第18章 第5話:世代をつなぐ授業――未来から来た老人
蓮の人生設計表には、老後の欄だけが空白だった。
教室の窓から、春の終わりの光が入っている。午後の総合学習の時間。机の上には、学校から配られた一枚のワークシートが置かれていた。
『十年後の自分』
『三十年後の自分』
『六十年後の自分』
十年後の欄には、すぐに書けた。
大学を卒業している。
できれば都市部で働いている。
収入は安定していたい。
ひとり暮らしをしているかもしれない。
三十年後の欄には、少し迷いながらも書いた。
仕事である程度の立場になっている。
家族がいるかもしれない。
家を持っているかもしれない。
健康でいたい。
問題は、六十年後だった。
蓮はペンを持ったまま、空白を見つめた。
六十年後。
自分は七十代を越えている。
髪が白くなっているかもしれない。
足が弱くなっているかもしれない。
仕事はもうしていないかもしれない。
誰かの世話になるかもしれない。
そこまで考えたところで、蓮はペンを置いた。
想像できない。
というより、想像したくなかった。
老いる自分。
できなくなることが増える自分。
誰かに助けを求める自分。
それは、今の自分とは関係のない、遠い別の人のようだった。
前の席の友人が振り返った。
「蓮、六十年後何書いた?」
「何も」
「俺も。老後とか、遠すぎるよな」
「大学とか就職ならまだしも」
蓮は、ワークシートの老後欄に斜線を引きかけて、やめた。
担任の相沢先生が、教室の前で説明を続けている。
「今日は地域交流センターへ行き、高齢者の方々と一緒に人生設計について考えます」
教室がざわついた。
「高齢者と?」
「何話すんだろ」
「老後の話?」
「まだ早くない?」
蓮も同じことを思った。
老後なんて、まだ関係ない。
自分たちが今考えるべきなのは、進路、受験、仕事、収入、生活だ。
年を取った後のことは、その時になってから考えればいい。
相沢先生は、生徒たちの反応を見て少し困ったように笑った。
キャリア教育として人生設計を扱いたい。
ただ、どうしても生徒たちは若い時期のことに意識が向く。
大学、就職、資格、収入、結婚、子育て。
そこまでは話題にしやすい。
しかし、老い、介護、孤独、支え合い、最期に近い時間となると、生徒の関心は一気に遠のく。
相沢先生自身も、どのように扱えばよいか迷っていた。
老いを重く語れば、生徒は引いてしまう。
明るく語りすぎれば、現実から離れる。
その時、教室の後ろに一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
世代間交流の授業に助言者として参加している先生だった。
灯理は、蓮の空白の老後欄を見ていた。
地域交流センターは、学校から歩いて十分ほどの場所にあった。
大きなガラス窓のある建物で、入り口には「だれでも学べるまちの居場所」と書かれた看板が立っている。
中に入ると、木の床の匂いと、少し甘いお茶の香りがした。
ロビーには丸いテーブルがいくつもあり、高齢者たちが座っていた。
杖を持つ人。
車椅子の人。
背筋を伸ばして新聞を読む人。
編み物をしている人。
スマートフォンの使い方を職員に聞いている人。
誰かを待つように、入口の方を見ている人。
蓮は、なんとなく視線を落とした。
どう話せばいいのかわからない。
失礼なことを言ってしまいそうで怖い。
そもそも、自分とは時間の流れ方が違う人たちのように見えた。
今日のワークショップを担当するセンター職員が、生徒たちを会議室へ案内した。
部屋の中央には、円形に椅子が並べられている。
生徒と高齢者が交互に座るようになっていた。
蓮の隣には、郁子さんという女性が座った。
白い髪をきれいにまとめ、薄い青のブラウスを着ている。膝元には小さな布バッグがあり、その中にノートと眼鏡ケースが入っていた。
「よろしくね」
郁子さんは、にこりと笑った。
「よろしくお願いします」
蓮は、少しぎこちなく頭を下げた。
相沢先生が、前で今日の流れを説明する。
「今日は、未来の自分について考えます。十年後、三十年後だけではなく、六十年後の自分も想像してみます」
生徒たちの何人かが、やはり困ったように笑った。
郁子さんが、蓮のワークシートをちらりと見た。
「六十年後、空白なのね」
蓮は、少し気まずくなった。
「すみません。想像できなくて」
「謝らなくていいのよ。私も高校生の頃、七十八歳の自分なんて想像していなかったもの」
「そうなんですか」
「ええ。七十八歳なんて、歴史の教科書の中の人みたいに思っていたわ」
蓮は、思わず少し笑った。
郁子さんも笑う。
その笑い方は、思っていたより軽やかだった。
灯理が、ホワイトボードの前に立った。
そして、大きく書いた。
