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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第18章 第2話:介護の授業――ありがとうを言えない家


 遥は、祖母の薬袋をひとつずつ並べてから、制服の袖に腕を通した。


 朝の台所は、まだ薄暗い。


 換気扇の低い音が回り、炊飯器から白い蒸気が上がっている。流しには、昨夜の食器が二枚だけ残っていた。窓の外では、新聞配達のバイクが遠ざかっていく。


 テーブルの上には、祖母の薬が置かれていた。


 朝食後。


 昼食後。


 夕食後。


 寝る前。


 小さな文字で印字された袋を、遥は指で確認する。


 間違えないように、朝の分だけ別の皿に乗せる。


「おばあちゃん、朝の薬ここに置くね」


 居間から、祖母の声がした。


「はいはい」


 声は返ってきたが、遥はそのままにできなかった。


 祖母は最近、飲んだことを忘れることがある。


 逆に、まだ飲んでいない薬を「飲んだ」と言うこともある。


 だから、遥が出かける前に確認しておく必要があった。


 母は、早朝から仕事へ行っている。


 介護職の母が、家では自分の母を介護している。


 それだけで疲れていることを、遥は知っていた。


 父は単身赴任で、月に一度帰ってくるかどうか。


 だから、平日の朝は遥が動く。


 朝食を温める。


 薬を確認する。


 ゴミを出す。


 祖母がデイサービスへ行く日なら、連絡帳を見る。


 玄関の鍵を確認する。


 ガスの元栓を見る。


 それから、学校へ行く。


 普通の朝。


 遥は、そう思うようにしていた。


 家族だから。


 できる人がやるしかない。


 母だけに任せるわけにはいかない。


 祖母は嫌いではない。


 むしろ、大切だった。


 小さい頃、遥に絵本を読んでくれた。


 風邪をひいた時、お粥を作ってくれた。


 母が仕事で遅い日、祖母の膝でテレビを見た。


 だから、今度は自分が支える番なのだと思っていた。


「遥ちゃん」


 祖母が居間から呼んだ。


「なに?」


「今日は何曜日?」


「火曜日」


「火曜日……病院の日?」


「違うよ。今日はデイサービス」


「病院じゃないの?」


「うん、デイ」


「そう……」


 少しして、また声がした。


「遥ちゃん、今日は何曜日?」


 遥は、鞄に教科書を入れる手を止めた。


 深く息を吸う。


「火曜日だよ」


「火曜日……病院の日?」


「違うってば」


 思ったより強い声が出た。


 祖母の部屋が静かになる。


 遥は、すぐに後悔した。


「ごめん」


 居間へ行くと、祖母は椅子に座って、少し不安そうな顔をしていた。


「私、何か間違えた?」


「ううん。ごめん。大丈夫」


 遥は笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


 時計を見る。


 遅刻しそうだった。


 靴を履く。


 玄関を出る前に、もう一度振り返る。


「薬、朝ごはんのあとね。デイの人が来るまで、外に出ないでね」


「はいはい」


「ガス使わないでね」


「わかってるよ」


 祖母は少しむっとしたように言った。


 遥は、また胸が痛んだ。


 家を出ると、朝の空気は冷たかった。


 駅へ向かって走る。


 鞄が肩に食い込む。


 寝不足の頭が、ぼんやりしている。


 昨夜も、祖母が夜中に起きて「財布がない」と言い出した。


 一緒に探したら、財布はいつもの引き出しにあった。


 祖母が落ち着くまで、遥は眠れなかった。


 授業中、まぶたが何度も落ちそうになった。


 数学の時間、ノートの上でシャープペンシルが止まる。


 黒板には式が並んでいる。


 先生の声は聞こえる。


 でも、意味が頭に入ってこない。


 隣の席の友人が小さく言った。


「遥、大丈夫?」


「大丈夫」


 遥は反射のように答えた。


 大丈夫。


 最近、その言葉ばかり使っている。


 大丈夫。


 少し眠いだけ。


 少し忙しいだけ。


 家のことだから。


 みんな何かしらあるから。


 自分だけ大変なわけじゃないから。


 昼休み、担任の牧野先生に呼ばれた。


 場所は、進路相談室の隣の小さな面談室だった。


