第18章 第4話:死を考える授業――書けない別れの手紙
紗良の前に置かれた便箋は、白いままだった。
窓の外では、秋の風が校庭の木を揺らしている。三階の教室には、午後の光が斜めに差し込み、机の上の便箋を少しだけ眩しく見せていた。
便箋の端には、小さな花の模様が印刷されている。
薄い桃色の花。
誰かに優しい言葉を送るために作られたような紙だった。
黒板には、今日の授業のテーマが書かれていた。
『大切な人へ手紙を書こう』
道徳と総合学習を合わせた時間だった。
命の大切さについて考える授業。
人はいつか死ぬこと。
今そばにいる人へ気持ちを伝えること。
感謝を言葉にすること。
長峰先生は、真剣な顔で教室の前に立っていた。
「今日は、みなさんに大切な人を一人思い浮かべてもらいます」
教室は、いつもより静かだった。
「家族でも、友だちでも、先生でも、今は会えない人でもかまいません。その人に向けて、普段なかなか言えない気持ちを書いてみましょう」
何人かの生徒が、すぐにペンを持った。
母へ。
祖父へ。
小学校の先生へ。
遠くに引っ越した友だちへ。
机のあちこちで、文字が生まれ始める。
紗良だけが、便箋の前で動けなかった。
大切な人。
思い浮かべるまでもなかった。
美咲。
去年の冬、事故で亡くなった親友。
隣の席で笑っていた子。
給食のゼリーをいつも最後まで取っておく子。
体育は苦手なのに、持久走の時だけ妙に負けず嫌いだった子。
紗良の消しゴムを勝手に使って、角を丸くして返してきた子。
帰り道、コンビニの前で新作のアイスを買うかどうか十分も迷った子。
その美咲が、もういない。
最初の頃、紗良は泣けなかった。
葬儀でも、学校での黙祷でも、周りが泣いているのに、自分だけがぼんやりしていた。
しばらくしてから、急に涙が出るようになった。
美咲の席を見る時。
同じ種類のヘアゴムを見つけた時。
美咲が好きだった曲が店で流れた時。
そして、何でもない夕方。
鞄を持って昇降口へ向かう時、隣にいないことに気づく。
そのたびに、胸の奥が空っぽになった。
学校では、紗良はできるだけ元気にしていた。
周りに気を遣わせたくなかった。
美咲の話題が出ると、笑って相槌を打った。
「美咲ならそう言いそう」
「ほんと、あの子らしいよね」
そう言えるようになった自分を、少し誇らしく思う日もあった。
けれど、今日の便箋の前では、何もできなかった。
大切な人へ手紙を書く。
ありがとうを書く。
命の大切さを考える。
その言葉が、紗良の中でひっかかる。
ありがとう。
本当に、それだけなのだろうか。
紗良は、ペンを持った。
便箋の一行目に、美咲へ、と書こうとした。
でも、最初に出てきた言葉は違った。
『どうして先にいなくなったの』
書いた瞬間、手が止まった。
ひどい言葉だと思った。
亡くなった人に向ける言葉ではない。
親友に向ける言葉ではない。
命の大切さを考える授業で書く言葉ではない。
紗良は、慌てて消しゴムを取った。
白い便箋の上で、黒い文字が薄く削れていく。
どうして。
先に。
いなくなったの。
消しても、紙には少し跡が残った。
桃色の花の横に、消し跡だけが薄く残っている。
長峰先生は、教室を回りながら生徒たちの様子を見ていた。
先生は、この授業に強い思いを持っていた。
最近、命に関するニュースや事故の話を、生徒たちが遠い出来事のように受け流しているように感じていた。
今ある命は当たり前ではない。
大切な人に気持ちを伝えることは、いつでもできるわけではない。
そのことを、生徒たちに考えてほしかった。
だから、手紙を書く活動を用意した。
感謝を言葉にすることで、命の尊さに気づいてほしかった。
しかし、紗良の机の前に来た時、長峰先生は足を止めた。
便箋は、ほとんど白い。
ただ、一行目に消し跡がある。
紗良は、ペンを握ったままうつむいていた。
「紗良さん」
長峰先生は、声を落とした。
「無理に長く書かなくてもいいですよ。まずは、ありがとうからでも」
ありがとう。
その言葉が、紗良の胸に刺さった。
美咲にありがとうと思っていないわけではない。
一緒にいてくれてありがとう。
笑わせてくれてありがとう。
帰り道を一緒に歩いてくれてありがとう。