『未来の自分に会う』
次に、いくつかの問いを並べる。
『できるようになりたいこと』
『できなくなるかもしれないこと』
『誰に支えられたいか』
『誰を支えたいか』
『どんな場所に居場所がほしいか』
『孤独な時、どうつながりたいか』
『老いた自分から今の自分へ伝えたいこと』
『若い自分から老いた自分へ聞きたいこと』
蓮は、ホワイトボードを見て眉を寄せた。
できなくなるかもしれないこと。
誰に支えられたいか。
そんなことを人生設計に書くのか。
自分の人生設計とは、できることを増やす計画だと思っていた。
進学。
就職。
収入。
資格。
住む場所。
やりたいこと。
でも、そこには「できなくなること」や「支えられること」は入っていなかった。
灯理は、生徒たちに言った。
「未来を考える時、私たちは、できるようになることや達成したいことをよく書きます」
生徒たちは頷く。
「それは大切です。けれど、人生には、できるようになることだけでなく、いつか少しずつ難しくなることもあります」
教室が静かになる。
「遠くまで歩くこと。重い荷物を持つこと。細かい文字を読むこと。一人で全部を決めること。誰にも頼らず生活すること」
郁子さんは、ゆっくり頷いていた。
「それを怖いこととしてだけ見るのではなく、どんな支えや場所があれば自分らしく暮らせるのかを考えてみます」
蓮は、思わず手を挙げた。
「先生」
「はい」
「老人になった自分なんて想像できません」
何人かが頷いた。
蓮は続けた。
「正直、今考えても仕方ない気がします。老後って、まだ遠すぎるし」
灯理は、蓮の言葉を否定しなかった。
少しだけ間を置いて、問いを返した。
「うん。では、想像しない未来のために、今の社会を作ってよいのでしょうか」
蓮は、黙った。
今の社会。
老後。
それがつながっているとは、あまり考えたことがなかった。
灯理は続けた。
「今日ここにいる高齢者の方々は、誰か遠い世界の人ではありません。時間の先を生きている人です」
郁子さんが、蓮の方を見て言った。
「私は、未来から来たあなたの一人かもしれないね」
蓮は、思わず郁子さんを見た。
未来から来た自分。
白い髪。
細くなった手。
ゆっくりした歩き方。
でも、目はしっかりしていて、笑うと少し高校生のような軽さがある。
その人が、自分の未来の一部かもしれない。
そう思うと、少し不思議な感じがした。
ワークショップでは、まず高齢者の方々が「若い頃に想像していた未来」と「実際に来た今」を話した。
郁子さんは、元教師だった。
「高校生の頃は、ずっと教壇に立っていると思っていました」
「実際に先生だったんですか」
「ええ。小学校で三十七年」
「すごい」
「でも、退職した後がこんなに長いとは思っていなかったわ」
郁子さんは笑った。
「仕事がなくなったら、最初は自由だと思ったの。でも、毎朝行く場所がないって、意外と寂しいのよ」
蓮は、少し驚いた。
「仕事しなくていいなら楽じゃないですか」
「そう思うでしょう?」
「はい」
「楽な日もあるわ。でも、人に名前を呼ばれる場所が急になくなるのは、思ったよりこたえるの」
郁子さんは、窓の外を見た。
「最近は足が弱くなって、遠くへ出かけるのが億劫になったの。友だちも減っていくし、一人で食べる夕飯が続くと、ああ、今日私は誰とも話さなかったなと思う日がある」
蓮は、何も言えなかった。
老後という言葉の中には、年金とか介護とか健康とか、ニュースで聞くような言葉しか入っていなかった。
でも、郁子さんの話はもっと具体的だった。
名前を呼ばれる場所がなくなる。
一人で食べる夕飯。
誰とも話さなかった日。
それは、自分にも少し想像できる寂しさだった。
「でも、この交流センターに来るようになって、少し変わりました」
郁子さんは言った。
「ここでは、郁子さんと呼んでもらえる。体操もできるし、スマホの使い方も習える。昔の教え子ではない若い人と話せる日もある」
「今日みたいに?」
「そう。今日みたいに」
郁子さんは、蓮を見て微笑んだ。
「私はもう誰かを教える先生ではないと思っていたけれど、こうして話すことで、まだ誰かに渡せるものがあるのね」
蓮は、ワークシートの六十年後の欄を見た。
まだ空白だった。
けれど、そこに何を書けばいいのか、少しだけ輪郭が見えてきた。
次の活動では、生徒たちが三つの未来を書いた。
『十年後』
『三十年後』
『六十年後』
ただし、今回は条件が加わった。
『できるようになりたいこと』
『できなくなるかもしれないこと』
『支えが必要なこと』
『それでも続けたいこと』
『居場所にしたい場所』
蓮は、十年後の欄に書いた。
『仕事を始めている』
『自分で生活できる』
『友人と時々会う』
三十年後。
『仕事を続けている』
