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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第20章 第1話:子ども議会の授業――届かないマイク


 杏奈の声は、マイクに拾われなかった。


 市役所の大会議室は、いつもの教室よりずっと広かった。


 高い天井。


 白く光る蛍光灯。


 壁に並ぶ市の旗と大きな時計。


 前方には市長席と職員席があり、その向かいに子ども議員用の机が半円形に並べられている。


 机の上には、一人に一本ずつマイクが置かれていた。


 黒く細い首を伸ばしたマイク。


 赤いランプが点くと、発言の順番が来た合図になる。


 杏奈は、その赤いランプが怖かった。


 手元の原稿は、何度も読み返して端が少し丸くなっている。


 内容は覚えていた。


 学校の前の交差点が危ないこと。


 朝の登校時間に車が多いこと。


 信号が変わるのが早く、小学生が渡りきれないこと。


 放課後、家に帰るまで安心して過ごせる場所が少ないこと。


 図書館は早く閉まる日がある。


 公園は夕方になると暗い。


 児童館は小学生向けで、中学生は行きにくい。


 学校では「地域の課題を考えよう」と言われた。


 杏奈は、ずっと気になっていたことを書いた。


 けれど、子ども議会の会場に来ると、その言葉は急に小さくなった。


 ほかの学校の代表は、堂々としていた。


「私たちは、駅前の活性化について提案します」


「観光客を増やすために、地域キャラクターを活用すべきです」


「高齢者と子どもが交流できるイベントを増やしたいです」


 声が大きい。


 姿勢がよい。


 資料も見やすい。


 言葉がすらすら出てくる。


 市の職員たちは頷き、メモを取り、時々「すばらしい提案ですね」と言った。


 杏奈は、自分の原稿を見下ろした。


 交差点。


 放課後。


 居場所。


 その言葉は大事なはずなのに、会場の中では少し地味に見えた。


 司会の職員が言った。


「次は、東第三中学校代表、三浦杏奈さん。お願いします」


 マイクの赤いランプが点いた。


 杏奈は立ち上がった。


 椅子が床をこする音が、やけに大きく聞こえた。


 原稿を持つ手が震える。


 マイクに顔を近づける。


「えっと……私たちの学校の前にある交差点について、です」


 自分では声を出したつもりだった。


 けれど、会場の後ろの方で、誰かが首を傾げた。


 マイクが拾っていない。


 司会の職員が少し身を乗り出した。


「もう少しマイクに近づいてください」


 杏奈は、さらに近づいた。


 息がマイクに当たる。


「学校の前の、交差点が、朝、危なくて」


 声がかすれる。


 言葉が途中で途切れる。


 頭の中で練習した文章が、白く消えていく。


 赤いランプ。


 市長席。


 職員の視線。


 隣の学校の代表のペンの音。


 全部が一度に迫ってきた。


「小学生が、渡る時に……車が……」


 言葉が出ない。


 喉の奥が詰まる。


 司会の職員が時計を見た。


 会議の進行表には、一人三分と書かれている。


 杏奈は、その視線に気づいた。


 時間がない。


 迷惑をかけている。


 早く終わらせなければ。


「あの、すみません」


 杏奈は原稿を握りしめた。


「以上です」


 会場が少しだけざわついた。


 司会の職員は、やわらかい声を作った。


「ありがとうございました。では、次の発表に移ります」


 赤いランプが消えた。


 杏奈は椅子に座った。


 足元が冷たい。


 原稿には、まだ半分以上の文章が残っていた。


 言えなかった。


 交差点のことも。


 放課後の居場所のことも。


 危ない場所を地図で示すはずだったことも。


 何も言えなかった。


 隣の学校の代表が、次の発表を始める。


「私たちは、未来の公園について提案します」


 堂々とした声が、会議室に響く。


 杏奈は、手元の原稿を折った。


 一度。


 もう一度。


 小さく、小さく。


 担当職員の片山さんは、会場の端でその様子を見ていた。


 子ども議会を企画したのは、片山さんたち市民協働課だった。