秘密を聞いてくれてありがとう。
それは全部、本当だ。
でも、今いちばん強くあるのは、ありがとうではなかった。
どうして。
悔しい。
寂しい。
置いていかれた。
もっと話したかった。
最後のメッセージに、もっとちゃんと返せばよかった。
あの日、早く帰ろうなんて言わなければよかった。
それらが胸の中で渦巻いていて、きれいな感謝の言葉だけを便箋に置くことができなかった。
紗良は、小さく言った。
「書けません」
長峰先生は、少し戸惑った。
「書けない?」
「ありがとうって、書けません」
声が震えた。
教室の音が遠くなる。
鉛筆の走る音。
誰かが紙をめくる音。
椅子が少しきしむ音。
その全部が、紗良から離れていくようだった。
その時、教室の後ろから一人の先生が歩いてきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
死生教育の授業づくりを支援するために来ている先生だった。
灯理は、紗良の便箋に残った消し跡を見た。
そして、静かに尋ねた。
「紗良さん、消した言葉がありましたか」
紗良は、便箋を手で隠した。
「汚い言葉だったので」
「そう感じたのですね」
「だって、ありがとうって書く授業なのに」
紗良は、唇を噛んだ。
「先生、ありがとうって書けない私は、ひどいんでしょうか」
長峰先生が息を止めた。
灯理は、すぐに否定しなかった。
ただ、紗良の目線まで少しかがみ、ゆっくり言った。
「うん。では、悲しみは、きれいな感謝の言葉にしなければ本物ではないのでしょうか」
紗良は、便箋を握りしめた。
悲しみ。
きれいな感謝。
本物。
自分の中にあるぐちゃぐちゃしたものも、悲しみなのだろうか。
怒りも。
後悔も。
どうして、という言葉も。
灯理は、長峰先生に視線を向けた。
「先生、少し活動の形を変えてもよいでしょうか」
長峰先生は、黒板の前に立った。
しばらく沈黙した後、頷いた。
「お願いします」
灯理は、黒板の『大切な人へ手紙を書こう』の下に、新しい言葉を書き足した。
『書く』
『書かない』
『絵にする』
『言葉を一つだけ置く』
『封筒に入れて持ち帰る』
『破る』
『保管する』
『今は参加しない』
生徒たちが顔を上げた。
灯理は言った。
「今日は、手紙を書くことだけが目的ではありません。大切な人を思い浮かべた時、どんな気持ちが出てくるかを、自分で選べる形で扱います」
教室が静かになる。
「感謝を書ける人は書いてください。嬉しかったことを書ける人は書いてください。でも、怒りや後悔や寂しさが出てくる人もいるかもしれません。何も書けない人もいるかもしれません」
灯理は、黒板にさらに書いた。
『感謝』
『寂しさ』
『怒り』
『後悔』
『会いたい』
『まだ言えない』
『忘れていない』
『今は無理』
「それらも、心の中にある大切な反応です。無理にきれいな言葉にしなくてかまいません」
長峰先生は、黒板を見つめていた。
自分は、命の大切さを伝えようとしていた。
でも、感謝を書こうという活動が、実際に大切な人を亡くした生徒にとって、逃げ場のないものになっていたかもしれない。
紗良のような生徒がいることを、知っていたはずだった。
美咲が亡くなった時、クラスは大きな悲しみに包まれた。
それなのに、時間が経ったことで、もう大丈夫だとどこかで思っていたのかもしれない。
灯理は、生徒たちに新しい小さなカードを配った。
「便箋に書いてもいいです。カードに一言だけでもいいです。何も書かず、封筒だけ持っていてもいいです」
紗良の机にも、白いカードが置かれた。
便箋より小さい。
余白も少ない。
少しだけ、息がしやすかった。
紗良は、消し跡の残った便箋を見た。
どうして先にいなくなったの。
消したはずなのに、跡が残っている。
その跡を見ると、胸が痛む。
でも、さっき灯理が言った。
その言葉も、悲しみの一部ではないか。
紗良は、もう一度ペンを持った。
カードに書く。
『どうして先にいなくなったの』
手が震えた。
その下に、少し間を空けて書く。
『まだありがとうだけは書けない』
さらに、小さく書く。
『でも、忘れてない』
それだけで、もう何も書けなかった。
