第18話 空席の主
朝、宿舎の扉の前に、細長い木箱が置かれていた。
差出人はない。中身は、あの日、記録僧に取り上げられた古い巻物だった。「修復に回す」と言われたきり、戻らないと思っていたものが、決勝を前に返ってきた。
「……開けてみよ」
チギリの声が硬い。結人は縁側で巻物を広げた。
一目で、わかった。
紙は同じだ。綴じも、日灼けの具合も。だが、あの画数の多い古い字——チギリが「供物の火」と読んだ文字のあった行だけ、墨の色が新しい。削って、上から書き直してある。今の文字で、当たり障りのない「栄光」と。
「修復、という名前の仕事ですか。これは」
「改竄じゃ」
チギリは巻物の縁を、小さな指でなぞった。怒りというより、古い痛みを確かめる手つきだった。
「じゃがな、結人。これは同時に、白状でもある。削って隠すということは、隠さねばならぬ者が、まだこの万神殿のどこかにおるということじゃ」
「隠さねばならない者……宣誓文を書き換えた誰か」
「誰か、ではない」
小さな神は、巻物を丁寧に巻き戻した。
「今夜、会いに行く。おぬしには、見ておいてもらう。——妾が三百年、会いに行けなんだ相手じゃ」
深夜の万神殿は、音を吸う場所だった。
閉門後の裏道を、チギリは迷いなく歩いた。三百年ぶんの慣れだと、あとで気づいた。すり鉢状の観客席を、下からではなく上へ、最上段へ。神々の席のさらに奥、ひとつだけ誰も座らない席の前で、チギリは足を止めた。
主催席。開会式でも、再宣誓式でも、空だった席。
近くで見るそれは、ただの古い石の椅子だった。ただ、その周りだけ、夜風が遅れて流れる。結人の首筋の毛が、理屈より先に立った。
「結人。何があっても、糸に触れるな。妾が呼ぶまで、口も利くな」
チギリは席の前に立ち、背筋を伸ばした。童女の姿が、そのときだけ、ひどく古いものに見えた。
「——久しいの、荒ぶる者よ」
古い言葉だった。意味は分からないのに、なぜか胸の奥で意味になる、そういう種類の言葉。
「三百年前、そなたと諸神の間に立ち、妾は約束を結んだ。戦を捨て、競いをもって代えると。……妾はその対価に名を差し出した。そなたは、何を差し出した?」
風が、止まった。
石の椅子の上の空気が、ゆっくりと、濃くなった。座っている、としか言えない何かが、そこにいた。目はない。輪郭もない。ただ、練兵場千個ぶんの「戦いたい」という飢えだけが、形を持ちかけては崩れている。
《——差し出しては、おらぬ》
声は、鐘の裏側から響くようだった。
《我は、預けたのだ。この席に。……返してもらう日まで》
戦神の残滓。
チギリはそれを、そう呼んだ。三百年前の休戦で、諸神の戦意——その最も濃い澱が、行き場を失ってこの席に沈殿した。神々は戦うことをやめた。だが、やめた戦意は消えない。器に移されただけだ。
《競いの度に、勝者が来る》
残滓は、歌うように言った。
《強き者ほど、よく燃える。栄光とは、火の名。勝者を火にくべ、我は太る。満ちる日に、席を立つ。約束は、そのために結ばせた——破られるための約束を》
「……リーグは、休戦の証じゃなかった」
結人は、口を利くなと言われたことも忘れて、呟いていた。
「休戦を破るための、薪拾いだった」
百年、代理選手たちが競い、勝者が「栄光に送られ」続けた。シグネの兄も。歴代の、記録が途切れた全員も。あの空席の中で、次の戦のための火にくべられて。
《小さき証人よ》
残滓の声が、チギリへ向いた。
《名もなきそなたを、殺すことも消すこともできなんだ。じゃが、もうよい。次の勝者で、器は満ちる。……次の勝者で、な》
次の勝者。決勝の。
風が戻ってきて、席の上の気配は薄れた。チギリは長いこと動かず、それから、結人の袖を小さく引いた。帰り道、月明かりの参道で、小さな神は一度だけ言った。
「時が来た、と思わぬか。結人」
小指の五本目——「時が来たら話す」と結んだ約束の糸が、月の下で静かに深い赤をしていた。




