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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第19章 第2話:夜間教室の授業――消えた卒業証書


 晴江は、自分の名前を書く時だけ、いつも少し手が止まる。


 夜の教室は、昼間の学校とは違う匂いがした。


 チョークの粉。


 古い机の木の匂い。


 誰かが持ってきた缶コーヒーの甘い香り。


 雨に濡れた上着の湿った匂い。


 窓の外では、街灯が校庭の端をぼんやり照らしている。昼間なら部活動の声が響くグラウンドも、夜はしんと静まり返り、遠くの幹線道路を走る車の音だけが細く届いていた。


 夜間中学。


 晴江がこの教室へ通い始めて、三か月になる。


 机には、国語のプリントが置かれている。


 今日の課題は、短い作文だった。


『今、学びたいこと』


 その下に、名前を書く欄がある。


 晴江は、鉛筆を持ったまま、そこを見つめていた。


 名前くらい、書ける。


 もう六十年以上、自分の名前と付き合ってきた。


 書類にも書いた。


 仕事の名札にも書いた。


 病院の受付でも書いた。


 宅配便の受け取りにも書いた。


 それでも、学校のプリントの名前欄に書く時だけ、胸の奥が少し縮む。


 ここは、学校だから。


 晴江は昔、中学校を途中で辞めた。


 家庭の事情だった。


 父が体を壊し、母が働きに出るようになり、下のきょうだいの世話と家の仕事が晴江に回ってきた。


 それから、近所の工場で働くようになった。


 学校へ戻る日が来ると思っていた。


 でも、一日が、一週間になり、一年になった。


 気づけば、卒業式は終わっていた。


 友人たちは卒業証書を受け取った。


 晴江の手には、何も残らなかった。


 卒業証書がなくても、生きていくことはできた。


 働いた。


 結婚した。


 子どもを育てた。


 夫を見送った。


 読み書きも、生活の中で少しずつ覚えた。


 困るたびに、誰かに聞いた。


 役所の書類は、窓口の人に教えてもらった。


 薬の説明書は、娘に読んでもらった。


 新聞は、わかるところだけ読んだ。


 それで何とかやってきた。


 けれど、心のどこかに、いつも小さな空白があった。


 卒業証書。


 それは、ただの紙なのかもしれない。


 でも、晴江には、その紙に自分の名前がないことが、ずっと残っていた。


 教室の後ろで、若い生徒たちが小さな声で話している。


「作文、だるい」


「今学びたいことって言われてもな」


「ゲームの作り方とか書いとく?」


 その中の一人、拓也が晴江の手元をちらりと見た。


 拓也は十六歳だった。


 昼間の中学校にはほとんど行けなくなり、この夜間中学に通っている。


 髪は少し長く、制服ではなく黒いパーカーを着ている。


 いつも斜めに座り、授業中も退屈そうな顔をしていた。


 晴江は、拓也の視線に気づいて、慌てて名前欄に鉛筆を置いた。


 山本晴江。


 最初の「山」の線が、少し震えた。


 晴江は、すぐに消しゴムへ手を伸ばした。


 消そうとした時、前から声がした。


「山本さん、そのままで大丈夫ですよ」


 夜間中学の教師、奥村先生だった。


 白髪の混じった髪を短くまとめ、いつも穏やかな声で話す先生だ。


「字は、消さなくていいです」


 晴江は、少し笑ってごまかした。


「汚い字ですから」


「汚くありません」


「若い人の字とは違いますよ」


 後ろで拓也が小さく言った。


「まあ、おばあちゃんが勉強してるって、すげえよな」


 悪気があったのか、なかったのか。


 教室の空気が一瞬止まった。


 晴江は、鉛筆を握ったままうつむいた。


 おばあちゃん。


 確かに、年齢だけ見ればそうだ。


 孫もいる。


 でも、その言葉が学校の教室で聞こえた時、晴江は急に自分が場違いな人間のように思えた。


 この年で、何をしているのだろう。


 若い子たちに混じって、ひらがなを確認し、漢字を書き、計算のやり直しをして。


 今さら卒業証書なんてもらって、何になるのだろう。


 晴江は、鉛筆を机に置いた。


 奥村先生が拓也を見た。


「拓也さん」


 拓也は、視線をそらした。


「別に、悪い意味じゃないっす」


「言葉は、受け取る人のところで重さが変わります」


 拓也は、少し不満そうに唇を尖らせた。


 その時、教室の扉が静かに開いた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 夜間中学の授業づくりを支援するために来ている先生だった。