でも、白紙ではなくなった。
授業の後半、生徒たちは自分の書いたものをどう扱うか選んだ。
友人に見せる生徒。
封筒に入れて持ち帰る生徒。
絵を描いた生徒。
カードを破って捨てることを選んだ生徒。
何も書かず、ただ便箋を閉じた生徒。
長峰先生は、一人ひとりの選択を認めた。
以前なら、全員に手紙を書かせ、最後に感想を書かせていただろう。
今日は違った。
書けないこと。
渡せないこと。
破りたいこと。
持っていたいこと。
それぞれの形があった。
紗良は、カードを封筒に入れた。
封筒の表に、美咲へ、と書こうとして、また手が止まった。
美咲へ。
それを書くと、本当に手紙になる。
でも、自分はまだ渡せない。
美咲に向けているようで、自分の中に置いておきたい言葉でもある。
紗良は、封筒の表に別の言葉を書いた。
『まだ渡せない。でも、ここにある』
封をするかどうか迷った。
結局、封はしなかった。
閉じすぎるのも怖かった。
開いたままでもよい気がした。
授業が終わった後、紗良は教室に残っていた。
他の生徒たちは少しずつ廊下へ出ていく。
長峰先生が近づいた。
「紗良さん」
紗良は、少し身構えた。
「ごめんなさい」
先生の言葉に、紗良は顔を上げた。
「今日の授業、つらかったですね」
紗良は、すぐには答えられなかった。
長峰先生は続けた。
「命の大切さを伝えたいと思っていました。でも、全員が同じように手紙を書けると思ってしまっていました」
紗良は、封筒を見た。
「先生が悪いって言いたいわけじゃないです」
「はい」
「でも、ありがとうって書こうって言われた時、苦しかったです」
「はい」
「美咲にありがとうって思ってないわけじゃないです」
「うん」
「でも、それだけじゃないんです」
声が少し震えた。
「怒ってるし、寂しいし、悔しいし、置いていかれたって思うし、最後に送ったメッセージをもっとちゃんと書けばよかったって何回も思うし」
長峰先生は、黙って聞いていた。
「でも、そんなこと言ったら、美咲に悪い気がして」
紗良は、封筒を握った。
「だから、書けませんでした」
灯理が、少し離れた場所で静かに言った。
「書けなかったことも、今日の大切な言葉だったのだと思います」
紗良は、灯理を見る。
「書けないのに?」
「はい。書けないほど混ざっている気持ちがあると、わかったからです」
長峰先生は頷いた。
「紗良さん、話してくれてありがとう」
紗良は、小さく首を振った。
「ありがとうって言われると、ちょっと困ります」
長峰先生は少し驚き、それから静かに頷いた。
「そうですね。では、話してくれたことを受け取りました」
紗良は、ほんの少しだけ笑った。
その言い方なら、受け取れた。
数日後、長峰先生は道徳の授業を組み直した。
テーマは変えなかった。
命を考えること。
大切な人を思うこと。
死について考えること。
それは必要な学びだと思っている。
けれど、方法を変えた。
授業の冒頭で、先生は必ず伝えるようにした。
「この授業では、無理に自分の経験を話す必要はありません」
「大切な人を亡くした経験がある人、今つらい気持ちがある人は、別の課題を選んでもかまいません」
「感謝だけでなく、怒りや後悔や沈黙も、心の反応として大切にします」
「書いたものを提出するかどうかは選べます」
教室には、複数の課題が用意された。
『大切な人へ手紙を書く』
『今書ける言葉を一つ置く』
『色や線で気持ちを表す』
『読んだ物語の登場人物の気持ちを考える』
『今は参加せず、別室で静かに過ごす』
生徒たちは、自分で選んだ。
ある生徒は祖父へ感謝の手紙を書いた。
ある生徒は、飼っていた犬への絵を描いた。
ある生徒は、何も書かず、窓の外を見ていた。
長峰先生は、それを急がせなかった。
紗良は、その授業で美咲への封筒を机の中から取り出した。
まだ封はしていない。
中のカードも、そのままだ。
どうして先にいなくなったの。
まだありがとうだけは書けない。
でも、忘れてない。
その言葉を読み返すと、胸は痛む。
でも、最初に書いた時ほど、自分をひどいと思わなかった。
美咲がそれを読んだら、どう言うだろう。
怒るだろうか。
笑って、「紗良らしい」と言うだろうか。
