第19話 名を差し出した夜
宿舎に戻る頃、東の空が薄く白み始めていた。
どちらも眠る気にはなれなかった。チギリは縁側に座り、結人は隣に腰を下ろした。いつもの位置。いつもの距離。ただ、今夜は駄菓子の袋がなかった。
「五本目の糸を、覚えておるか」
「時が来たら、話してくれる約束」
「うむ」
チギリは自分の小指を立てた。結人の五本目と対になった、小さな指。
「時が来た。……長い話になる。三百年、誰にもしたことのない話じゃ」
夜明け前の空気は、音がよく通る。小さな神の声は、静かに、確かに、結人の耳へ届いた。
「三百年前、神々の戦は九十年続いておった。山が三つ消え、海がひとつ増えた。人間は──よう死んだ。神々の戦の、巻き添えでな」
「歴史では、神々が自ら戦をやめたことになっています」
「やめさせたのじゃ。……妾たち、小さき神らがな」
名もなき、あるいは一行しか記されぬ神々。竈の神、道端の神、雨宿りの神。戦にも記録にも縁のない小さきものたちが、ある夜、戦場の真ん中に集まった。武力はない。奇跡もない。あったのは、ひとつだけ。
「約束、じゃ。妾の権能。……妾は諸神の間に立って、言うた。戦を捨てよ。競いをもって代えよ。妾が、その約束の証人になる、と」
「じゃが、証人には弱点がある」
チギリは、自分の掌を見た。
「約束は、結んだ双方と、証人のものじゃ。……逆に言えばな、結人。証人を消せば、約束は宙に浮く。破ったことにすら、ならぬ」
「消す、というのは」
「殺す、消す、忘れさせる。神が神を消す方法は、いくらでもある。名がある限りな」
名。存在の取っ手。祈りの宛先。神は名で呼ばれ、名で祀られ、名で記録される。そして——名で狙われる。
「荒ぶる者は、休戦を呑む条件に、こう言うた。『証人は、我らが消せる者であれ』と。名のある神が証人になれば、いつか必ず消される。そして約束は破られ、戦が戻る。……妾は、その場で決めた」
夜明けの最初の光が、縁側の端に触れた。
「妾は名を、約束の代金として支払った。名鑑から、祈りから、記憶から。妾を呼ぶ声のいっさいと引き換えに、妾は『消せない証人』になった。名のない者は、狙えぬ。忘れられた者は、殺せぬ。——三百年、あの残滓が妾に手を出せなんだのは、そのためじゃ」
結人は、声が出なかった。
名鑑の欄外の一行。《チギリ。約束を司る。以下、記録なし》。あれは怠慢の産物ではなかった。この小さな神が、世界の戦を止めるために、自分で選んで支払った領収書だった。
「チギリさんは……後悔、しなかったんですか」
「したとも」
即答だった。あまりに軽やかで、だから本当だと分かる即答だった。
「三百年で、何万回もな。婚礼に立ち会うたび、思うた。妾の名を呼んで祈る者は、もうおらぬのだと。……じゃが結人。後悔と、間違いは、違うのじゃ。妾は後悔しておる。間違うたとは、思うておらん」
朝の光が、縁側を半分まで浸した頃、結人は口を開いた。
「整理させてください。決勝で僕が勝てば、僕は『栄光』の火にくべられて、器が満ちて、戦神が戻る。負ければチギリさんが燃料にされる。……そして、あなたを人質にした約束は、あなたが証人である限り、消せない」
「うむ」
「なら、答えはひとつです。勝ちも負けもしない」
「無効試合を狙うか? 逃げれば敗北扱いじゃぞ」
「逃げません。戦いますし、看破もします。ただ、看破する相手を変えます」
結人は立ち上がって、朝日の方を向いた。万神殿の輪郭が、遠くで金色に縁取られている。
「相手の神器じゃなく——リーグそのものの真名を、聖域の真ん中で言い当てる。『このリーグの真名は、破られるための約束』だと。承認の鐘は、真実にしか鳴りません。百年ぶんの観客の前で、あの鐘に真実を鳴らさせます」
「……鳴らして、どうなる」
「分かりません。でも、チギリさんが言ったんです。約束は、結んだ双方と、証人のもの。なら、偽の約束だと満座で立証されたとき、証人には——約束を結び直させる権利があるはずです」
チギリは、長いこと結人を見上げていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、袖を正して、深く、頭を下げた。
「頼む」
三百年、誰にも言わなかった言葉を、小さな神は言った。
「妾の約束の、続きを——おぬしに、頼む」
朝日が縁側を満たした。結人は膝をついて、小さな神と目の高さを合わせ、いつものように、少しだけ笑った。
「はい。……ということは、決勝までにやることが、山ほどありますね」




