第20話 名無しの無敗
決勝カードの発表は、真昼の聖域で行われた。
宙に吊られた結人の名札の向かいで、対の札がゆっくりと回転して止まる。
《主神連合代理——》
名前の欄は、空白だった。
「名無し、だと?」観客席がざわめく。「主神連合って、どの神の代理だ」「全部だとよ。全部の主神の、合同の代理」
神官が壇上に立ち、規定を読み上げた。よく通る、感情のない声だった。
「決勝の勝者は、慣例に従い、栄光に送られる。敗者の契約神は、その位階を万神殿に返上する」
位階の返上。飾った言い方だ。結人はもう、その中身を知っている。勝てば結人が火にくべられ、負ければチギリが薪にされる。どちらに転んでも、あの空席の器が満ちる。よくできた天秤だった。天秤の皿の両方が、最初から火の中にある。
「なお、決勝に限り、真名看破の宣言は一度のみとする」
付け足された一文に、結人は顔を上げた。一度のみ。外せばその場で敗北。……向こうも、看破を警戒している。ということは、看破が効く何かが、あの「名無し」にはある。
肩の上で、チギリが小さく言った。
「規定を今日足したの。妾たちの動きが、読まれ始めておるぞ」
夕刻、「名無し」の調整風景が公開された。顔見せという名の、示威だった。
銀灰の鎧。顔当てで面は見えない。上背はイツルギほど、幅は——いや、比べる相手を間違えている。あれは誰とも比べられない。
最初の素振りで、結人の背筋が冷えた。
大剣の振りは、イツルギの呼吸の消し方をしていた。返す足運びは、ネフェルの計るような静けさ。跳んだ瞬間の翼めいた軽さは、ラフィの——
「……ということは」
口の中の呟きが、砂を噛んだ。歴代の勝者たち。栄光に送られた、百年ぶんの強者たち。あの鎧の中にいるのは一人ではない。火にくべられた勝者たちの技が、器の中で溶け合って、一領の鎧を着ている。
観客席のどこかで、木の椅子が倒れる音がした。
シグネだった。立ち上がったまま、聖域を見下ろして、動かない。その視線の先で、「名無し」が槍を手に取ったところだった。
投げる。的板が砕ける。槍が、ひとりでに主の手へ帰る。
投げ方の癖——腰の溜め、離れ際の指の返し、そして投げたあと、槍を一度も目で追わない目線の置き方。結人はそれを、五試合ぶん記録した手帳ごと覚えている。シグネと同じ型。いや、シグネが真似た型。
「兄さんの……」
声は小さかった。けれど夕方の聖域は音をよく通した。
「あれは、兄さんの投げ方だ」
その夜、宿舎の卓に、集まるはずのない顔ぶれが集まった。
ラフィ、ネフェル、イツルギ、シグネ。敗者が四人。決勝進出者が一人と、小さな神が一柱。
「整理するぞ」イツルギが先に口を開いた。「相手は歴代勝者の寄せ集め。技は全流派。看破は一度きり。勝っても負けても、火が太る。……で、お前は勝ちも負けもしない道を行く、と」
「はい。試合の最中に、リーグそのものの真名を看破します。承認の鐘は真実にしか鳴らない。満座の前で鳴れば、偽の約束は満座の前で偽になります」
「鳴らなかったら?」
「その場で敗北です。チギリさんが薪にされます」
卓が静まった。沈黙を破ったのは、意外にも、いちばん軽い声だった。
「よし、オレは客席で騒ぐ係な」
ラフィが指を立てた。「真名ってのは、聞かせる相手が多いほど強いんだろ? 神サマの理屈は知らねえけど、証人は多いほうがいいに決まってる。選手村の連中、全員起こして連れてく」
「私は東の席に」ネフェルが静かに続けた。「言葉が秤に載る瞬間を、見届ける。……秤の家の者として」
「俺は審判席の近くに座る」イツルギ。「妙な横槍が入ったら、俺の顔で黙らせる。三連覇候補の顔は、こういう時のためにある」
シグネは、最後まで黙っていた。それから、卓の中央——チギリの飴の袋の隣に、グングニルを、置いた。
「私は、聖域の縁に立つ。……兄が、あの鎧の中にいるなら」
声は、震えなかった。
「連れて帰る。それだけだ。約束の代理、お前の計画に乗る」
チギリが、飴の袋を開けて、五つ、卓に並べた。全員ぶん。
「よいか、おぬしら。妾から言うことは、ひとつだけじゃ」
小さな神は、いつもの縁側の声で言った。
「明日、勝負の前に飯を食え。……戦の前に食う飯は、それだけで験がよい」
誰かが笑った。全員が笑った。決戦前夜の卓は、それでようやく、卓らしいぬくもりになった。




