表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/204

第19章 第1話:図書館の授業――静かにできない居場所


 湊は、今日も本を開かなかった。


 地域図書館の一番奥、窓際の机に突っ伏している。


 頬の下には、借りるつもりのない図鑑が一冊あった。表紙には、夜空いっぱいの星が写っている。けれど、湊はその星を見ていない。ただ、紙の冷たさに頬を預け、目を閉じていた。


 図書館の中は静かだった。


 ページをめくる音。


 椅子を引く小さな音。


 カウンターで本を読み取る機械の電子音。


 古い紙と、磨かれた床と、少し乾いた空気の匂い。


 湊は、この静けさが嫌いではなかった。


 むしろ、家よりずっとましだった。


 家に帰ると、母と父の声が壁越しに聞こえる日がある。


 大きな声ではない。


 でも、低くて重い声。


 食器を置く音。


 扉が閉まる音。


 ため息。


 弟の泣き声。


 テレビの音だけが不自然に大きい夜。


 湊は、自分の部屋にいても耳が休まらなかった。


 だから、放課後になると図書館へ来る。


 本を読むためではない。


 勉強するためでもない。


 ただ、家に帰るまでの時間を少し遅らせるため。


 ここにいると、誰も湊に「早くしなさい」と言わない。


 誰も事情を聞かない。


 入館カードを見せれば、湊はただの利用者になれる。


 机に突っ伏しているだけでも、最初のうちは何も言われなかった。


 けれど、最近は違った。


「またあの子」


 少し離れた閲覧席から、小さな声が聞こえた。


 湊は目を閉じたまま、息を止めた。


「本も読まないで、ずっと寝ているのよ」


「この前は漫画コーナーでぶつぶつ言っていたわ」


「図書館なんだから、静かにしてほしいわね」


 声は小さい。


 でも、静かな場所ではよく聞こえる。


 湊は、指先をぎゅっと握った。


 独り言を言っていたつもりはなかった。


 ただ、頭の中に残った家の声を消したくて、小さく好きなゲームの台詞を口の中で繰り返していただけだった。


 それでも、聞こえていたのだろう。


 迷惑。


 静かにできない子。


 図書館にふさわしくない子。


 湊は、ゆっくり顔を上げた。


 窓の外には、夕方の商店街が見える。


 ランドセルを背負った小学生が、友だちと笑いながら通り過ぎていく。


 湊は、中学生になってから、笑い声が少し苦手になった。


 楽しそうな声は、たまに自分を外に押し出す。


 カウンターの方で、司書の南さんが利用者と話していた。


 南さんは、この図書館に長くいる司書だった。


 いつも落ち着いた声で話す。


 本の場所を聞かれれば、棚まで案内してくれる。


 小さな子が絵本を落としても、叱らず一緒に拾う。


 湊にも、最初は何度か声をかけてくれた。


「何か探している本はありますか」


 湊は首を横に振った。


「少し休んでいるだけです」


 南さんはそれ以上聞かなかった。


「寒かったら、あちらの席の方が暖かいですよ」


 それだけ言って、カウンターへ戻った。


 だから湊は、南さんが嫌いではなかった。


 でも、今日は南さんの表情が少し硬かった。


 常連利用者の一人が、カウンターで何かを伝えている。


 声は聞こえない。


 けれど、時々こちらを見ているのはわかった。


 湊は、椅子を引いた。


 帰ろう。


 ここもだめなら、どこへ行けばいいのかはわからない。


 でも、追い出される前に出ていく方がましだ。


 湊が図鑑を棚に戻そうとした時、背後から声がした。


「湊さん」


 南さんだった。


 湊は身構えた。


「はい」


「少し、話せますか」


 やっぱり来た。


 静かにしなさい。


 本を読まないなら帰りなさい。


 ここは休む場所ではありません。


 そう言われるのだと思った。


 湊は、小さく笑った。


 笑ったというより、口の端が勝手に歪んだ。


「静かにできないなら、もう来るなってことですよね」


 南さんは、驚いたように目を見開いた。


「そう言いたいわけではありません」


「でも、苦情出てるんですよね」


 南さんは、すぐに否定しなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 湊は、図鑑を抱え直した。


「先生、静かにできないなら、図書館にいちゃだめなんですよね」


 その言葉に答えたのは、南さんではなかった。


 カウンターの横に、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 地域の公共施設と学校をつなぐ学びの相談役として、この図書館を訪れていた先生だった。


