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最弱神の代理戦争  作者: 悠暉


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第21話 破られるための約束

決勝の朝の万神殿は、人の海だった。


観客席は下から上まで埋まり、上段の光る席々も、今日は一つ残らず輪郭を持っている。賭け札屋の声が、朝の空気を割って通った。


「約束の代理、二対一! 二対一だよ! ああもう、うちの店が傾く倍率だよ!」


百対一の欄外者は、もういない。結人は入場の列の中でそれを聞き、少しだけ、あの初日の自分に教えてやりたくなった。


観客席の東に、ネフェルの姿。審判席の脇に、腕を組んだイツルギ。どこかの席でラフィが選手村の連中を引き連れて騒いでいる声。そして聖域の縁、いちばん砂に近い場所に、シグネが槍を持たずに立っていた。約束通りの、それぞれの持ち場だった。


「宣誓!」


神官が巻物を広げる。結人は目を閉じ、耳のすべてをそこへ集めた。開会式では違和感だけ拾って、言葉を取り逃した。今日は逃さない。


「——我ら、戦を捨て、競いをもって代え……」


来る。


「……勝者を、栄光に」


勝者「を」栄光「に」。確かに聞いた。会場の誰もが聞き流した助詞ひとつを、結人は口の中で三度復唱して、記憶の奥に釘で打ちつけた。あとは、これを使う一瞬を、間違えないことだけだ。


向かいで、銀灰の鎧が一礼した。礼の角度は、イツルギの礼と寸分違わなかった。


銅鑼が鳴った瞬間から、結人は防戦しか許されなかった。


初手は剣。イツルギの呼吸を消す踏み込み。かわし損ねた肩当てが弾け飛ぶ。二手目は体術、三手目は投擲——ラフィの軽さで跳び、ネフェルの静けさで間合いを計り、シグネの、いや、ラグナルの腰の溜めで槍が来る。


百年ぶんの勝者たち。全員が、この一領の中にいる。


(勝てるわけがない。まともには)


分かっていたことを、身体が改めて教えてくる。転がって、跳ねて、砂を舐めた。観客席の悲鳴が遠い。それでも結人の目は、閉じることだけはしなかった。観察は、結人にできる唯一のことだ。最初の朝から、ずっと。


——呼吸を見ろ。神にでも、息はある。


イツルギの声を思い出したのは、三度目に砂を舐めたときだった。結人は鎧の胸当てを、面頬の奥を、視た。


息が、あった。


ひとつではなかった。


吸う息と吐く息が、ずれて重なっている。二人ぶん。三人ぶん。十人。もっと。鎧の中で、百年ぶんの呼吸が、押し込められた満員の部屋みたいに、互いにぶつかりながら軋んでいる。


そして——どの呼吸も、苦しそうだった。


勝者たち。栄光に送られた人たち。彼らは技を振るっているのではない。振るわされている。あの鎧は器で、彼らは薪で、薪は、燃やされながらまだ、息をしている。


「……ということは」


結人は、砂の上で片膝をついたまま、静かに確信した。


看破すべき真名は、目の前の鎧のものじゃない。この鎧を作った仕組み——この万神殿全体の、真名だ。


「立てるか、約束の代理!」


審判の声。観客席の悲鳴。規定なら、ここで降参を口にするのが正しい。誰もがそれを待っている空気だった。


結人は、立った。


膝は笑っている。口の中は血の味がする。それでも背筋だけは、まっすぐに伸ばした。三年間、選ばれない列の最後尾で伸ばし続けた背筋だ。今さら曲げ方を忘れた。


「僕は昔から、謝ってから反論する癖があります」


声は、聖域の隅まで通った。


「すみません、でも——って。そうやって、言いたいことの前に、いつも謝罪を置いてきました。選ばれなかったから。欄外だったから。謝ってからじゃないと、口を開く資格がない気がして」


銀灰の鎧が、ゆっくりと剣を構え直す。結人は、構えなかった。かわりに、左手を高く上げた。七本の赤い糸が、真昼の光に透けた。


「でも、今日は──すみません、とは言いません」


息を、吸う。


「真名看破を、宣言します。一度きりの権利を、ここで使います。対象は——目の前の代理じゃない。この万神殿リーグ、あなただ!」


聖域が、ざわ、と揺れた。神官が何か叫ぶ。規定にない。対象が違う。だが承認の仕組みは、宣言の形式さえ整えば、発動してしまう。それが「理」というものの融通の利かなさだ。


「宣誓文は言っている。『勝者を、栄光に』——勝者に栄光を与えるんじゃない。勝者を、栄光という名の火に、くべる! 栄光の古い字は『供物の火』! 歴代の勝者はみんなその火の中だ、この鎧の中で、まだ息をしてる!」


結人は、まっすぐに、誰も座らないはずの最上段の席を指さした。


「この百年の競いは休戦じゃない。次の戦のための薪拾いだ。真名看破——万神殿リーグ、あなたの真名は《破られるための約束》!」


一拍。


世界が、白く、鳴った。


承認の鐘は、音というより、光だった。


聖域の床から立ち上った白が、観客席を駆け上がり、上段の神々の席を洗い、最上段の空席で──割れた。百年で最大の承認。真実にしか鳴らない鐘が、リーグそのものを偽物だと、満座の前で鳴らし切った。


《——よくぞ、言うた》


空席から、それが立ち上がった。戦神の残滓。飢えの形をした薄闇が、万神殿の空を半分覆う。


《だが遅い。器は満ちておる。約束は破られた。ならば戦を──》


「破られては、おらぬ」


声は、小さかった。小さいのに、薄闇の轟きを、まっすぐ割って通った。


チギリが、聖域の中央に立っていた。縁の外にいるはずの小さな神が、規則も結界も、まるで古い知り合いの垣根をまたぐように越えて、結人の隣に。


「偽の文言が偽と立証されたなら、立ち返る先は、最初の約束じゃ。三百年前、妾が証人に立った、あの夜の言葉。──戦を捨てよ。競いをもって代えよ。妾は、まだここにおる」


小さな神は、小指を立てた。


結人の左手の七本の糸が、ほどけた。縛めが解けるのではない。伸びていく。七本が七十本に、七百本に増えながら、聖域を、観客席を、神々の席を、薄闇そのものを、細い赤で結んでいく。婚礼の立ち会いも、手打ちも、指切りも、三百年ぶんの記録されなかった約束の全部が、糸になって万神殿を編んでいく。


《おのれ、小さき──証人ふぜいが──》


「証人こそが、約束じゃ」


チギリの声は、静かだった。


「双方が忘れても、証人が覚えておる限り、約束は生きる。……妾は三百年、一日も忘れなんだ。おぬしが席で飢えておった百年も、妾は縁側で、覚え続けておった」


赤い糸が、薄闇を包んだ。戦うのではなく、くるむ。暴れる子を布団でくるむ、あの手つきで。飢えの咆哮は次第に細くなり、やがて、疲れ切った寝息のようなものに変わって——最上段の席が、初めて、ただの古い椅子になった。


銀灰の鎧が、砂の上に、静かに崩れた。中から、光の粒が幾つも幾つも立ち上る。その一つが、聖域の縁で泣くのを堪えている銀髪の前で、少しだけ、立ち止まった。


審判は、長い沈黙ののち、震える声で告げた。


「……本決勝を、勝者なし、と、宣す」


万神殿は、静まり返っていた。それから——誰かが手を叩いた。ラフィだった。二つ、三つ。手拍子は波になり、歓声になり、鐘の余韻ごと万神殿を呑み込んだ。


勝者のいない決勝を、百年でいちばん大きな歓声が、包んでいた。

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