第17話 休息日
休息日の選手村は、祭りの裏側のような匂いがする。
結人が食堂の脇を通ると、荷車の軋む音がした。ラフィだった。米袋を三つ担いで、それでも足取りは軽い。
「おう、決勝進出者どの! 見ろよ、今日は四袋いける気がする」
「三袋で止めたほうがいいと思います。腰の角度が、もう限界です」
「出た出た、観察」
ラフィは笑って、けれど素直に三袋目で荷台を離れた。あの初戦から、彼はずっとこの調子だ。負けた相手の助言を、風みたいに受け取る。翼のサンダルは今日も彼の足元で、荷物があるときだけ、機嫌よく羽ばたいている。
中庭では、ネフェルが後輩たちを並べて座らせていた。齧りかけのパンを持つ手つきから、姿勢の話をしているらしい。彼女の左手首には、あの組紐。目が合うと、彼女は講義を止めずに、小さく顎だけで頷いた。
敗者は記録に残らない。でも、ここにいる。
選手村の午後は、そのことを毎日、静かに証明していた。結人は買い出しの籠を抱え直して、駄菓子屋の角を曲がった。チギリに頼まれた麩菓子と、それから今夜のぶんの飴。買うものは、いつもと同じだった。いつもと同じであることが、明後日からを思えば、少しだけ贅沢だった。
夕方の練兵場に、イツルギがいた。
上着を畳んで置き、木剣を一本、無言で投げてよこす。受け取りそこねて拾う結人に、彼は何も言わない。それが誘いだと分かるまで、少しかかった。
「……僕、剣は素人ですよ」
「知っている。剣を教える気はない」
イツルギは自分の木剣を、ゆっくり上段に運んだ。
「呼吸を見ろ。俺が吸う時と、吐く時。どちらで打ってくるか」
それから半刻、結人はただ観察して、外し続けた。吸う時に来ると思えば吐く時に来て、読めたと思えば呼吸そのものを消される。汗だくになった頃、ようやく三回に一回、木剣を合わせられるようになった。
「上出来だ」
イツルギは木剣を下ろした。「決勝の相手が誰であれ、お前は打ち合いでは勝てん。だが、呼吸は誰にでもある。神にでもな」
「……神にも、ですか」
「俺の相棒は千年もののへそ曲がりだが、それでも息はする。焦れる時、勝ち誇る時、隠しごとをする時。息が変わる」
彼は上着を取って、肩にかけた。去り際、思い出したように付け足す。
「お前の目は嫌いじゃないと言ったな。訂正する。——あの目に、俺は一度も勝てる気がせん。行ってこい」
夕陽が、練兵場の砂を橙に染めていた。結人は借りた木剣を返し損ねたことに、家に着いてから気づいた。
夜、縁側で、チギリは糸の手入れをしていた。
手入れといっても、結人の左手を膝に載せて、七本の糸を一本ずつ、指の腹で撫でるだけだ。それでも撫でられた糸は、心なしか色が深くなる気がする。
「一本目」
チギリが言う。結人が答える。
「あなたの隣で勝つ約束」
「二本目」
「初戦の看破の……名前のない糸です」
「三本目」
「境内百周。……あれは、もう果たしました」
「果たした糸も、消えぬのじゃ。守られた約束は、そこに残る」
四本目は秤の夜の、これも名のない看破の糸。五本目、時が来たら話すこと。六本目はシグネとの試合の看破。七本目——シグネの兄の行き先を、問うこと。
「重いか」
「重いです。でも」
結人は、月に左手をかざした。七本の赤が、細く光る。
「最初の一本を結んだ夜、チギリさんは言いました。妾を選ぶな、何も持たぬって。……今は七本もある。何も持ってなかった僕たちにしては、悪くない財産だと思います」
チギリは、ふ、と息だけで笑った。それから飴をひとつ、結人の掌に載せた。今夜のは、麩菓子ではなく、いちばん上等な水飴だった。
「明日の夜、万神殿へ行く。……その前の、今夜だけは」
小さな神は、月を見た。
「何も数えず、何も量らず——いや、なんでもない。飴を食え、結人。今夜は、それでよい」
虫の声が、縁側を満たしていた。結人は言われた通り、飴を口に入れた。甘さが、ゆっくり溶けた。