 灯理は、湊の声を受け止めるように少し頷いた。


 そして、静かに言った。


「うん。では、図書館は静かにできる人だけの場所なのでしょうか」


 湊は、返事ができなかった。


 図書館は静かな場所。


 それは当たり前だと思っていた。


 だから、静かにできない自分は邪魔なのだと思った。


 でも、灯理は「それだけか」と聞いている。


 南さんも、その問いに少し動きを止めていた。


 図書館の静けさを守る。


 それは司書として大切な仕事だった。


 本を読む人。


 調べものをする人。


 勉強する人。


 静かな時間を求めて来る人。


 その人たちの場所を守らなければならない。


 けれど、湊が毎日のようにここへ来る理由も、南さんは気になっていた。


 本を読まない。


 勉強もしない。


 ただ、夕方までいる。


 机に突っ伏し、時々漫画コーナーをうろうろし、小さく何かを呟く。


 注意すれば、来なくなるかもしれない。


 でも、それでよいのか。


 南さんは、湊に言った。


「ここにいてはいけないとは思っていません」


 湊は、顔を上げた。


「でも、静かにしてって言うんでしょ」


「はい。静けさが必要な場所はあります」


 南さんは、ゆっくり言葉を選んだ。


「でも、湊さんに出ていってほしいわけではありません。ここにいていいです。ただ、どう過ごすかを一緒に決めたいです」


 湊は、眉を寄せた。


「一緒に?」


「はい」


 灯理が、ロビーの掲示板を見た。


 そこには、図書館の利用案内が貼られている。


『静かにしましょう』

『飲食はご遠慮ください』

『携帯電話での通話はお控えください』

『本は大切に扱いましょう』


 どれも必要なルールだった。


 けれど、そこには「ここでどう過ごしてよいか」はあまり書かれていない。


 灯理は言った。


「禁止事項だけでなく、場所ごとの過ごし方を一緒に作ってみませんか」


 数日後、図書館の小さな会議室に、利用者、司書、学校の先生、地域の子どもたちが集まった。


 テーマは「図書館の過ごし方を考える会」。


 湊は、会議室の入口で立ち止まっていた。


 本当は来るつもりはなかった。


 でも、南さんに言われた。


「湊さんの意見も聞きたいです」


 意見。


 図書館に迷惑をかけている自分に、そんなものがあるとは思わなかった。


 会議室には、常連利用者の高橋さんもいた。


 苦情を出した人の一人だ。


 高橋さんは、毎週のように図書館へ来て、新聞と郷土資料を読んでいる。静かな場所でないと集中できないと言っていた。


 湊は、高橋さんと目を合わせないようにして、端の席に座った。


 灯理は、ホワイトボードに三つの言葉を書いた。


『静かに読みたい』

『調べたり話したりしたい』

『ただ少し休みたい』


 参加者たちは、その三つを見つめた。


 灯理は言った。


「図書館に来る理由は、一つではありません。静かに本を読みたい人がいます。調べものをしながら少し相談したい人がいます。家や学校のあとに、少し休みたい人もいます」


 高橋さんが小さく手を挙げた。


「でも、図書館が騒がしくなっては困ります」


「はい」


 灯理は頷いた。


「静けさは大切です。今日はそれをなくす話ではありません」


 南さんが続けた。


「今の図書館は、すべての場所に同じ静けさを求めていました。でも、もしかすると場所ごとに役割を分ける必要があるのかもしれません」


 机の上に、大きな館内図が広げられた。