 灯理は、晴江の消しかけた名前欄と、拓也の視線と、奥村先生の迷いを見た。


 奥村先生は、年齢も背景もまったく違う生徒たちを支えようとしている。


 学び直したい高齢者。


 不登校を経験した若者。


 外国から来て日本語を学ぶ人。


 働きながら通う人。


 それぞれに事情があり、それぞれに失った時間がある。


 けれど、その違いを授業の中でどう生かせばよいのか、奥村先生はいつも悩んでいた。


 ただ個別に支えるだけでは、同じ教室にいる意味が薄れてしまう。


 でも、無理に語らせれば、傷を開くことになる。


 灯理は、晴江の机のそばに立った。


 晴江は、恥ずかしそうに笑った。


「先生、この年で卒業証書なんてもらって、何になるんでしょうね」


 声は軽くしようとしていた。


 でも、鉛筆を置いた手は少し硬かった。


 灯理は、すぐには励まさなかった。


 ゆっくりと問いを返した。


「うん。では、卒業証書は若い人だけが受け取るものなのでしょうか」


 晴江は、名前欄を見つめた。


 卒業証書。


 若い人だけ。


 自分には遅すぎる。


 そう思っていた。


 けれど、遅いという言葉は、誰が決めたのだろう。


 その日の授業は、少し形を変えて行われることになった。


 奥村先生は、黒板に大きく書いた。


『ここで学んでいる理由』


 その下に、灯理が項目を書き足す。


『話せることだけでよい』

『話さなくてもよい』

『もう一度学びたいこと』

『読めるようになって嬉しかった言葉』

『書きたい名前』

『卒業証書に込めたい意味』

『誰かに教えられること』

『誰かに教えてもらいたいこと』


 拓也が眉を寄せた。


「理由とか、別にないです」


 奥村先生は言った。


「理由がまだ言葉にならない人は、それでもかまいません」


 灯理は続けた。


「学べなかった理由を、無理に話す必要はありません。話せることだけでいいです。今日は、年齢の違う人が同じ教室にいる意味を探してみます」


 晴江は、ワークシートを見た。


『もう一度学びたいこと』


 漢字。


 手紙。


 新聞。


 薬の説明。


 孫から来るメール。


 地域のお知らせ。


 書きたいことは、いくつもあった。


『読めるようになって嬉しかった言葉』


 晴江は少し考えた。


 以前、病院で薬袋の「食後」を自分で読めた時、少し嬉しかった。


 駅の案内板で「乗換」を読めた時もそうだった。


 孫がくれた手紙の「だいすき」を、誰にも聞かずに読めた時は、台所で一人泣いた。


 ワークシートに書く。


『食後』

『乗換』

『だいすき』


 文字にすると、それらは小さな言葉だった。


 でも、晴江には大きかった。


 次の欄。


『書きたい名前』


 晴江は、また手が止まった。


 自分の名前。


 山本晴江。


 学校の書類に、堂々と書けなかった名前。


 卒業証書に、一度も印刷されなかった名前。


 晴江は、ゆっくり書いた。


『自分の名前』


 後ろの席で、拓也は鉛筆を回していた。


 ワークシートはほとんど白い。


 灯理が近づく。


「拓也さん、書けそうなところはありますか」


「ないです」


「はい」


「俺、ここに来てる理由とか、別に立派じゃないんで」


「立派でなくても、理由です」


 拓也は、少し苛立ったように言った。


「昼の学校、行けなくなっただけです」


「はい」


「行かなかったんじゃなくて」


 声が少し低くなる。


「行く場所がなかったんです」


 灯理は、静かに聞いていた。


 拓也は、吐き出すように続けた。


「教室に入ると、みんなが見てくる気がして。最初は休んで、次の日行けばいいと思って。でも、一週間休んだらもっと行きづらくなって。一か月たったら、もう席がない気がして」


