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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第19章 第3話:刑務所の授業――鉛筆を持つ手


 直人は、鉛筆に触れなかった。


 机の上に置かれた一本の鉛筆。


 削られた先は、まっすぐ尖っている。隣には、罫線の入った白い紙が一枚。紙の上には、何も書かれていない。


 刑務所内の教育室は、静かだった。


 白い壁。


 窓の外に見える高い塀。


 決められた数だけ並べられた机。


 床をこする上履きの音。


 遠くで開閉する鉄の扉の重い音。


 そのすべてが、直人には息苦しかった。


 直人は三十代半ばだった。


 若い頃に傷害事件を起こし、今ここにいる。


 事件のことを、直人は考えないようにしてきた。


 考えないようにしても、消えるわけではない。


 ただ、頭の中で蓋をして、その上に別の音を重ねる。


 点呼の声。


 作業の音。


 食器の音。


 誰かの咳。


 夜中の寝息。


 それでも、ふとした瞬間に戻ってくる。


 相手の顔。


 自分の荒い息。


 手に残った感触。


 周囲の叫び声。


 あとから何度も聞かされた「被害」という言葉。


 直人は、それらをうまく言葉にできなかった。


 反省文は何度も書いた。


『申し訳ありませんでした』

『深く反省しています』

『二度としません』


 書き方は覚えた。


 型も覚えた。


 でも、その紙を書き終えるたび、直人は空っぽになる。


 すみませんでした。


 その言葉は必要だ。


 でも、それだけを書いても、何かをごまかしているような気がした。


 謝れば終わるような文章になる。


 終わるはずがないのに。


 教育担当の森川先生が、教室の前に立っていた。


「今日は、自分の行動と言葉について考えます」


 森川先生は、刑務所内で基礎学習や作文指導を担当している。


 年齢は五十代。


 厳しい声を出す時もあるが、ただ厳しいだけの人ではない。


 受刑者に学びの機会を与えたいと、本気で思っている。


 読み書きが苦手な人には、漢字から教える。


 計算で困っている人には、生活に必要な数字から扱う。


 作文では、自分の言葉で考えることを大切にしてきた。


 けれど、反省文になると、いつも壁にぶつかった。


 多くの者が、決まった言葉を書く。


 すみませんでした。


 反省しています。


 二度としません。


 その言葉が嘘だとは言い切れない。


 だが、それだけでは、自分の行為を本当に見ているのかがわからない。


 直人の反省文も、ずっとそうだった。


 整っている。


 間違いは少ない。


 でも、本人がどこにもいない。


 森川先生は、机に置かれた白紙を見た。


「直人さん」


 直人は顔を上げなかった。


「まず、鉛筆を持ってください」


「書くことないです」


「書くことがないかどうかも、持ってから考えましょう」


 直人は、小さく笑った。


 笑いというより、喉の奥で音が漏れただけだった。


「先生、勉強したって、俺がやったことは消えないですよ」


 教室の空気が少し重くなった。


 他の受講者たちも、手を止める。


 森川先生は、すぐには返せなかった。


 その通りだった。


 学んでも、罪は消えない。


 作文を書いても、過去はなくならない。


 言葉を覚えても、被害を受けた人の時間は戻らない。


 それを軽く扱うことはできない。


 その時、教育室の後ろに一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 刑務所内の教育プログラムに助言者として招かれている先生だった。