 閲覧室。


 児童書コーナー。


 漫画コーナー。


 新聞コーナー。


 学習席。


 窓際の席。


 会議室。


 ロビー。


 参加者は付箋に意見を書き始めた。


『静かに読む部屋がほしい』

『調べものを相談できるテーブルが必要』

『子どもが絵本を読む時は少し声が出る』

『電話ではなくても、小声で話せる場所がほしい』

『休むだけの席があってもいいのでは』

『寝る場所になるのは困る』

『でも、具合が悪い子をすぐ追い出すのも違う』

『飲み物を飲める場所がほしい』

『帰りにくい子がいるなら、学校や地域とつながれる仕組みが必要』


 湊は、何も書けなかった。


 自分が何を書いても、わがままになる気がした。


 南さんが、湊の机の上に一枚のカードを置いた。


『図書館に来る理由カード』


 そこには、いくつかの選択肢があった。


『本を読みたい』

『調べたい』

『勉強したい』

『誰かと少し話したい』

『静かな場所にいたい』

『家に帰るまで少し時間がほしい』

『ひとりになりたい』

『休みたい』

『その他』


 湊は、そのカードを見た。


 家に帰るまで少し時間がほしい。


 休みたい。


 まるで、自分のために書かれたようだった。


 湊は、小さな付箋に書いた。


『家に帰るまで、少しだけいたい』


 字は小さかった。


 でも、貼った。


 高橋さんが、その付箋を見た。


 湊は、何か言われると思って身構えた。


 しかし、高橋さんはしばらく黙ってから言った。


「私は、静かに読める席があればいいです」


 湊は顔を上げた。


「全部の場所が静かでないと困るわけではありません。ただ、新聞を読む席の近くで話し声が続くと、読めなくなる」


 南さんが頷いた。


「では、新聞コーナーと郷土資料室は静かなゾーンとして残す」


「そうしてもらえるとありがたいです」


 別の保護者が言った。


「子どもが絵本を読むと、どうしても声が出ます。児童書コーナーの時間帯を分けることはできますか」


 南さんはメモを取った。


 灯理は、湊の方を見た。


「湊さんは、どんな場所なら過ごしやすいですか」


 湊は、急に全員の視線を感じて体を固くした。


「別に」


 そう言いかけた。


 でも、付箋の文字が目に入った。


 家に帰るまで、少しだけいたい。


 湊は、小さく言った。


「本読めって言われない席」


 会議室が静かになる。


「本を読まなくても、座ってていい席がほしい」


 声はさらに小さくなった。


「寝たいわけじゃないです。でも、ちょっと机に伏せたい時がある」


 南さんは、ゆっくり頷いた。


「窓際の席を、休むだけでもよい席にしましょうか」


「いいんですか」


「ただし、他の人が使いたい時は譲る。大きな声は出さない。体調が悪い時や困った時はカウンターに声をかける。そういうルールを一緒に作ります」


 湊は、返事を探せなかった。


 出ていけではなく、一緒に決める。


 それが、まだ信じられなかった。


 話し合いの結果、図書館の中にいくつかのゾーンが作られることになった。


『静かに読む部屋』

 新聞、郷土資料、集中して読みたい人の場所。

 会話は控える。


『話してよい調べものテーブル』

 親子や友人同士で調べものをする場所。

 小声で相談できる。


『子どもの声の時間』

 児童書コーナーで読み聞かせや絵本を楽しむ時間。

 完全な静けさを求めない。


『休むだけでもよい窓際席』