 拓也は、ワークシートを見た。


「先生たちは来いって言うけど、行ったらそこにいられるのかはわからなかった」


 鉛筆の先が、紙に触れる。


 拓也は、乱暴な字で書いた。


『行く場所がなかった』


 書いてから、自分でそれを見て黙った。


 晴江は、その言葉を横目で見た。


 行く場所がなかった。


 晴江は学校を辞めた。


 拓也は学校へ行けなくなった。


 事情は違う。


 年齢も違う。


 でも、学校の時間から外れてしまったという点では、どこか似ているのかもしれなかった。


 奥村先生は、授業を二人一組の活動へ移した。


 ただし、無理に過去を話すのではない。


『教えられること』

『教えてもらいたいこと』


 その二つを書き出し、互いに一つずつ交換する。


 晴江と拓也は、同じ机になった。


 拓也は、少し気まずそうだった。


「さっきの、おばあちゃんって言ったの」


 晴江は、顔を上げた。


「いいのよ。本当のことだもの」


「でも、なんか、失礼だったっぽい」


「少しね」


 晴江がそう言うと、拓也は驚いたように目を上げた。


 晴江は、ふっと笑った。


「少しだけ」


「すみません」


「はい。受け取りました」


 拓也は、少しだけ肩の力を抜いた。


 晴江のワークシートには、『教えられること』の欄にこう書かれていた。


『漢字をゆっくり書くこと』

『縫い物』

『煮物』

『仕事を休まない工夫』

『手紙の季節の言葉』


 拓也は、それを見て言った。


「漢字、得意なんですか」


「得意ではないけれど、ゆっくりなら形を見るのは好き」


「俺、字が雑ってよく言われる」


「見せて」


 拓也は、ワークシートを差し出した。


『行く場所がなかった』


 字は大きく、線の長さがばらばらだった。


 晴江は、それをじっと見た。


「勢いのある字ね」


「雑ってことですよね」


「急いでいる字」


「同じじゃん」


「少し違うわ」


 晴江は、別の紙に『場所』と書いた。


「この『場』という字、土へんがあるでしょう」


「はい」


「土の上に、人が集まるところみたいだと思うの」


「へえ」


「右側は難しいけれど、まず土へんを落ち着いて書くと、字全体が少し落ち着く」


 晴江は、ゆっくり線を引いた。


 拓也は、思ったより真剣に見ていた。


 次に拓也が書いてみる。


 少し歪んだ。


 晴江は言った。


「さっきより、場所がある字になった」


「何それ」


 拓也は笑った。


 でも、もう一度書いた。


 今度は、少し整っていた。


 次は、拓也が晴江に教える番だった。


 晴江の『教えてもらいたいこと』には、こう書かれていた。


『タブレットで調べること』

『孫に写真を送ること』

『メールの返し方』


 拓也は、少し得意そうにタブレットを取り出した。


「これは俺できます」


 晴江は、眼鏡をかけ直した。


「壊さないかしら」


「押したくらいじゃ壊れないです」


「本当?」


「本当」


 拓也は、検索画面を開いた。


「ここに調べたい言葉を入れます」


「手で書くの?」


「打ちます。音声でもいけます」


「声で?」


「はい。例えば、夜間中学って言うと」


 拓也が操作すると、画面に文字が出た。


 晴江は、目を丸くした。


「まあ」


「で、ここ押すと検索」


 画面に、夜間中学についての記事が表示される。


 晴江は、ゆっくりスクロールした。


 指先が少し震える。


「動いた」


「動きます」


「これで、卒業式のことも調べられる?」


「調べられますよ」


 拓也は、検索欄に「夜間中学 卒業式」と打った。


 画面に、他の夜間中学の卒業式の写真が出る。


 晴江は、しばらく画面を見ていた。


 年配の人もいる。


 若い人もいる。


 外国につながる人もいる。


 みんな、卒業証書を持っている。


 晴江は、そっと画面に指を触れた。


「本当に、いるのね」


「何がですか」


「私みたいな人」