 灯理は、直人の机の上の鉛筆を見た。


 そして、静かに言った。


「うん。では、消えないことは、学ばなくてよい理由になるのでしょうか」


 直人は、顔を上げた。


 灯理の声は、直人を許す声ではなかった。


 責める声でもなかった。


 ただ、逃げ道を少し照らすような声だった。


「消えないんですよ」


「はい」


「消せないなら、書いても意味ないじゃないですか」


「意味がないと感じているのですね」


「そうです」


 直人は、机の上の鉛筆を睨んだ。


「俺が何を書いたって、やったことは変わらない」


 灯理は頷いた。


「変わりません」


 その言葉に、直人は少し驚いた。


 普通なら、ここで「それでも変われる」と言われるのだと思っていた。


 でも、灯理は過去が変わらないことを否定しなかった。


「過去は変わりません。被害を受けた人の痛みも、あなたが勝手に軽くすることはできません」


 直人の喉が小さく動いた。


「だからこそ、学びを『消すため』のものにしない方がよいのだと思います」


 森川先生が、灯理の言葉を受け止めるように頷いた。


 灯理は、黒板に書いた。


『過去を消すためではなく、引き受け直すために書く』


 直人は、その文字を見た。


 引き受け直す。


 聞き慣れない言葉だった。


 灯理は続けた。


「今日は、許されるための文章を書きません。相手に送る手紙も書きません。まず、自分が避けてきた言葉を紙の上に置く練習をします」


 黒板に項目が並んだ。


『事件の詳細を無理に書かない』

『自分が避けてきた言葉を書く』

『すみません以外の言葉を探す』

『自分の行動の前にあった選択肢を見る』

『自分の行動の後に起きたことを想像する』

『許しを求める文章にしない』

『将来、同じ状況で何を選ぶかを書く』

『書いたものは提出ではなく、まず自分の教育ノートに保管する』


 直人は、眉を寄せた。


 許しを求める文章にしない。


 その言葉が引っかかった。


 反省文は、許してもらうために書くものだと思っていた。


 もちろん、許されるとは思っていない。


 でも、形としてはそういうものだ。


 申し訳ありません。


 反省しています。


 どうか。


 その先に、言葉にならない願いが混ざる。


 少しでも軽く見てほしい。


 少しでも終わったことにしたい。


 でも、灯理はそれを止めた。


 許しを求める文章ではない。


 では、何を書くのか。


 森川先生が、受講者たちに教育ノートを配った。


 表紙には、名前ではなく番号が書かれている。


 直人は、自分のノートを見た。


 ページを開く。


 白い。


 直人は、まだ鉛筆を持たなかった。


 灯理が近づいた。


「直人さん」


「はい」


「今、避けている言葉はありますか」


「別に」


「すぐに書かなくてもいいです」


 直人は、黙った。


 避けている言葉。


 たくさんある。


 被害者。


 暴力。


 恐怖。


 後遺症。


 家族。


 責任。


 取り返しがつかない。


 自分が加害した。


 その中でも、一番避けてきた言葉があった。


 傷つけた。


 直人は、相手を「怪我させた」と言うことはできた。


 事件を「起こした」と言うこともできた。


 でも、「傷つけた」と書くのは嫌だった。


 その言葉には、相手の体だけではなく、その後の時間まで含まれている気がしたからだ。


 灯理は言った。


「一語だけでもかまいません」


 直人は、鉛筆を見た。


 手を伸ばす。


 指先が鉛筆に触れる。


 木の冷たい感触。


 軽い。


 こんなに軽いものを持つだけなのに、手が重かった。


 直人は、教育ノートの一行目に書いた。


『傷つけた』


 たった四文字だった。


 でも、書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 鉛筆の先が止まる。


 直人は、ノートを閉じようとした。


 灯理は止めなかった。


 ただ、言った。


「今日は、その言葉を置けました」


 直人は、何も答えなかった。


 次の時間、森川先生は「すみません以外の言葉」を探す活動を行った。


 黒板には、大きく書かれている。


『すみませんだけでは届かないこと』


 森川先生は言った。


「謝罪の言葉は大切です。しかし、すみませんでした、だけで終わると、自分が何を見たのかがわからないことがあります」


 受講者たちは、それぞれ紙に言葉を書いた。


『怖がらせた』

『奪った』

『壊した』

『止めなかった』

『逃げた』

『見ようとしなかった』

『自分の怒りを相手にぶつけた』

『相手の時間を変えた』


 直人は、紙を見つめた。


 自分の事件について細かく書くことは求められていない。


 でも、自分の行動の周りにあった言葉を探す。


 直人は書いた。


『怖がらせた』

『相手の体を傷つけた』

『相手の家族の時間も変えた』

『自分の怒りを止めなかった』

『言葉を使わなかった』


 最後の一文を書いて、手が止まった。


 言葉を使わなかった。


 あの日、直人は言葉を持っていなかった。


 本当は、怒っていた。


 馬鹿にされたと思った。


 引けなくなった。


 周りの目もあった。


 その場から離れる選択肢もあった。


 誰かに止めてもらうこともできたかもしれない。


