒。あなたの顔を、確かめるみたいに」
シグネは、両手で顔を覆った。泣き声は、最後まで立てなかった。ただ、肩だけが少しの間、揺れていた。結人は黙って、日だまりの廊下の続きを見ていた。それが、隣に座った者の仕事だった。
縁側に戻ると、チギリはまだ眠っていた。
三百年ぶんの大仕事のあとだ。小さな神は昨夜からずっと、日なたの猫のように丸くなって、驚くほどよく眠っている。結人は麩菓子の袋を枕元に置き、自分は帳面を開いて、書くこともないのに頁を撫でたりして、夕方までを過ごした。
日が傾いた頃、チギリはむくりと起きた。
「……妾は、どれほど寝ておった」
「丸一日と、少し」
「そうか」
それだけ言って、枕元の麩菓子に手を伸ばす。齧る。咀嚼する。もう一口。世界を救った翌日の神様の、それが最初の仕事だった。
「結人」
「はい」
「今日は、何もなかったか」
「何も。賭け札屋さんが払い戻しでぼやいて、医務棟の人たちはよく眠っていて、屋台の水飴が半額でした」
「……よい一日じゃな、それは」
チギリは麩菓子を齧りながら、暮れていく空を見た。結人も並んで、同じ空を見た。明日には神々の使いが来るだろう。約束の結び直しの儀があり、証人の話があり、忙しくなる。でも、それは明日だ。
今日はただ、夕暮れと、麩菓子と、縁側だけがあった。
「なあ、結人」
「はい」
「水飴、半額と言うたな」
「……買いに行きますか」
「行く」
小さな神は、縁側から飛び降りた。その足取りの軽さが、なにより雄弁な回復の報せだった。