 拓也は、画面を見た。


「いますね」


「この年で卒業証書をもらう人」


「いますね」


 晴江は、小さく笑った。


「少し、安心したわ」


 授業の終盤、奥村先生は全員に一枚の特別な用紙を配った。


 少し厚みのある紙だった。


 上には、仮の文字でこう書かれている。


『卒業証書練習用紙』


 教室が少しざわついた。


「本物じゃないの?」


「練習?」


 奥村先生は言った。


「本物の卒業証書は、卒業の日に受け取ります。今日は、その日に書かれる自分の名前を、自分の手で一度書いてみます」


 晴江の胸が、どきりとした。


 拓也も、紙を見つめている。


 奥村先生は続けた。


「きれいに書く必要はありません。消さなくてもいいです。今の自分が、ここで学んでいる名前を書きます」


 晴江は、用紙を前にした。


 白い紙。


 名前を書く欄。


 今まで何度も見てきたはずの空白が、今日は少し違って見えた。


 晴江は、鉛筆を持つ。


 手が震える。


 消しゴムは、机の端に置いたままにした。


 山本晴江。


 一画目。


 少し太くなった。


 二画目。


 曲がった。


 三画目。


 思ったより小さくなった。


 でも、消さなかった。


 名前を書き終えると、晴江はしばらく紙を見つめていた。


 遅い字だと思っていた。


 六十年遅れた字。


 人よりずっと後から、学校へ戻ってきた字。


 でも、本当にそうだろうか。


 この字は、ここから始まる字でもある。


 晴江は、用紙の下に小さく書いた。


『遅い字ではなく、ここから始まる字』


 拓也は、横からそれを見た。


「それ、いいですね」


 晴江は、少し照れたように笑った。


「そう?」


「俺も何か書こうかな」


 拓也は、自分の用紙に名前を書いた。


 線はまだ少し急いでいる。


 でも、『場』の字はさっきより落ち着いていた。


 名前の下に、拓也はこう書いた。


『行く場所がなかったけど、今はここに席がある』


 晴江は、それを読んで頷いた。


「いい字ね」


「晴江さんに言われると、なんか本当にそうかもって思う」


「本当にそうよ」


 教室の時計は、午後八時半を指していた。


 外はすっかり暗い。


 でも、夜間中学の教室には、まだ白い蛍光灯の明かりが満ちている。


 机の上には、それぞれの名前が書かれた練習用紙があった。


 年齢も、事情も、文字の形も違う。


 でも、どの紙にも、その人がここで学んでいる時間が置かれていた。


 授業後、奥村先生は職員室で灯理と話した。


「私は、夜間中学では一人ひとりの事情に合わせて支えることが大切だと思っていました」


「はい」


「それは今も変わりません。でも、今日見ていて、年齢の違いや経験の違いそのものが、学び合いになるのだと感じました」


 奥村先生は、晴江と拓也の用紙を思い出していた。


 晴江が拓也に漢字を教える。


 拓也が晴江にタブレットを教える。


 失われた時間は違う。


 でも、同じ教室にいることで、互いの時間に触れることができる。


「晴江さんが、自分の名前を消さなかったんです」


「はい」


「拓也さんも、『ここに席がある』と書いていました」


 奥村先生は、少し声を詰まらせた。


「夜の教室に、ちゃんと席がある。そのことを、私自身がもっと大切にしたいです」


 灯理は頷いた。


「学び直しは、不足を埋めるだけではないのですね」


「はい。失われた時間に、もう一度自分の名前を書くことでもあるのだと思います」


 数日後、晴江はいつもより少し早く教室に来た。


 机に座り、ノートを開く。


 最初のページに、ゆっくり名前を書いた。


 山本晴江。


 以前より、少し大きい字だった。


 拓也が教室に入ってきた。


「早いですね」


「今日は予習をしようと思って」


「すげえ」


「拓也さん、これ見てくれる?」


 晴江は、タブレットを差し出した。


「孫に写真を送りたいの」


「お、やりましょう」