『家族か仲間がいる』
『健康に気をつける』
『親を支えることがあるかもしれない』
六十年後。
ペンが止まる。
でも、完全には止まらなかった。
蓮は、郁子さんの言葉を思い出す。
名前を呼ばれる場所。
一人で食べる夕飯。
まだ誰かに渡せるもの。
ゆっくり書いた。
『足が弱くなるかもしれない』
『一人暮らしかもしれない』
『誰かに助けてと言える場所がほしい』
『年を取っても学べる場所がほしい』
『一人で食べない日があるといい』
『若い人と話せる場所にいたい』
書いてから、少し照れくさくなった。
でも、消さなかった。
相沢先生が、生徒たちのワークシートを見て回っていた。
以前の人生設計では、職業や収入の欄ばかり見ていた。
しかし、今日のワークシートには違う言葉が並んでいる。
『助けてと言える人』
『通える場所』
『一人で食べない日』
『話を聞いてもらえる場所』
『誰かの役に立てること』
『できなくなっても続けたい趣味』
『若い人に伝えたいこと』
『支えられることを恥ずかしがらない』
相沢先生は、静かに息を吐いた。
キャリア教育は、職業選択だけではない。
収入や進学だけでもない。
人生全体の関係設計なのだと、少しずつ腑に落ちてきた。
次に、生徒たちは「老いた自分から今の自分への手紙」を書くことになった。
蓮は、少し迷った。
老いた自分。
未来から来た自分。
郁子さんの言葉が、耳に残っている。
『私は、未来から来たあなたの一人かもしれないね』
蓮は、便箋に向かった。
『高校生の蓮へ』
そこまで書いて、少し笑いそうになった。
自分で自分に手紙を書くのは変な感じがする。
それでも続けた。
『たぶん、今のお前は、何でも一人でできる方がかっこいいと思っている。人に頼るのは弱いと思っている。老後のことなんて遠すぎると思っている。』
ペンが動く。
『でも、未来の僕は、一人で何でもできる人ではないかもしれない。足が遅くなるかもしれない。目が悪くなるかもしれない。忘れることも増えるかもしれない。誰かに助けてもらわないと困る日もあると思う。』
蓮は、少し手を止めた。
それを書くのは、少し怖かった。
でも、続ける。
『その時、助けてと言える場所を、今の社会に作っておいてほしい。年を取っても学べる場所を残してほしい。誰かとごはんを食べられる場所を大事にしてほしい。』
最後に、こう書いた。
『未来の僕は、一人で強く生きる人ではなく、助け合える場所を持つ人でいてほしい。』
書き終えると、胸の中が少し静かになった。
老いは、若さの失敗ではないのかもしれない。
ただ、人生の続きにある時間。
そして、その時間をどう支える社会を作るかは、今の自分にも関係している。
郁子さんも、高校生へ向けた手紙を書いた。
短い手紙だった。
『若いあなたへ。急いで強くならなくても大丈夫です。人に頼らず生きることだけが立派なのではありません。いつか支えられる日が来ても、あなたの価値は減りません。どうか、助けてと言える練習を若いうちからしてください。そして、誰かの助けてを聞ける人でもいてください。』
蓮は、その手紙を受け取った。
紙は少し厚く、郁子さんの字は丸くて読みやすかった。
「これ、もらっていいんですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
「私の方こそ」
郁子さんは笑った。
「久しぶりに、先生みたいな気持ちになったわ」
「元先生ですもんね」
「でも、退職してからは、自分がもう教える側ではないと思っていたの」
「今日、めっちゃ教えられました」
蓮は、素直にそう言った。
郁子さんの表情が少し緩んだ。
「それは嬉しいわ」
ワークショップの最後に、交流センターの空席について話し合った。
センターには、いつも空いている部屋がある。
高齢者向けの体操や講座はあるが、若者が来る機会は少ない。
学校と地域が連携して、月に一度、世代間の学びの時間を作れないかという提案が出た。
高校生がスマートフォンや調べものを手伝う。
高齢者が昔の仕事や暮らし、地域の変化を語る。
一緒に料理をする。
防災マップを作る。
孤食を減らすための昼食会を開く。
進路や人生について話す。
蓮は、最初なら面倒だと思ったかもしれない。
でも今は、少し違った。
それはボランティアだけではない。
未来の自分が必要とするかもしれない場所を、今から作ることでもある。
相沢先生が尋ねた。
「蓮さん、この交流センターをどんな場所にしたいですか」
蓮は、少し考えて答えた。
「若い人が高齢者を助けに来る場所、だけじゃない方がいいと思います」
「はい」
「高齢者も、未来の自分みたいな人で。こっちが教えられることもあるので」
郁子さんが、横で嬉しそうに頷いた。
