第24話 一行の続き
書庫のいちばん奥の机に、万神名鑑は開かれていた。
最終頁。欄外。かすれた一行。
《チギリ。約束を司る。以下、記録なし》
「本当に、私が立ち会ってよいのですか」
そう言ったのは、あの記録僧だった。巻物を取り上げた、宣誓文の改竄を「修復」と呼んでいた、あの人だ。儀のあと、彼は自分から神殿に沙汰を願い出て、贖いとして書庫の大掃除を任されている。決勝の夜、匿名で木箱を届けたのが彼だったことを、結人はもう知っていた。
「記録の間違いを直すのは、記録僧の立ち会いがいる仕事でしょう」
「……間違い、ですか」
「はい。『以下、記録なし』——ここが間違いです。記録は、あります。三百年ぶん」
結人は筆を取った。硯の墨は、記録僧がいちばん上等なものを磨ってくれた。
欄外の一行の、その下に。三年間、列の最後尾で観察だけしてきた男の、癖のある字で。
《三百年、婚礼と手打ちと指切りに立ち会い、戦を二度、止めた。》
《その証人は、今も縁側で飴を食っている。》
書き終えて、筆を置く。隣で頁を覗き込んでいたチギリは、長いこと黙っていた。それから、袖で目のあたりを、素早く、一度だけ拭った。
「……字が、下手じゃの」
「すみません。でも、心はこもってます」
「うむ。……うむ」
小さな神は、それ以上は何も言わなかった。言わなくても、糸で繋がっている相手には、だいたいのことは伝わるのだった。
選手村の門は、旅支度の匂いがした。
「じゃあな、約束の代理! 北に来たら寄れ! 兄貴の村は羊の乳酒がうまいらしい」
ラグナルは、三年ぶんの時差を取り戻すみたいによく喋る人だった。妹はその隣で、荷紐を締め直しながら、呆れた顔をしている。呆れた顔のまま、幸せそうだった。
「結人」
シグネが、別れ際に手を出した。握手は、思ったより硬くて、温かかった。あの日のラフィの手と、同じ温度だった。
「借りは忘れるな。二つだ。いつか必ず、取り立てさせろ」
「はい。楽しみにしています」
「それと——次の万神殿。四年後だそうだ。私は、出る」
銀の目が、まっすぐに結人を射た。
「今度は、正しい約束の上で、お前と決着をつける。逃げるなよ、約束の代理」
門の内側では、ラフィが荷車に「はしり屋ラフィ・翼の配達」と書いた板を釘で打ちつけていた。届け物があるときだけ本気になる神器と、荷運びで鍛えた足。天職というものは、あるところにはあるらしい。ネフェルは秤の家に戻らず、万神殿に残って、次の代理候補の子たちに「言い落としの見つけ方」を教えるのだという。
「先生になるんですね」
「先生は、やめてくれ」
彼女は久しぶりに、あの計るような静けさで笑った。
「私はただ、次の欄外の子を、探しておくだけだ。……お前のような子を、な」
夜、縁側には、いつもの位置に二人ぶんの影があった。
月は、最初の夜と同じ形をしていた。チギリが顕現した、あの夜の月。妾を選ぶな、と言った小さな神と、あなたの隣で勝ちますと言った、選ばれなかった小僧の夜。
「四年後、じゃと言うたな。シグネの奴」
「言ってました。出る、と」
「おぬしは、どうする」
結人は、麩菓子を齧りながら考えた。庭の虫が鳴いている。左手の小指には、赤い糸が一本。隣で勝つ、の一本。まだ果たされていない、急がなくてもいい約束。
「出ます。今度は欄外からじゃなく、名簿の真ん中から」
「ほう」
「それに、四年あれば、看破の腕ももう少し上がります。次のリーグは正しい約束の上でやる、ただの競技です。……ただの競技で、一度くらい、ちゃんと優勝してみたいじゃないですか。チギリさんの隣で」
チギリは飴を口に放り込んで、ころり、と転がした。
「欲が出たの、結人」
「はい。三年前の僕に見せてやりたいくらい」
「よいことじゃ」
月が、縁側の二人を静かに照らしていた。名鑑の欄外に二行が書き足された夜。世界のどこにも急ぎの用がない、上等な夜だった。
「よいか、結人」
「はい」
チギリは、ずいぶん長いこと黙っていた。それから、袋の中の最後の飴を、結人の掌にのせた。
「……いや。なんでもない。飴を食え。話は、それからじゃ」
結人は笑って、飴を口に入れた。
甘さが、ゆっくり溶けていった。約束の神と、その代理人の、長い長いこれからの、最初の夜だった。
これにて『最弱神の代理戦争』、完結です。
名前が残らなくても、約束は残る——この物語で書きたかったのは、
結局そのひとつだけだった気がします。
史書に一行しか残らない神様と、どの神にも選ばれなかった少年の話に、
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
結人とチギリの「四年後」は、いつかまた、書ける日が来たら。
次回作は、打って変わって——回復魔法が当たり前すぎて、
誰も「鍛え方」を知らない世界に落ちたプロのフィジカルコーチが、
王国最下位の騎士団を立て直す話を準備しています。
よろしければ、そちらでもお会いできると嬉しいです。
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それでは、また次の物語で。




