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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第19章 第4話:移動教室の授業――机を積んだバス


 春馬は、山の上から町の学校を見下ろしていた。


 朝の空気はまだ冷たい。


 杉の葉についた露が、風に揺れるたび細かく光る。足元の土は昨夜の雨を吸ってやわらかく、長靴の裏に湿った泥がついた。


 坂の下には、細い道が谷へ向かって続いている。


 その先に、小さな橋がある。


 橋を渡り、曲がりくねった県道をずっと下り、バス停まで歩いて、そこからさらに町へ出ると、小学校がある。


 晴れていれば、遠くに校舎の屋根が見える日もある。


 春馬は、その屋根を見るのがあまり好きではなかった。


 遠いから。


 あそこには、自分の机があるはずだった。


 でも、春馬の机は、いつも少し遠くにある。


 春馬の家は山間の小さな集落にあった。


 家の裏には畑があり、さらに上には杉林が続く。近くを細い沢が流れ、雨が降ると水の音が一気に大きくなる。


 最寄りの小学校までは遠い。


 スクールバスは途中の集落までは来るけれど、春馬の家の近くまでは入ってこない。


 山道は狭く、落石もある。


 雨の日や雪の日は、家から出るだけで大変だった。


 オンライン授業を試したこともある。


 けれど、山の天気は気まぐれで、通信はすぐ途切れる。


 先生の声が途中で止まる。


 画面が固まる。


 友だちの笑い声だけが遅れて聞こえる。


 春馬が答えようとした時には、もう別の問題に進んでいる。


 だから、春馬はだんだん画面を開かなくなった。


 学校へ行けない日は、家の手伝いをした。


 薪を運ぶ。


 畑の水路を見る。


 祖父と一緒に獣除けの柵を直す。


 沢の水が増えていないか確認する。


 それは大事な仕事だった。


 でも、夕方になると、ふと思う。


 今日、学校では何をしたのだろう。


 算数はどこまで進んだのだろう。


 理科の実験は終わったのだろうか。


 自分の机の上に、プリントだけが積まれているのだろうか。


 祖父は言う。


「山の子は山のことを覚えればいい」


 母は言う。


「行ける日は行こうね」


 先生は電話で言う。


「無理しなくていいよ。来られる時においで」


 みんな優しい。


 でも、その優しさが、春馬には少し遠かった。


 来られる時においで。


 それは、来られない日は学校が遠いままだということだった。


 春馬は、小さく呟いた。


「どうせ僕のところには学校は来ない」


 その声は、沢の音に混ざって消えた。


 その日の昼前、山道の下からエンジン音が聞こえた。


 春馬は顔を上げた。


 郵便車とは違う音。


 宅配便とも違う。


 祖父が縁側から目を細める。


「なんだ、あれは」


 細い道を、白い小型バスがゆっくり上ってきた。


 車体の横には、青い文字でこう書かれている。


『移動教室』


 バスの窓から、折り畳み机らしきものが見えた。


 小さな黒板。


 箱に入った教材。


 色鉛筆。


 地図。


 春馬は、道の端に立ったまま動けなかった。


 バスが家の前の広場に停まる。


 運転席から降りてきたのは、移動教室担当の石倉先生だった。


 石倉先生は、少し日焼けした顔に眼鏡をかけている。肩から教材の入った布袋を下げ、手には出席簿を持っていた。


「春馬くん、おはよう」


 春馬は、返事をしなかった。


 次に、バスの後ろから一人の先生が降りてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 巡回教育の授業づくりを支援するために来ている先生だった。