 子どもの意見を市政に生かす。


 将来の市民参加を育てる。


 そのために、各学校から代表を出してもらい、市役所の本会議室に近い形式で発表してもらうことにした。


 子どもたちにとってよい経験になると思っていた。


 実際、発表が得意な生徒たちは生き生きとしている。


 資料も立派だ。


 市長も真剣に聞いている。


 けれど、杏奈のような子の声はどうなるのだろう。


 マイクの前で言葉が途切れた意見。


 時間の都合で流れてしまった提案。


 それは、なかったことになるのか。


 片山さんは、進行表を見た。


 次の発表。


 質疑応答。


 講評。


 記念撮影。


 流れは決まっている。


 子どもの意見を聞く場を作ったつもりだった。


 でも、聞こえやすい声だけを拾う場になっていないか。


 会場の後ろに、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 子ども議会の学習支援として招かれていた先生だった。


 灯理は、杏奈の折りたたまれた原稿と、マイクの消えた赤いランプを見ていた。


 休憩時間になった。


 会議室の空気が少し緩み、子どもたちが水を飲んだり、資料を見せ合ったりしている。


 杏奈は、廊下の端に出ていた。


 市役所の廊下は、学校の廊下より広く、床がつるつるしている。窓の外には、ロータリーを出入りするバスが見えた。


 杏奈は、折った原稿を開いた。


 折り目が何本もついて、文字が少し読みにくくなっている。


 そこへ灯理がやってきた。


「杏奈さん」


 杏奈は、慌てて原稿を隠そうとした。


「すみません」


「何に謝ったのですか」


「ちゃんと言えなかったので」


 灯理は、廊下の窓の外を見た。


「言えなかったのですね」


「はい」


 杏奈は、唇を噛んだ。


「先生、マイクの前で言えなかったら、私の意見はなかったことになるんですか」


 自分で言って、胸が痛くなった。


 会議では、発言したことが記録される。


 言えなかったことは、記録されない。


 マイクに入らなかった声は、議事録に残らない。


 それなら、杏奈の交差点も、放課後の居場所も、存在しないことになるのだろうか。


 灯理は、すぐに慰めなかった。


 静かに問いを返した。


「うん。では、声が届くことは、マイクで大きく話せることだけなのでしょうか」


 杏奈は、顔を上げた。


「でも、議会って話すところですよね」


「話すことは、大切です」


「じゃあ、話せないと」


「話せない声をどう扱うかも、議会の大切な学びかもしれません」


 その時、片山さんが近づいてきた。


 少し迷うような顔をしていた。


「三浦さん」


 杏奈は身構えた。


「先ほどの発表の続き、もしよければ休憩後にもう一度時間を取りますか」


 杏奈は首を横に振った。


「無理です」


 声が小さかった。


「また同じになると思います」


 片山さんは、言葉を失った。


 善意で言ったつもりだった。


 もう一度発表の機会をあげればよいと思った。


 けれど、杏奈にとっては、もう一度同じマイクの前に立つことだった。


 灯理は言った。


「片山さん、発表以外の形で意見を受け取る時間を作れますか」


「発表以外、ですか」


「はい。地図、付箋、写真、短文カード、録音。声の大きさに頼らない方法です」


 片山さんは、会議室の中を見た。


 まだ休憩時間はある。


 午後の質疑応答の予定を少し変えれば、活動を入れられるかもしれない。


 進行表は崩れる。


 でも、崩した方がよいのかもしれない。


「やってみましょう」


 休憩後、子ども議会の机の配置が変わった。


 半円形に並んでいた机をいくつかのグループに分け、大きな市内地図を広げる。


 壁には模造紙。


 机には付箋、赤い丸シール、青いシール、黄色いシール、短文カード、ペン、タブレットが置かれた。


 片山さんが前に立った。


「午後の進め方を少し変更します」


 子どもたちが顔を上げる。


「午前中は、代表の皆さんに発表してもらいました。とても大切な意見がありました。ただ、意見はマイクで上手に話せるものだけではありません。これから、市の地図やカードを使って、困りごとや提案を出してもらいます」