 黙ることもできた。


 けれど、直人は手を出した。


 言葉ではなく、暴力を選んだ。


 その事実は、紙に書くとひどく単純に見えた。


 単純だからこそ、逃げ場がなかった。


 森川先生は、次に一枚の図を配った。


『行動の前』

『行動』

『行動の後』


 それぞれに欄がある。


『その前にあった感情』

『その時できたかもしれない選択』

『実際に選んだこと』

『相手に起きたこと』

『自分に起きたこと』

『周囲に起きたこと』

『今後、同じ感情が来た時の選択』


 直人は、感情の欄に書いた。


『怒り』

『恥』

『引けない感じ』

『負けたくない』

『相手を黙らせたい』


 その時できたかもしれない選択。


 直人は、しばらく考えた。


 席を立つ。


 黙る。


 誰かを呼ぶ。


 その場を離れる。


 後で話す。


 殴らない。


 書いているうちに、腹の底が重くなった。


 できたかもしれない選択が、いくつもある。


 それなのに、自分は選ばなかった。


 選ばなかったことが、今ここに続いている。


 灯理が近くに来た。


「直人さん、手が止まりましたね」


「選択肢なんて、今だから書けるんです」


「はい」


「その時は見えてなかった」


「そうですね」


「だからって、仕方なかったって言いたいわけじゃないです」


 直人は、鉛筆を握りしめた。


「むしろ、見ようとしてなかったんだと思います」


 灯理は頷いた。


「その言葉を書けますか」


 直人は、紙の端に書いた。


『見ようとしていなかった』


 書いた字が、少し歪んだ。


 でも、消さなかった。


 休憩時間、直人は教育室の窓際に立っていた。


 外には塀が見える。


 その向こうの空は、狭く切り取られていた。


 森川先生が、少し離れた場所に立った。


「直人さん」


「はい」


「今日の活動は、つらいですか」


 直人は、少し笑った。


「つらいですよ」


「そうですか」


「でも、いつもの反省文よりは、まだましです」


 森川先生は、意外そうに直人を見た。


「まし?」


「いつものは、書いてると自分が薄くなる感じがします」


「薄くなる」


「申し訳ありませんでした。反省しています。二度としません。そう書くと、ちゃんとした反省っぽくなる。でも、俺はその文の後ろに隠れてる」


 直人は、窓の外の塀を見た。


「今日のは、隠れにくいです」


 森川先生は、その言葉を静かに受け取った。


「それが、必要なのかもしれません」


「必要だからって、楽ではないです」


「はい」


「あと、これを書いたからって、許されるわけじゃない」


「その通りです」


 森川先生は、はっきり言った。


「学ぶことは、被害を受けた方に許しを求める権利を得ることではありません」


 直人は、少し目を伏せた。


「はい」


「でも、自分の行為を見ないままでいることも、違います」


 直人は、教育室の机に置いた自分のノートを見た。


 傷つけた。


 怖がらせた。


 相手の家族の時間も変えた。


 言葉を使わなかった。


 見ようとしていなかった。


 それらの言葉は、直人を軽くしなかった。


 むしろ重くした。


 でも、重くなることから逃げてきたのだと思った。


 次の授業で、灯理は受講者たちに新しい課題を出した。


『出さない手紙』


 教室がざわついた。


 灯理は、最初に確認した。


「これは、被害を受けた方に送る手紙ではありません。送ることを目的にしません。許しを求めるための手紙でもありません」


 黒板に書く。


『相手に送らない』

『許しを求めない』

『自分の責任を見つめる』

『相手の痛みを勝手に決めない』

『自分がしたことを小さく書かない』

『書けない時は書けないと書く』

『保管するか、教育担当者と相談する』


 直人は、眉を寄せた。


 手紙なんて、書けるはずがない。


 何を書いても、薄っぺらい。


 申し訳ありません。


 すみませんでした。


 あの日のことを後悔しています。


 そんな言葉では、何も足りない。


 灯理は言った。


「足りないなら、『足りない』と書いてもかまいません」


 直人は、心を読まれたような気がして少し嫌な顔をした。


 それでも、紙を前にする。


 宛名は書かない。


 相手の名前をここで軽々しく書くことができなかった。


 直人は、一行目に書いた。


『何を書いても足りません』


 そこから、手が止まる。


 しばらくして、次の行を書く。


『すみませんでした、と書くと、そこで終わらせようとしているようで怖いです』


 また止まる。


 手のひらに汗がにじむ。


『あなたが許すかどうかを、俺が考えることではないと思います』


 呼吸が浅くなる。


『俺がしたことは消えません』


 文字が少し震える。


『消えないから、見ないふりをしていいわけではありません』


 直人は、鉛筆を置いた。


 それ以上は書けなかった。


 でも、紙を破らなかった。


 森川先生が、直人の机の横に来た。


「今日は、ここまででいいです」


 直人は、紙を見た。


「これ、反省文じゃないですよね」


「違うと思います」


「何なんですか」


 森川先生は少し考えた。


「自分の責任から逃げないための文章かもしれません」


 直人は、何も言わなかった。