たぶん、わからない。
でも、美咲なら、きれいな言葉だけを求めたりしない気がした。
放課後、紗良は美咲とよく歩いた帰り道を通った。
コンビニの前で足を止める。
新作アイスのポスターが貼られていた。
美咲なら絶対に迷った。
買うかどうか十分悩んで、結局買って、一口食べてから「寒い」と言ったに違いない。
紗良は、ポスターを見ながら小さく笑った。
笑った瞬間、泣きそうになった。
封筒を鞄から出す。
コンビニの前のベンチに座り、封筒の裏に一行だけ書き足した。
『今日、新作アイス出てたよ』
それだけだった。
でも、その一文は、ありがとうでも、さよならでもなかった。
美咲がいた日常への、短い合図だった。
紗良は封筒を閉じず、また鞄にしまった。
家に帰ってから、自分の机の引き出しに入れる。
渡せない。
でも、ここにある。
そのままでよかった。
後日、長峰先生は灯理と職員室で話していた。
「死を扱う授業は、難しいですね」
「はい」
「命の大切さを伝えたいという思いは、今もあります」
「大切な思いですね」
「でも、その思いが強すぎると、生徒の悲しみを一つの形に押し込めてしまうことがあるのだと知りました」
長峰先生は、授業案のノートを開いた。
そこには、新しく書き足された言葉がある。
『選べること』
『書けないことを認めること』
『感謝に急がないこと』
『怒りや後悔も悲しみの一部』
『経験を話さない権利』
『提出しない選択』
「紗良さんの『ありがとうって書けない』という言葉が、ずっと残っています」
灯理は頷いた。
「悲しみは、人によって形も速度も違いますね」
「はい。授業で扱うなら、結論を急いではいけないのですね」
夕方、紗良は教室で一人、封筒を見ていた。
長峰先生が近づく。
「帰れそうですか」
「はい」
紗良は封筒を鞄にしまった。
「先生」
「はい」
「まだ、美咲のこと話せる日と、話せない日があります」
「うん」
「今日みたいに、新作アイスのことだけなら書ける日もあります」
「はい」
「でも、ありがとうはまだ書けないかもしれません」
長峰先生は、静かに言った。
「今書ける言葉でいいと思います」
紗良は頷いた。
「それなら、少し書けそうです」
廊下に出ると、窓の外は夕焼けだった。
美咲が好きだった色だ。
紗良は、心の中で思った。
きれいだよ。
でも、口には出さなかった。
まだ出せない言葉は、まだ出さなくてよい。
そのことを、少しだけ信じられるようになっていた。
夜、灯理は中学校を出た。
校舎の窓には、まだ職員室の明かりが残っている。長峰先生は机に向かい、次の授業案に「選択肢を先に示す」と書き込んでいた。
校門まで、長峰先生が見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、書けない言葉の授業を一緒に見せていただきました」
長峰先生は、手にした授業案を見た。
「死を考える授業で、私は生徒たちに大切な人への感謝を見つけてほしいと思っていました」
「はい」
「でも、感謝は強制できるものではないのですね。悲しみの中には、怒りも後悔も、沈黙もある」
「はい」
「それを置ける場所を作ることも、授業の役割なのだと思いました」
夜風が、校門の横の木を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、地域交流センターと学校の合同授業から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
死を学ぶことは、悲しみをきれいな言葉に整えることではない。
ありがとう。
さようなら。
忘れない。
命は大切。
それらの言葉が必要な時もある。
けれど、そこへすぐにはたどり着けない人もいる。
どうして。
悔しい。
寂しい。
怒っている。
まだ書けない。
渡せない。
それでも、ここにある。
その未完成の言葉も、悲しみの一部として置いてよい。
灯理は、夕暮れの道を歩きながら、紗良の封筒に書かれた一文を思い出した。
まだ渡せない。でも、ここにある。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