 会場がざわつく。


 発表が得意な生徒の一人が、少し不思議そうに言った。


「発表した内容もまた書くんですか」


 灯理が答えた。


「はい。発表できた意見も、発表しきれなかった意見も、同じ地図の上に並べてみます」


 ホワイトボードには、次のように書かれた。


『赤:危ない場所』

『青:安心できる場所』

『黄:変えてほしい場所』

『緑:残したい場所』

『白カード:声に出しにくい意見』

『確認カード:自分の意見が正しく受け取られたか確認する』


 片山さんは、少し緊張しながら言った。


「名前を書きたくない意見は、匿名カードでも構いません。ただし、行政として対応が必要な内容は、どの部署につなぐかを確認します」


 杏奈は、市内地図の前に立った。


 学校の場所を探す。


 指でたどる。


 東第三中学校。


 その前の交差点。


 赤いシールを一枚貼った。


 少し迷って、もう一枚貼る。


 小学生がよく待っている角。


 信号が短い横断歩道。


 車が右折してくる場所。


 次に黄色いシールを、図書館と公園の近くに貼った。


 放課後に過ごしにくい場所。


 青いシールは、学校の図書室に貼った。


 安心できる場所。


 けれど、放課後は毎日開いているわけではない。


 杏奈は、短文カードに書いた。


『朝、学校前の交差点で小学生が渡りきれない時があります。車が右折してくるので怖いです。』


 もう一枚。


『放課後、家にすぐ帰りにくい子がいます。中学生が安心していられる場所が少ないです。』


 手が震えなかった。


 声を出さなくていいから。


 でも、意見は出している。


 隣のグループでは、発表が得意な生徒たちもカードを書いていた。


「駅前の自転車置き場、ここも危ないよね」


「観光の話、地図で見ると道案内が少ないのもわかる」


「公園のトイレ、使いにくいって小学生が言ってた」


 発表では出なかった小さな困りごとが、地図の上に増えていく。


 白カードの箱には、匿名の意見が集まった。


『家に帰りたくない日があるけど、行く場所がない』

『部活がない日は、図書館が閉まると困る』

『公園で大人に注意されるのが怖い』

『暗い道を一人で帰るのが不安』

『駅の近くで知らない人に声をかけられたことがある』

『学校では言いにくいけど、放課後に相談できる場所がほしい』


 片山さんは、そのカードを読みながら、胸の奥が重くなるのを感じた。


 子ども議会の発表では、「駅前活性化」や「イベント提案」が多かった。


 もちろん、それも大事だ。


 けれど、カードには、暮らしの中の切実な声があった。


 危ない。


 怖い。


 帰りにくい。


 相談したい。


 それらは、発表の形にはなりにくい。


 けれど、市が聞くべき声だった。


 灯理は、片山さんに言った。


「これを、感想で終わらせない仕組みが必要ですね」


「はい」


 片山さんは、すぐにメモを取った。


「道路のことは道路安全課。放課後の居場所は子ども支援課。防犯は市民安全課とも共有できます」


「本人への確認はどうしますか」


「確認カードを作りましょう。意見を受け取った内容、つなぐ部署、返答予定日を書きます」


 片山さんは、職員席に戻り、ほかの部署の担当者と話し始めた。


 予定にはなかった動きだった。


 けれど、市役所の会議室が、少しだけ本当に動き始めた気がした。


 活動の最後に、各グループから一つずつ意見を共有することになった。


 今度は、全員がマイクで話す必要はなかった。


 話したい人が話す。


 話しにくい人は、地図やカードを職員が読み上げる。


 杏奈のグループでは、発表が得意な生徒の悠真がマイクを持った。


 悠真は午前中、観光案内アプリの提案を堂々と発表していた生徒だった。


 杏奈は、彼の隣で少し身を縮める。


 悠真は、地図を見ながら言った。


「僕たちのグループでは、東第三中学校前の交差点に赤いシールが多く集まりました」


 杏奈は、はっとした。


 多く。


 そう、杏奈だけではなかった。


 同じ場所に、別の学校の子も赤いシールを貼っていた。