 窓際の棚には、進路資料と行事予定のファイルが並んでいる。机の上には、出席簿と成績表が置かれていた。


 牧野先生は、少し心配そうに遥を見た。


「最近、遅刻が増えていますね」


「すみません」


「課題も、出ていないものがいくつかあります」


「出します」


「体調は大丈夫ですか」


「大丈夫です」


 また言った。


 牧野先生は、すぐには頷かなかった。


「眠れていないように見えます」


「そんなことないです」


「家庭で何かありますか」


 その問いに、遥は少し身を固くした。


 家庭。


 祖母のこと。


 母のこと。


 薬。


 デイサービス。


 夜中の財布探し。


 病院の付き添い。


 でも、それを学校で話すのは違う気がした。


 家族のことだ。


 家庭の中のことだ。


 先生に話しても、どうにもならない。


 それに、話したら母を責めているようになるかもしれない。


 祖母を迷惑だと言っているようになるかもしれない。


 遥は首を横に振った。


「別に、何もないです」


 牧野先生は、それ以上強く踏み込まなかった。


 家庭事情にどこまで聞いてよいのか、迷った。


 生徒の様子は明らかに変わっている。


 でも、踏み込みすぎれば傷つけるかもしれない。


 家庭の問題に学校が口を出すのは難しい。


 そう思いながら、牧野先生は面談を終えた。


「何かあれば、いつでも言ってください」


「はい」


 遥は立ち上がった。


 その時、面談室の入口に一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 家庭と学校の支援についての研修のために来ている先生だった。


 灯理は、遥の疲れた目と、牧野先生の迷いを静かに見ていた。


 放課後、牧野先生は灯理に相談した。


「遥の様子が気になります」


 職員室の隅の打ち合わせ机。


 窓の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえている。


「遅刻が増え、課題も出なくなっています。授業中も眠そうです。でも、本人は大丈夫だと言います」


「はい」


「家庭のことがあるのかもしれません。でも、どこまで聞いてよいのか……」


 牧野先生は、言葉を探した。


「家庭に踏み込むのは、慎重でなければいけないと思っています」


「そうですね」


「ただ、見ないふりをするのも違う気がします」


 灯理は頷いた。


「家庭で支えていることを、責めずに見える形にしてみませんか」


「責めずに」


「はい。誰が悪いかを探すのではなく、今その子がどんな役割を担っていて、それが生活にどう影響しているかを見る時間です」


 翌日の総合学習の時間、二年生は「家庭や生活の中で担っている役割」について考える授業を受けることになった。


 黒板には、灯理が書いた言葉がある。


『支えることと、背負いすぎること』


 生徒たちは、少しざわついた。


「家の手伝いの話?」


「家事とか?」


「めんどくさそう」


 遥は、机の上のワークシートを見た。


 そこには、いくつかの項目が並んでいた。


『家で自分が担っていること』

『それにかかる時間』

『学習への影響』

『睡眠への影響』

『友人関係への影響』

『家族だからできること』

『家族だけでは難しいこと』

『学校に伝えてよいサイン』

『地域や制度につなげられる支援』

『助けてと言う練習』


 遥は、最初の欄を見ただけで、胸がざわついた。


 家で自分が担っていること。


 そんなもの、書く必要があるのだろうか。


 家族のことなのに。


 みんなの前で話すのだろうか。


 灯理は言った。


「このワークシートは、無理に人に見せる必要はありません。書ける範囲でかまいません。誰かを責めるためのものでもありません」


 遥は、少しだけ息を吐いた。


「家の手伝いは、大切なことです。家族を思う気持ちも、支える力も、大切です」


 灯理は続けた。


「でも、その役割が、睡眠や学習や心に大きく影響しているなら、それは一人で抱えなくてよいことかもしれません」


 遥は、ペンを持った。


 書かないつもりだった。


 でも、空欄を見ていると、頭の中に朝の台所が浮かんだ。


 薬袋。


 炊飯器の湯気。


 祖母の声。


 何曜日?


 病院の日?