「あと、一人でごはんを食べない日を作れる場所がいいです」
蓮は、自分で言って少し照れた。
「そういうの、人生設計に必要だと思ったので」
相沢先生は、その言葉を黒板に書いた。
『一人で食べない日を作る』
会議室に、静かな温かさが広がった。
数日後、学校では振り返り授業が行われた。
生徒たちは、それぞれの人生設計表を見直した。
以前は空白だった六十年後の欄に、言葉が増えている。
『学び直せる場所』
『病院に行きやすい町』
『歩きやすい道』
『助けてと言える友人』
『一人でいない日』
『誰かの役に立てる時間』
『昔話だけでなく今の話もできる場所』
蓮は、自分のワークシートの老後欄を見た。
もう空白ではない。
将来の職業や収入ほどはっきりしているわけではない。
でも、今までより大事なことが書かれている気がした。
相沢先生は、授業の最後に言った。
「キャリア教育というと、どんな職業に就くか、どんな進路を選ぶかを考えることだと思いがちです」
生徒たちは前を見る。
「もちろん、それは大切です。でも、人生は仕事だけではありません。老いていくこと、支えること、支えられること、居場所を持つこと、誰かと食べること、学び続けること。それらも人生設計の一部です」
蓮は、郁子さんの手紙を机の中から取り出した。
何度も読んだので、折り目が少し柔らかくなっている。
『助けてと言える練習を若いうちからしてください。』
その一文が、妙に残っていた。
放課後、蓮は地域交流センターへ寄った。
特に用事はない。
でも、郁子さんがいるかもしれないと思った。
ロビーに入ると、郁子さんは窓際のテーブルで新聞を読んでいた。
「あら、未来の私に会いに来たの?」
郁子さんが冗談めかして言う。
「未来の僕、じゃないんですか」
「そうだったわね」
蓮は笑って、向かいの席に座った。
「この前の手紙、ありがとうございました」
「読んでくれた?」
「はい」
「難しいこと書いたかしら」
「いや。なんか、残りました」
蓮は、少し迷ってから言った。
「今度、学校の友だちとここで昼ごはんの会、手伝えるか聞いてみます」
「まあ」
「一人で食べない日、あった方がいいと思ったので」
郁子さんは、嬉しそうに目を細めた。
「それは楽しみね」
蓮は、ロビーを見渡した。
空いている椅子。
新聞を読む人。
お茶を飲む人。
誰かを待つ人。
ここは、老後の人だけの場所ではないのかもしれない。
未来の自分と、今の自分が少し重なる場所。
世代が違う人たちが、互いに問いを渡せる場所。
そう見えると、空席の意味も少し変わった。
夜、灯理は地域交流センターを出た。
ガラス窓の向こうでは、職員が椅子を並べ直している。掲示板には、新しい予定表が貼られていた。
『世代をつなぐ昼食会』
『高校生とスマホ相談』
『昔の仕事を聞く会』
『未来の自分に手紙を書く時間』
相沢先生が、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、未来の自分と出会う時間を一緒に見せていただきました」
相沢先生は、手にした人生設計表の束を見た。
「老いを扱うことに、少し怖さがありました」
「はい」
「生徒たちには遠すぎると思っていました。でも、遠いからこそ想像しないまま社会を作ってしまう危うさがあるのですね」
灯理は頷いた。
「老いは、誰か別の人の問題ではありませんね」
「はい。進路や職業だけでなく、支え合える場所を持つことも人生設計なのだと、私も学びました」
相沢先生は、センターの中を振り返った。
「蓮が書いた『一人で食べない日』という言葉、忘れられません」
夜風が、交流センター前の木を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、新しい依頼状が一通入っている。
けれど、まだ開かなかった。
未来を学ぶことは、夢や成功だけを描くことではない。
どんな学校へ行くか。
どんな仕事をするか。
どれくらい稼ぐか。
どこに住むか。
それらは大切な問いだ。
けれど、人生はそこだけでは終わらない。
いつかできなくなるかもしれないこと。
誰かに支えられる日。
誰かを支える時間。
一人で食べる夕飯。
名前を呼ばれる場所。
年を取っても学び直せる場所。
助けてと言える関係。
若い人に渡せる言葉。
それらも、未来の一部だ。
灯理は、夜の交流センターを振り返った。
窓際のテーブルに、蓮の人生設計メモが置かれている。
そこには、空白だった老後欄に書かれた一文が残っている。
未来の僕は、一人で強く生きる人ではなく、助け合える場所を持つ人でいてほしい。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