 小学生の通学路にもなっているからだ。


 悠真は続けた。


「信号が短いこと、右折車が多いこと、小学生が渡りきれないことが出ています。これは道路安全課につなげてほしいです」


 片山さんが頷き、メモを取る。


「また、放課後に中学生が安心して過ごせる場所が少ないという意見もありました。これは匿名カードにも似た意見がありました」


 悠真は、少し言葉を選んだ。


「代表って、うまく話すことだと思っていました。でも、話せない人のカードも一緒に運ぶことが代表なのかなと思いました」


 会場が静かになった。


 杏奈は、悠真を見た。


 自分の代わりに話された、とは少し違った。


 自分のカードが、地図の上で他の意見と並び、グループの意見になり、マイクへ運ばれた。


 それは、杏奈の声が消えたのではなく、別の形で届いたということだった。


 片山さんは、会議の最後に確認カードを配った。


 杏奈の手元にも一枚置かれる。


『受け取った意見』

 東第三中学校前の交差点で、小学生が渡りきれないことがある。右折車が多く危険。


『つなぐ部署』

 道路安全課


『今後の対応』

 現地確認を行い、信号時間・路面表示・見守り配置について検討する。


『返答予定日』

 来月十五日までに学校を通じて回答。


 もう一枚。


『受け取った意見』

 放課後に中学生が安心して過ごせる場所が少ない。


『つなぐ部署』

 子ども支援課・生涯学習課


『今後の対応』

 図書館、児童館、公民館の利用状況を確認し、中高生が利用しやすい時間と場所について検討する。


『返答予定日』

 来月末までに子ども議会参加校へ回答。


 杏奈は、そのカードを見つめた。


 自分の言葉が、行政の言葉に変わっている。


 少し硬い。


 でも、消えていない。


 赤いシールも、短文カードも、地図の上に残っている。


 片山さんが近づいてきた。


「三浦さん」


 杏奈は顔を上げた。


「午前中、進行を急いでしまってすみませんでした」


 杏奈は、驚いた。


「いえ」


「あなたの意見は、途中で終わったのではありません。今日、地図とカードで受け取りました」


 片山さんは、確認カードを指した。


「この内容で合っていますか」


 杏奈は、ゆっくり読んだ。


 交差点。


 小学生。


 右折車。


 放課後。


 中学生の居場所。


 合っている。


 杏奈は、小さく頷いた。


「合っています」


「では、この形で担当部署につなぎます」


 杏奈は、カードを両手で持った。


「本当に、返事が来るんですか」


「来るようにします。今日の会議で終わらせません」


 片山さんの声は、午前中より少し強かった。


 会議が終わった後、子どもたちは市役所の前で記念写真を撮った。


 いつものように、横断幕の前に並ぶ。


 けれど、今日はその後、地図とカードも一緒に写真に残された。


 赤、青、黄、緑のシールが市内に散らばっている。


 白カードの箱。


 確認カード。


 部署名のメモ。


 杏奈は、その写真の端に立っていた。


 マイクの前ではうまく話せなかった。


 でも、地図の前ではシールを貼れた。


 カードには書けた。


 確認もできた。


 市役所の廊下を出る時、悠真が杏奈に声をかけた。


「交差点のこと、教えてくれてよかった」


 杏奈は、少し戸惑った。


「私、ほとんど言えてない」


「でも、地図でわかった」


「うん」


「今度、学校で通学路の写真も集めようよ。言葉だけより伝わるかも」


 杏奈は、少しだけ笑った。


「写真なら、撮れる」


「じゃあ、やろう」


 杏奈は頷いた。


 それは、次にマイクで堂々と話す約束ではなかった。


 自分にできる方法で、声を持ち寄る約束だった。


 数週間後、東第三中学校に市役所から返答が届いた。


 道路安全課は、登校時間帯に現地確認を行った。


 信号の時間調整はすぐには難しいが、横断歩道手前の注意表示を塗り直すこと、見守りボランティアの配置を学校と相談すること、右折車への注意看板を設置することが検討されることになった。