 拓也は隣に座った。


 晴江は、先日撮った花の写真を開いた。


 拓也が操作を教える。


「ここ押して、送りたい相手を選んで」


「これでいい?」


「はい」


「文章もつけたいわ」


「打ちます?」


「音声でやってみる」


 晴江は、少し緊張しながらタブレットに向かって話した。


「学校の帰りに、花が咲いていました」


 画面に文字が現れる。


 学校の帰りに、花が咲いていました。


 晴江は、その文字を見て微笑んだ。


「学校の帰り、ですって」


「学校の帰りですね」


 拓也は当たり前のように言った。


 その言葉が、晴江には嬉しかった。


 学校の帰り。


 自分にも、もう一度その言葉が使える。


 その日の授業では、奥村先生が卒業証書について話した。


「卒業証書は、学びが終わったという紙ではありません」


 生徒たちは前を見る。


「その人がここで学んだ時間を、名前と一緒に受け取る紙です。早い人も、遅い人もいません。それぞれの時間があります」


 晴江は、ノートの端に書いた。


『私の時間』


 拓也は、隣でそれを見て、小さく言った。


「晴江さん、字、前よりでかくなってる」


「そう?」


「うん」


「場所を取ってもいいかなと思って」


 拓也は、少し笑った。


「いいと思います」


 授業が終わり、生徒たちが帰り支度をする。


 晴江は、練習用紙をファイルにしまった。


 消えた卒業証書。


 ずっと、そう思っていた。


 自分の手にはなかった紙。


 若い頃の自分が受け取れなかった紙。


 でも、今は少し違う。


 それは完全に消えたのではなく、まだ受け取っていない証書なのかもしれない。


 未来にある紙。


 そこに、自分の名前を書くために、晴江は今夜も教室へ来ている。


 夜、灯理は夜間中学を出た。


 校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。教室では、奥村先生が机を整え、黒板に残った『ここで学んでいる理由』という文字をゆっくり消していた。


 校門まで、奥村先生が見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、夜の教室にある名前を一緒に見せていただきました」


 奥村先生は、校舎を振り返った。


「学び直しという言葉を、私はずっと使ってきました」


「はい」


「でも、今日の晴江さんを見て、直すというより、もう一度自分の時間を持つことなのだと思いました」


 灯理は頷いた。


「失われた時間は、同じ形では戻りません」


「はい」


「でも、そこに新しく名前を書くことはできるのかもしれません」


 奥村先生は、静かに息を吐いた。


「卒業証書を、ただの到達証明ではなく、その人の時間を受け取る紙として渡したいです」


 夜風が、校門の横の木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、刑務所の教育プログラムから届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 学び直すことは、過去の不足を埋めることだけではない。


 若い頃に受け取れなかった紙。


 途中で途切れた教室。


 行けなくなった席。


 読めなかった言葉。


 書けなかった名前。


 それらは、簡単に取り戻せるものではない。


 けれど、夜の教室には、もう一度机に向かう時間がある。


 年齢の違う人が、互いに教え合う手がある。


 震えても消さない字がある。


 ここに席があると書ける紙がある。


 灯理は、夜間中学の窓を見上げた。


 その教室の机の中には、晴江の練習用紙がしまわれている。


 遅い字ではなく、ここから始まる字。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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