 遅刻しそうな時計。


 遥は、ゆっくり書き始めた。


『朝食の準備』

『薬の確認』

『デイサービスの連絡帳を見る』

『ゴミ出し』

『祖母の見守り』

『夜中に起きた時の対応』

『病院に付き添うことがある』

『母が帰るまで一緒にいる』


 書いてみると、多かった。


 自分では、ひとつひとつは大したことではないと思っていた。


 でも、並べると重さが見えた。


 次の欄。


『それにかかる時間』


 朝、三十分から四十分。


 夜、日による。


 病院の日は半日。


 夜中に起きた日は、眠れない。


『学習への影響』


 課題ができない。


 テスト勉強の時間が減る。


 授業中眠い。


『睡眠への影響』


 夜中に起こされる。


 朝早く起きる。


『友人関係への影響』


 放課後に遊べない。


 誘いを断る。


 返信が遅くなる。


 遥は、ペンを止めた。


 自分は、疲れているのかもしれない。


 そんな単純なことに、初めて文字で気づいた。


 牧野先生は、教室を回りながら生徒たちの様子を見ていた。


 家庭の役割は、それぞれ違う。


 夕食の皿洗い。


 弟の迎え。


 洗濯物をたたむ。


 ペットの世話。


 祖父母の話し相手。


 通訳。


 家計の節約。


 見守り。


 家族の機嫌を気にすること。


 その中には、学校からは見えない負担がいくつもあった。


 灯理は黒板に、二つの円を描いた。


『家族だからできること』

『家族だけでは難しいこと』


「支えることを、全部やめる必要はありません」


 灯理は言った。


「家族だからできることがあります。声をかける。そばにいる。好きな食べ物を知っている。安心できる言葉を知っている」


 左の円に書く。


『声をかける』

『好きなものを知っている』

『一緒に過ごす』

『小さな変化に気づく』


「でも、家族だけでは難しいこともあります」


 右の円に書く。


『薬の管理を一人で担う』

『夜間の対応が続く』

『通院の調整』

『専門的な介護』

『学校生活への影響』

『睡眠不足』

『孤立』


 遥は、その右の円を見つめた。


 薬の管理。


 夜間の対応。


 通院。


 睡眠不足。


 どれも、自分のことだった。


 でも、自分だけが特別に弱いからつらいのではない。


 家族だけでは難しいことなのだと、黒板に書かれている。


 授業の終わり、灯理は言った。


「助けてと言う練習をします」


 教室がざわついた。


「え、声に出すの?」


「恥ずかしい」


「助けてって言うほどじゃないし」


 灯理は頷いた。


「そう思う人も多いと思います。だから練習します。いきなり全部話す必要はありません。短い言葉からでかまいません」


 黒板に例を書く。


『最近、家のことで眠れていません』

『放課後に残れない理由があります』

『課題が遅れる時があります』

『家族の手伝いで疲れています』

『話してもいいですか』

『一人では難しいです』


 遥は、最後の一文から目を離せなかった。


 一人では難しいです。


 その言葉を、自分が言っていいのだろうか。


 授業後、牧野先生は遥に声をかけた。


「遥さん、少し話せますか」


 遥は、反射的に答えそうになった。


 大丈夫です。


 でも、今日はその言葉が喉で止まった。


 面談室に入る。


 机の上には、ワークシートが一枚置かれていた。


 灯理も同席した。


 牧野先生は、責めるような声ではなく言った。


「今日の授業で、何か書けたことはありますか。見せなくてもいいです」


 遥は、自分のワークシートを握った。


 しばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「祖母のことです」


 牧野先生は頷いた。


「おばあさまの介護を手伝っているのですね」


「介護ってほどじゃないです」


 遥はすぐに言った。


「薬を見たり、朝ごはん出したり、デイの準備したり、夜中に起きたら一緒に探したりするだけで」


 話しながら、自分の声が少し震えているのに気づいた。


「母の方が大変です。仕事もしてるし。私は、できることをしてるだけで」


 灯理が静かに言った。


「遥さん」


「はい」


「先生、家族なんだから手伝うのは普通ですよね」


 遥は、自分の中にあった言葉をそのまま言われたような気がした。


 唇を噛む。


「そう思ってます」


 灯理は、ゆっくり問いを返した。


「うん。では、普通という言葉で、君の疲れを見えなくしてもよいのでしょうか」


 遥は、何も言えなかった。


 普通。


 家族だから普通。


 みんなやっているから普通。


 自分が弱音を吐く方がおかしい。