 子ども支援課と生涯学習課は、中高生が放課後に使える公共施設の一覧を作成し、図書館の一部スペースを週に二日、閉館前の時間帯まで開放する試行を始めることになった。


 すべてがすぐに変わったわけではない。


 交差点は、まだ危ない日がある。


 放課後の居場所も、十分とは言えない。


 でも、返答が来た。


 杏奈のカードに、次の線が引かれた。


 学校の廊下には、市役所からの回答と、子ども議会で使った地図のコピーが掲示された。


 杏奈は、その前に立った。


 自分が貼った赤いシール。


 自分が書いた短文カード。


 そして、返答日。


 杏奈は、確認カードの裏に一文を書いた。


『小さい声だった。でも、地図の上では消えなかった』


 それを誰かに見せるつもりはなかった。


 でも、書いておきたかった。


 夕方、市役所の会議室では、片山さんが次回の子ども議会の企画書を書き直していた。


 項目は、以前より増えている。


『口頭発表』

『地図ワーク』

『匿名カード』

『写真提出』

『録音メッセージ』

『確認カード』

『担当部署への接続』

『返答予定日の設定』

『会議後のフォローアップ』


 片山さんは、灯理に言った。


「子どもの意見を聞く場を作ったつもりでいました」


「はい」


「でも、聞く形をこちらが一つに決めてしまうと、その形に合う子の声だけが残るのですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「マイクで話せることも大切です。でも、マイクに届かない声を拾う仕組みがなければ、民主主義は声の大きさに偏ってしまう」


 片山さんは、企画書の最後にこう書いた。


『発表が上手な子だけではなく、声になりにくい意見を仕組みに乗せる子ども議会へ』


 ペンを置き、少し息を吐く。


「次回は、最初からこの形で準備します」


 夜、灯理は市役所を出た。


 建物の外に出ると、初夏の風が頬に触れた。ロータリーでは、バスがゆっくり停まり、仕事帰りの人たちが乗り込んでいく。


 片山さんが、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、声が仕組みに乗る場を一緒に見せていただきました」


 片山さんは、市役所の明かりを振り返った。


「市民参加という言葉を、私は何度も使ってきました」


「はい」


「でも、参加してくださいと言うだけでは足りないのですね。参加できる形を複数用意しなければ、参加は一部の人のものになってしまう」


 灯理は、静かに頷いた。


「聞く側の設計も問われますね」


「はい。子どもの声を聞くとは、子どもにうまく話してもらうことではなく、こちらが聞き取れる仕組みを持つことなのだと思いました」


 片山さんは、手元の企画書を大切そうに持っていた。


「杏奈さんの確認カード、忘れません」


 夜の市役所前の道を、灯理は歩き始めた。


 鞄の中には、職業訓練センターから届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 民主主義を学ぶことは、ただマイクの前に立つことではない。


 大きな声で話すこと。


 資料を作ること。


 質問に答えること。


 それらは大切だ。


 けれど、社会には、マイクの前で途切れる声がある。


 言葉になる前に折りたたまれる原稿がある。


 名前を書けないカードがある。


 地図の上でしか示せない危険がある。


 聞かれにくい声を、なかったことにしない。


 付箋で。


 写真で。


 録音で。


 短い一文で。


 赤いシールで。


 確認カードで。


 そして、返答日を決めることで。


 声は、仕組みの中に残る。


 灯理は、市役所の窓を振り返った。


 そのどこかの机に、杏奈の確認カードの写しが置かれている。


 そこには、小さな字で一文が残っている。


 小さい声だった。でも、地図の上では消えなかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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