 本を読まなくても座ってよい。

 机に伏せてもよい。

 ただし、長時間独占しない。

 困った時はカウンターへ。


『飲み物を飲めるロビー』

 閲覧室では飲めないが、ロビーでは水分補給ができる。


 さらに、図書館カードの裏に貼れる小さなシールも作られた。


『今日は読む』

『今日は調べる』

『今日は休む』

『今日は相談したい』


 利用者が自分の状態を言葉にしやすくするためのものだった。


 南さんは、掲示文を作り直した。


 以前は、禁止事項だけが並んでいた。


 新しい掲示には、こう書かれた。


『図書館は、静けさを大切にする場所です。』

『そして、いろいろな人が時間を置く公共の場所です。』

『読む人、調べる人、話し合う人、少し休む人が共に過ごせるよう、場所ごとのルールを一緒に守りましょう。』


 その下に、館内図とゾーンの説明が貼られた。


 翌週、湊はまた図書館へ来た。


 入口で足を止める。


 以前と同じ建物。


 同じ匂い。


 同じ静けさ。


 でも、掲示板が変わっている。


 湊は、自分の図書館カードを出した。


 南さんがカウンターにいた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 湊は、小さな声で答えた。


 南さんは、カードの横に置かれた小さなシールを指した。


「今日は、どれにしますか」


 湊は、少し迷った。


 読む。


 調べる。


 休む。


 相談したい。


 今日は、学校で少し疲れていた。


 家にはまだ帰りたくなかった。


 でも、誰かと話したいわけでもなかった。


 湊は、『今日は休む』のシールを指した。


 南さんは、何も聞かずに小さく頷いた。


「窓際席、空いています」


 湊は、いつもの奥の席へ向かった。


 そこには、小さなプレートが置かれていた。


『休むだけでもよい席』

『本を読まなくても座れます』

『静かに過ごしましょう』

『困った時はカウンターへ』


 湊は、椅子に座った。


 机に頬をつける。


 図鑑はない。


 本を持ってこなくてもよかった。


 それだけで、少し息がしやすかった。


 近くの新聞コーナーでは、高橋さんが静かに新聞を読んでいる。


 湊の席とは少し距離がある。


 児童書コーナーでは、読み聞かせの時間が始まっていて、小さな子どもたちの声が少し聞こえる。


 以前なら、その声も静けさを破るものとして扱われていたかもしれない。


 でも、今は「子どもの声の時間」として掲示されている。


 場所が分かれると、音の聞こえ方も少し変わる気がした。


 湊は、机に伏せたまま、窓の外を見た。


 商店街を人が通る。


 家に帰るには、まだ早い。


 でも、ここにいられる。


 そう思うと、胸の中の硬いものが少しほどけた。


 しばらくして、南さんがそっと近づいてきた。


「湊さん」


 湊は顔を上げた。


「今、少しだけ話してもいいですか」


「はい」


 南さんは、隣の椅子に座らず、立ったまま少し距離を置いた。


「この席、どうですか」


「いいです」


「本を読まなくても、ここにいて大丈夫です」


 湊は、返事をしなかった。


 言われた言葉が、すぐには信じられなかったからだ。


 南さんは続けた。


「ただ、もし家に帰りにくい日が続くなら、学校の先生や地域の相談先につなぐこともできます。無理に話さなくていいです。でも、カードの『相談したい』を選んでくれたら、声をかけます」