 石倉先生は、バスの後ろの扉を開けた。


 中から折り畳み机を出す。


 小さな椅子を二脚。


 簡易黒板。


 教材箱。


 春馬は、遠くから見ていた。


 石倉先生が、広場の平らな場所に机を広げる。


 脚を立て、天板を叩いて安定を確かめる。


 黒板を木箱の上に置く。


 白いチョークで、ゆっくり書いた。


『今日の教室』


 春馬は、思わず言った。


「ここでやるの?」


 石倉先生は笑った。


「今日は、ここが教室です」


 その言葉を聞いても、春馬はすぐには近づけなかった。


 学校は町にあるものだと思っていた。


 校舎。


 廊下。


 チャイム。


 黒板。


 机。


 下駄箱。


 みんなの声。


 ここには、山道と畑と沢しかない。


 机が一つ来ただけで、ここが教室になるのだろうか。


 灯理が、春馬の近くに立った。


「春馬さん」


「はい」


「先生、学校って、来られる人のところにしかないんでしょう」


 春馬は、自分の胸にあった言葉をそのまま言われて驚いた。


 灯理は、静かに問いを返した。


「うん。では、学校は建物のある場所だけで始まるものなのでしょうか」


 春馬は、広場の机を見た。


 風がチョークの粉を少し飛ばす。


 遠くで鳥が鳴く。


 沢の水の音が、いつもよりはっきり聞こえる。


 建物はない。


 チャイムもない。


 でも、机がある。


 黒板がある。


 先生がいる。


 そして、自分がここにいる。


 石倉先生は、教材箱を開けた。


「春馬くん、今日は補習だけにしません」


「補習?」


「学校で進んだところを確認する時間も作る。でも、それだけだと、ここまで来た意味が半分になってしまう」


 石倉先生は、沢の方を指した。


「今日は、この山から授業を始めたい」


 春馬は眉を寄せた。


「山から?」


「そう」


 石倉先生は、ワークシートを広げた。


 上にはこう書かれている。


『ここから始まる理科と算数』


 項目が並んでいた。


『今日の天気』

『沢の水の高さ』

『昨日と比べた変化』

『水が増える理由』

『水の流れの速さ』

『畑に必要な水』

『雨の日に危ない場所』

『次に会うまでの観察』


 春馬は、紙を見た。


 沢の水。


 畑。


 雨の日。


 それは、春馬が毎日見ているものだった。


 学校の教科書の中ではなく、自分の家のそばにあるもの。


 灯理は言った。


「春馬さんは、沢の水が増えた時、どこを見ると危ないかわかりますか」


「わかる」


 春馬は即答した。


「あそこの石が隠れたら危ない。あと、橋の下の枝が引っかかってたら、すぐ水がたまる」


 石倉先生が、嬉しそうに頷いた。


「それを、今日は理科と算数の言葉にしてみよう」


 春馬は、少しだけ机に近づいた。


 椅子にはまだ座らない。


 でも、ワークシートを手に取った。


 授業は、沢へ向かうところから始まった。


 石倉先生は、水位を測るための簡単なものさしを持っていた。


 灯理は、観察ノートを持っている。


 祖父も、少し離れてついてきた。


「学校の先生が沢まで来るとはな」


 祖父は、少し面白そうに言った。


 沢の水は、昨日の雨で少し増えていた。


 石の間を白く泡立ちながら流れている。水の匂いは冷たく、湿った苔の匂いが混ざっていた。


 春馬は、いつも見る石を指した。


「これが見えてる時は、まだ大丈夫」


「今日はどれくらい見えていますか」


 石倉先生が聞く。


 春馬は、ものさしを当てた。


「上から十二センチくらい」


「昨日の夕方は?」


「たぶん、半分くらいしか見えてなかった」


「では、昨日より水位は下がっていると考えられますね」


 石倉先生は、ワークシートに表を作った。


『時間』

『石の見え方』

『水位』

『天気』

『気づいたこと』


 春馬は、鉛筆で書いた。


『午前十時四十分』

『石が十二センチ見える』

『昨日より下がった』

『晴れ』

『水の音はまだ大きい』


 次に、石倉先生は葉っぱを一枚水に流した。


「この葉が、ここからあの石まで何秒で進むか測ってみましょう」


 春馬がストップウォッチを持つ。


「用意、始め」


 葉っぱが流れる。


 岩にぶつかり、少し回って、また進む。