 その日の終わり、直人は教育ノートに一文を書く課題を出された。


『今日、残った問い』


 直人は、長い時間、白紙を見ていた。


 鉛筆を持つ手は、最初ほど固まっていない。


 でも、軽くもない。


 書けば終わるわけではない。


 言葉にすれば許されるわけでもない。


 反省を見せれば、過去が消えるわけでもない。


 それでも、書かずにいることは、また逃げることに近い。


 直人は、一行だけ書いた。


『謝れば終わることではない。だから、終わらせないために書く』


 書き終えると、胸の奥がずしりと重くなった。


 でも、その重さから目をそらさずに、ノートを閉じた。


 数週間後、教育プログラムは少しずつ変わっていた。


 森川先生は、型通りの反省文を書かせる前に、いくつかの段階を置くようにした。


 自分が避けている言葉。


 すみません以外の言葉。


 行動の前後にあった選択肢。


 相手の痛みを勝手に決めないこと。


 許しを求める前に、自分の責任を見ること。


 書けない時には、書けないと書くこと。


 受講者たちは、すぐに変わったわけではない。


 ふざけて書く者もいた。


 黙り込む者もいた。


 怒り出す者もいた。


 紙をくしゃくしゃにする者もいた。


 それでも、森川先生は急がなかった。


 学びを美談にしない。


 更生という言葉だけでまとめない。


 罪を犯した人が学ぶことは、過去を消すためではない。


 消えないものを、消えないものとして引き受け続けるための練習なのだと、自分にも言い聞かせた。


 ある日、直人は教育室に少し早く来た。


 机に座り、教育ノートを開く。


 以前なら、鉛筆は机の端に置いたままだった。


 今は、自分から持つ。


 ページには、これまでの言葉が並んでいる。


『傷つけた』

『言葉を使わなかった』

『見ようとしていなかった』

『何を書いても足りません』

『終わらせないために書く』


 直人は、新しいページに書いた。


『次に怒りが来た時、手を出す前に席を立つ』


 それだけでは足りない気がして、続けた。


『言葉にできない時は、言葉にできないと言う』

『引けないと思った時ほど、その場から離れる』

『強く見せるために誰かを傷つけない』


 直人は、鉛筆を置いた。


 これを書いたからといって、未来の自分が必ずそうできる保証はない。


 でも、少なくとも、選択肢を紙の上に置いた。


 暴力の前に、言葉を一つ置く練習だった。


 森川先生が、それを見て言った。


「直人さん」


「はい」


「その文章は、誰かに見せるためですか」


 直人は首を横に振った。


「自分が逃げないためです」


 森川先生は頷いた。


「では、教育ノートに残しましょう」


 直人は、ノートを閉じた。


 机の上の鉛筆を、以前のように遠ざけることはしなかった。


 夕方、灯理は刑務所の教育棟を出た。


 通路には、鍵の音が響いている。窓の外の空は狭く、夕焼けの色が高い塀の上だけに残っていた。


 森川先生が、出入口まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、言葉を持つ授業を一緒に見せていただきました」


 森川先生は、手にした教育ノートの記録を見た。


「刑務所で学ぶことを、どう扱えばよいのか、ずっと迷っていました」


「はい」


「学びは大切です。でも、それを簡単に『やり直し』や『成長』という言葉で包んでしまうと、被害を受けた方の存在が薄くなってしまう」


 灯理は頷いた。


「はい」


「過去を消すためではなく、消えない責任を言葉で引き受けるために学ぶ。その視点を忘れずにいたいです」


 森川先生は、教育室の方を振り返った。


「直人さんが、初めて自分から鉛筆を持ちました」


「はい」


「でも、それをいい話にして終わらせてはいけないのですね」


「そう思います」


 灯理の声は静かだった。


「書くことは始まりで、終わりではありません」


 森川先生は深く頷いた。


 鉄の扉が、重い音を立てて閉まる。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、山間部の移動教室から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 罪を犯した人が学ぶことは、過去を消すことではない。


 鉛筆を持っても、紙に向かっても、謝罪の言葉を並べても、起きたことはなかったことにはならない。


 被害を受けた人の痛みを、加害した側が勝手に小さくすることはできない。


 許しを求めることを、学びの目的にしてはならない。


 けれど、消えないからこそ、見ないふりをしてよいわけでもない。


 避けてきた言葉。


 選ばなかった選択肢。


 相手に起きたこと。


 自分がしたこと。


 すみませんだけでは届かない責任。


 それらを、何度も紙の上に置き直す。


 終わらせないために書く。


 灯理は、高い塀の上に残る夕焼けを見た。


 教育室の机の中には、直人のノートがしまわれている。


 そこには、震える字で一文が残っている。


 謝れば終わることではない。だから、終わらせないために書く。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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