 湊は、窓の外を見たまま小さく頷いた。


 今はまだ話せない。


 でも、相談したいというシールがあることは、覚えておこうと思った。


 南さんがカウンターに戻った後、湊は図書館カードを裏返した。


 そこには、何も書かれていない。


 灯理が、以前の話し合いで言っていた。


「ここに、自分の図書館での過ごし方を書いてもいいですね」


 湊は、鉛筆を取り出した。


 カードの裏に、小さな字で書く。


『本はまだ読めない。でも、ここで少し息ができる』


 書いたあと、湊はそれを誰にも見せなかった。


 ただ、カードを財布にしまった。


 それでよかった。


 数日後、図書館では小さな変化が続いていた。


 静かに読む部屋では、以前より落ち着いて本を読めるという声が増えた。


 調べものテーブルでは、親子が図鑑を広げて相談している。


 児童書コーナーの読み聞かせ時間には、小さな声が響く。


 ロビーでは、高齢者が水を飲みながら一息ついている。


 窓際席には、時々、湊以外の子どもも座るようになった。


 塾までの時間を過ごす子。


 家に帰る前に漫画を眺める子。


 部活で疲れて少し伏せる子。


 南さんは、すべてをすぐに解決できるわけではないと知っていた。


 苦情が完全になくなったわけでもない。


 場所分けをしても、音が気になる日もある。


 ルールを守れない子に声をかけなければならない日もある。


 でも、以前のように「静かにできない人をどう排除するか」だけでは考えなくなった。


 苦情は、排除の合図ではなく、調整の入口にする。


 誰かの居場所を守るために、別の誰かの居場所を消さない。


 そのために、図書館は少しずつ形を変え始めていた。


 ある夕方、高橋さんが湊の席の近くを通った。


 湊は反射的に背筋を伸ばした。


 高橋さんは、少し立ち止まった。


「君」


 湊は身構えた。


「この席、使い心地はどうですか」


「え」


「いや、前より落ち着いているように見えたので」


 湊は、どう答えればいいかわからなかった。


「まあ……前よりは」


「そうですか」


 高橋さんは、小さく頷いた。


「私も、静かな部屋で読みやすくなりました」


 それだけ言って、新聞コーナーへ戻っていった。


 湊は、少しぽかんとしていた。


 怒られなかった。


 迷惑だと言われなかった。


 ただ、それぞれの場所ができた。


 それだけで、話し方が変わることがあるのだと知った。


 閉館時間が近づく頃、灯理は図書館を訪れた。


 窓際席には湊が座っている。


 今日は、机に突っ伏していなかった。


 星の図鑑を開いている。


 読んでいるのか、ただ眺めているのかはわからない。


 でも、ページは開かれていた。


 南さんが、カウンターからその様子を見ていた。


「白瀬先生」


「はい」


「湊さん、今日は本を開いています」


「そうですね」


「読まなくてもいい席を作ったら、少し読める日も来るんですね」


 南さんは、少し笑った。


「本を読ませようとしていたわけではないのに」


 灯理は頷いた。


「読まなければならない場所ではなく、いてもよい場所になったからかもしれません」


「はい」


 南さんは、館内を見渡した。


「図書館の静けさを守ることは、これからも大切にします」


「はい」


「でも、静けさだけを守ろうとして、誰かを外に出してしまうこともあるのですね」


「はい」


「これからは、静けさと居場所を一緒に考えたいです」


 閉館の音楽が小さく流れ始めた。


 湊は、星の図鑑を閉じた。


 棚に戻しかけて、少し迷い、カウンターへ持っていった。


「借ります」


 南さんは、驚いた顔をしないように、いつも通りの声で言った。


「はい」


 貸出機に本を通す。


 電子音が鳴る。


 湊はカードを受け取った。


 南さんは、小さく言った。


「また来てください」


 湊は、一瞬だけ目を伏せた。


「はい」


 図書館を出る前、湊は掲示板を見た。


『読む人、調べる人、話し合う人、少し休む人が共に過ごせるよう、場所ごとのルールを一緒に守りましょう。』


 湊は、その文字を最後まで読んだ。


 それから、鞄に星の図鑑を入れた。


 まだ家に帰るのは少し重かった。


 でも、明日もここに来られると思うと、足は前より少しだけ軽かった。


 夜、灯理は図書館を出た。


 ガラス越しに見える館内では、南さんが椅子を整え、窓際席のプレートをまっすぐに直している。静かに読む部屋の明かりが消え、児童書コーナーの小さな椅子が重ねられていた。


 玄関まで、南さんが見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、図書館という場所を一緒に見せていただきました」


 南さんは、閉館した図書館を振り返った。


「図書館は静かな場所です。それは変わりません」


「はい」


「でも、静かにできる人だけの場所ではないのですね。静けさが必要な人と、居場所が必要な人が、どうすれば同じ公共の場所を分け合えるのか。それを考え続ける場所でもあるのだと思いました」


 灯理は頷いた。


「場所は、使う人たちと一緒に育っていきますね」


「はい」


 夜風が、図書館前の木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、夜間中学から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 図書館を学ぶことは、本を静かに読むことだけではない。


 もちろん、静けさは大切だ。


 ページをめくる音が聞こえる場所。


 言葉と向き合える場所。


 調べものに集中できる場所。


 それを守ることは、図書館の大切な役割だ。


 けれど、図書館には、別の時間を置きに来る人もいる。


 家に帰るまでの少しの間。


 誰にも責められず座れる机。


 ひとりで息を整える窓際。


 まだ本を読めない心。


 相談したいと言えない沈黙。


 公共の場所は、誰か一人のためだけには作れない。


 だからこそ、そこに来る人たちが、静けさと声と休息をどう分け合うかを考え続ける必要がある。


 灯理は、夜の図書館を振り返った。


 窓際席の机には、小さなプレートが置かれている。


 休むだけでもよい席。


 そして、湊の図書館カードの裏には、消されなかった一文がある。


 本はまだ読めない。でも、ここで少し息ができる。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