「七秒」


「距離は?」


 石倉先生がメジャーを伸ばす。


「三メートルくらい」


「では、一秒あたりどれくらい進んでいるでしょう」


 春馬は、少し考えた。


「三メートルを七秒で割る?」


「そうですね」


 割り切れない。


 春馬は、町の学校で習った小数の割り算を思い出した。


 教科書の中では、数字だけだった。


 今日は、葉っぱが流れている。


 水の音がしている。


 自分の長靴が濡れている。


 春馬は、机に戻って計算した。


 三割る七。


 約〇・四三。


「一秒で四十センチくらい?」


「いいですね」


 石倉先生が黒板に書く。


『流れの速さ:約〇・四三メートル毎秒』


 春馬は、黒板の数字を見た。


 沢の水が、算数の言葉になった。


 それは少し不思議だった。


 昼になる前に、畑へも行った。


 祖父が育てているじゃがいもと大根が並んでいる。


 石倉先生は、畑の畝の長さを測らせた。


 畑一列に必要な水の量を、だいたいで考える。


 雨が多すぎる時と少なすぎる時で、作物がどう変わるかを祖父に聞く。


 祖父は、最初は「わしの話なんか授業になるのか」と言っていた。


 しかし、春馬がノートに書き始めると、少し背筋を伸ばした。


「この畑はな、上の山から水が集まる。雨が三日続くと、こっちの端がぬかるむ。逆に夏に日照りが続くと、ここの土が割れる」


 石倉先生が尋ねる。


「それは、どこを見て判断しますか」


「土の色と、指で触った時の感じだな」


 春馬が書く。


『土の色』

『指で触った感じ』

『畑の端がぬかるむ』

『夏は土が割れる』


 灯理は、春馬のノートを見て言った。


「春馬さんは、毎日の暮らしの中で観察していたのですね」


「観察?」


「はい。理科の入口です」


 春馬は、少し照れたように目をそらした。


「別に、普通に見てただけ」


「普通に見ていたことが、学びになることがあります」


 昼近く、広場の机に戻ると、石倉先生は算数のプリントも出した。


「学校で進んだ小数の計算も、少し確認しましょう」


 春馬は、少し身構えた。


 やっぱり遅れを見られるのだと思った。


 けれど、プリントの問題は、沢の流れや畑の長さを使ったものに変えられていた。


『三メートルを七秒で流れる水の速さを求める』

『一つの畝が六・五メートル。三列では何メートルか』

『雨量が一日で二十四ミリ。三日続くと何ミリか』


 数字だけを見るより、少し考えやすかった。


 春馬は、ゆっくり解いた。


 途中で間違えた。


 石倉先生はすぐに答えを言わず、沢で測った時のことを思い出させた。


「三メートルは、あの石までの距離でしたね」


「うん」


「七秒でそこまで進んだ。では、一秒ではどれくらいか」


 春馬は、もう一度計算した。


 答えが出る。


 黒板に書く。


 字は少し曲がったけれど、消さなかった。


 授業の終わりに、石倉先生は巡回ノートを出した。


 表紙には、『春馬の移動教室ノート』と書かれている。


「次に会うまでの学びをここに置いていきます」


「宿題?」


「宿題と言ってもいいですが、今日は観察です」


 石倉先生は、ノートに項目を書いた。


『毎日一回、沢の石が何センチ見えるか測る』

『天気を書く』

『水の音を一言で書く』

『畑の土を触った感じを書く』

『危ないと思った日は無理に近づかない』

『写真を撮れる日は撮る』

『次にバスが来た時に、一緒に表にする』


 春馬は、ノートを受け取った。


「毎日?」


「できる日だけでいいです」


「学校に行けない日も?」


「はい。学校に行けない日にも、ここで学べることがあります」


 その言葉に、春馬は少し黙った。


 学校に行けない日は、何も進まない日だと思っていた。


 でも、このノートがあれば、山にいる日も何かが残る。


 沢の水位。


 天気。


 土の湿り気。


 それが次の授業につながる。


 春馬は、ノートの最初のページに今日の日付を書いた。


 そして、少し迷ってから一文を加えた。


『今日は、山の道のそばに学校が来た』


 石倉先生は、その一文を見て、しばらく黙っていた。


 目の奥が少し熱くなった。


 これまで石倉先生は、移動教室を「遅れを補う時間」として考えていた。


 短い巡回時間の中で、できるだけ教科書を進める。


 プリントを渡す。


 わからないところを説明する。


 次に会うまでの課題を出す。


 必要なことだった。


 しかし、そのたびに時間が足りず、焦りが残った。


 山道を何時間も運転し、いくつもの集落を回る。


 教材を積み、机を運び、天候を気にし、通信を確認する。


 疲れないと言えば嘘になる。


 自分はただ、町の学校から遅れた分を少しずつ埋めるだけなのかと思う日もあった。


 でも、今日、春馬の家の前で机を広げた時、少し違うものが見えた。


 ここにしかない教材がある。


 沢の流れ。


 畑の土。


 山の天気。


 祖父の知恵。


 春馬の毎日の観察。


 学校が町の校舎だけにあるなら、それらは学びの外に置かれてしまう。


 けれど、学校がここへ来るなら、それらを教室の真ん中に置ける。


 片づけの時間になった。


 石倉先生が黒板を拭き、机を畳む。


 春馬は、手伝った。


「これ、重い?」


「少しね」


「僕、持てる」


 二人で机をバスへ運ぶ。


 バスの中には、他の地域へ持っていく教材も積まれていた。


 小さな地球儀。


 絵本。


 分数カード。


 虫眼鏡。


 折り畳み式の黒板。


 まるで、学校のかけらを積んでいるようだった。


 祖父が、バスの横で言った。


「先生、わしの畑の話でよければ、また話すぞ」


 石倉先生は笑った。


「ぜひお願いします」


 祖父は少し得意そうに頷いた。


「山の天気は、教科書より早く変わるからな」


 春馬は、思わず笑った。


 灯理も、そのやり取りを見ていた。


 地域の大人が、学びの中へ入ってくる。


 学校が来ることで、子どもだけではなく、土地の記憶や知恵も教室に入ってくる。


 それは、校舎の授業とは違う形の教室だった。


 翌日から、春馬は巡回ノートをつけ始めた。


 一日目。


『晴れ』

『石が十三センチ見える』

『水の音は昨日より小さい』

『土は少し湿っている』


 二日目。


『くもり』

『石が十一センチ見える』

『上の方で雨が降ったかもしれない』

『畑の端がやわらかい』


 三日目。


『雨』

『沢に近づかない』

『音が大きい』

『窓から見たら、橋の下に枝が引っかかっていた』


 近づかないという判断も、ノートに書いた。


 灯理が言っていた。


 危ない日は、見に行かないことも観察の一部。


 春馬は、それが少し嬉しかった。


 無理をすることだけが学びではない。


 安全を選ぶことも、山で生きるための知恵だった。


 次に移動教室のバスが来た日、春馬はノートを持って広場へ走った。


 以前のように遠くから眺めるだけではなかった。


 バスが停まる前に、春馬は手を振っていた。


 石倉先生が降りてくる。


「春馬くん、ノートはどうでしたか」


「書いた」


 春馬は、少し得意げに差し出した。


 ノートには、天気と水位と音が並んでいた。


 石倉先生は、それを見て言った。


「これは、立派な観察記録です」


「これで何するの?」


「表にします。グラフにもできます」


「グラフ?」


「水位の変化を見えるようにします」


 春馬は、机に座った。


 広場の机。


 折り畳みの椅子。


 バスの横の小さな黒板。


 沢の音。


 そこはもう、前ほど不思議な場所ではなかった。


 春馬はノートを開き、石倉先生と一緒に表を作った。


 日付。


 天気。


 水位。


 音。


 気づいたこと。


 数字が並ぶ。


 折れ線グラフにすると、雨の日の後に水位が上がり、晴れの日が続くと下がっていくのが見えた。


 春馬は、グラフを見つめた。


「水の音、大きいって書いた日、水位も上がってる」


「そうですね」


「橋の枝が引っかかった日も上がってる」


「危険のサインになりそうですね」


 石倉先生は、黒板に書いた。


『観察からわかる危険のサイン』


 祖父も見に来た。


「ほう、数字にするとよくわかるな」


 春馬は、少し誇らしかった。


 自分が毎日見ていた沢の音や石の見え方が、グラフになった。


 それは、町の学校の勉強とは別のものではなく、つながっていた。


 午後には、近くの家の小さな子も広場に来た。


 通信が不安定で、町の保育園へ通えない日が多い子だった。


 石倉先生は、絵本を出した。


 祖父は、山の天気の見方を話した。


 灯理は、子どもたちの言葉を黒板に書いた。


 移動教室の周りに、小さな輪ができた。


 春馬は、その輪の中で鉛筆を持っていた。


 学校は、町にある建物だけではなかった。


 少なくとも今日は、山の道のそばにあった。


 授業が終わる頃、石倉先生は春馬に言った。


「春馬くん、町の学校に来られる日も大切です」


「うん」


「友だちと会うこと、同じ教室で学ぶこと、行事に参加すること。それも大事です」


「うん」


「でも、来られない日が全部止まった日になるわけではありません」


 春馬は、巡回ノートを抱えた。


「バス、また来る?」


「来ます」


「雪の日も?」


「安全に来られる日なら。難しい日は、別の方法を考えます」


「じゃあ、冬の沢も書く」


「お願いします」


 春馬は、少し笑った。


「冬は、石の上に氷がつく」


「それも理科ですね」


「あと、道が凍るとどこが危ないかもわかる」


「それも大切な学びです」


 灯理は、二人の会話を静かに聞いていた。


 子どものいる場所へ学校が向かう。


 それは、単に机を運ぶことではない。


 その子が見ている世界を、学びの入口として尊重することだった。


 夕方、移動教室のバスは山道を下りる準備をした。


 春馬は、広場の端で見送った。


 バスの中には、折り畳まれた机と黒板が積まれている。


 次の集落へ向かうのだろう。


 春馬は、巡回ノートを胸に抱えたまま、バスが曲がり角を過ぎるまで見ていた。


 町の学校は、まだ遠い。


 それは変わらない。


 でも、春馬のいる場所に、学校が一度来た。


 机を広げ、黒板に文字を書き、沢の水を測り、畑の土に触れた。


 その記憶が、山道の風の中に残っていた。


 夜、灯理は山間の集落を下りた先の停留所で、石倉先生と別れの挨拶をした。


 空は深い青に変わり、山の稜線だけが黒く浮かんでいる。移動教室のバスの窓には、畳まれた机の影が映っていた。


 石倉先生は、ハンドルに手を置いたまま言った。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、山のそばにある教室を一緒に見せていただきました」


 石倉先生は、少し疲れた顔で笑った。


「正直、巡回は大変です」


「はい」


「時間も限られています。道路も天気も読めない。教材を積んで、机を運んで、町の学校との進度も見なければいけない」


「はい」


「でも、今日、春馬くんの沢の記録を見て、移動教室はただ遅れを補うだけの場所ではないのだと思いました」


 灯理は頷いた。


「その土地から始まる学びがありますね」


「はい。学校へ来られない子どもを責めるのではなく、学校がその子のいる場所へ向かう。その時、こちらも学ぶのですね」


 石倉先生は、バスの中の黒板を見た。


「次は、冬の沢を見に来ます」


 夜風が、停留所の小さな標識を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、商店街の空き店舗から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 学びを届けることは、子どもを学校へ来させることだけではない。


 校舎へ向かう道が遠い子がいる。


 天気に阻まれる子がいる。


 通信の向こうで声が途切れる子がいる。


 家の仕事や地域の事情の中で、学校の時間から離れてしまう子がいる。


 その時、学校は待つだけではなく、向かうこともできる。


 机を積んだバスで。


 折り畳みの黒板で。


 紙のノートで。


 土地の水や土や風を教材にして。

3

 子どもが生きている場所へ、教室の方が歩いていく。


 灯理は、山の上の集落を振り返った。


 そこでは、春馬が巡回ノートを机の上に広げている。


 今日のページには、消されなかった一文が残っている。


 今日は、山の道のそばに学校が来た。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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