 その言葉で、どれだけ自分の眠さや苛立ちを隠してきたのだろう。


 牧野先生は、遥のワークシートを見せてもらった。


 家で担っている役割が並んでいる。


 朝。


 夜。


 薬。


 見守り。


 通院。


 睡眠不足。


 牧野先生は、静かに言った。


「これは、学校生活に影響が出て当然の量です」


 遥は首を横に振った。


「でも、母も大変で」


「お母さんを責める話ではありません」


 牧野先生は言った。


「遥さんも、お母さんも、おばあさまも、支援につながる必要があるという話です」


 その言葉に、遥の目が少し熱くなった。


 誰かを責めたいわけではない。


 祖母を嫌いになりたいわけではない。


 母を困らせたいわけでもない。


 ただ、疲れている。


 ただ、眠い。


 ただ、時々優しくできない自分が嫌になる。


「私」


 遥は、手元を見ながら言った。


「祖母のことは嫌じゃないです」


「はい」


「でも、何回も同じこと聞かれると、イライラします。夜中に起こされると、またかって思います。朝、薬を確認してる時に時間がなくなると、なんで私ばっかりって思います」


 声が震えた。


「そのあと、すごく嫌になります。おばあちゃん、悪くないのに」


 牧野先生は、黙って聞いていた。


 灯理も、急かさなかった。


 遥は、ゆっくり言った。


「祖母のことは嫌じゃないです。でも、一人で全部できるほど強くないです」


 言葉にした瞬間、涙が落ちた。


 大丈夫ではなかった。


 初めて、自分でそう認めた。


 その日の夕方、牧野先生は学校のスクールソーシャルワーカーに相談した。


 家庭へ連絡する前に、遥の同意を確認した。


 遥は迷ったが、頷いた。


「母に怒られますか」


「怒らせるためではなく、支援につなぐために話します」


 牧野先生は言った。


「遥さん一人の問題ではありません」


 母との面談は、数日後に行われた。


 仕事帰りの母は、疲れた顔で学校へ来た。


 髪は少し乱れ、手にはスーパーの袋があった。


「すみません、仕事が長引いて」


「お忙しい中ありがとうございます」


 牧野先生は、丁寧に話を始めた。


 遥の遅刻。


 睡眠不足。


 課題の遅れ。


 家庭で担っている役割。


 母は最初、困ったように笑った。


「遥には助けてもらっています。でも、そんなに大げさなことでは」


 遥は、隣で手を握った。


 母の言葉は、自分がいつも言っていることと同じだった。


 大げさではない。


 家族だから。


 できる範囲で。


 でも、ワークシートに並んだ役割を見た時、母の表情が変わった。


 朝食。


 薬。


 デイサービス。


 夜中の対応。


 通院。


 課題ができない。


 眠れない。


 母は、ワークシートを見つめたまま動かなかった。


「こんなに……」


 声がかすれた。


「私、遥がここまで書くほどだと思っていませんでした」


 遥は慌てて言った。


「お母さんが悪いって言ってるんじゃない」


「うん」


「私も手伝いたかったし」


「うん」


「でも」


 その先が言えない。


 母は、遥の手を握った。


「ごめんね」


 遥は首を横に振った。


「謝ってほしいわけじゃない」


「うん」


 母の目にも涙が浮かんでいた。


「助けを借りよう」


 その言葉を、母が言った。


 家の中で、初めて聞いた言葉だった。


 その後、学校と家庭は支援につながった。


 スクールソーシャルワーカーが地域の相談窓口を紹介した。


 祖母の介護サービスの利用状況を見直した。


 薬管理は、訪問看護や薬局の一包化、確認カレンダーを使うことになった。


 デイサービスの日数も相談した。


 夜間の対応についても、母が一人で抱えず、支援者に相談することになった。


 遥の学校生活については、遅刻があった時に理由を確認し、必要な配慮をする。


 課題は提出方法を一部調整する。


 放課後に補習を短時間で受けられるようにする。


 何より、遥が困った時に牧野先生へ短いサインを出せるようにした。


『今日は家のことで眠れていません』

『課題の期限を相談したいです』

『話したいです』


 それだけでよい。


 全部説明しなくても、支援につながる入口になる。


 家の中も、少しずつ変わった。


 薬は、曜日ごとのケースに分けられた。


 母が夜に確認し、朝は遥が全部を背負わなくてもよくなった。


 デイサービスの連絡帳は、玄関横のボードに置くことになった。


 祖母の予定は、大きなカレンダーに書かれた。


 母は、仕事のシフトを少し調整した。


 父も、オンラインで介護相談に参加するようになった。


 すべてがすぐに楽になったわけではない。


 祖母は、今も同じことを何度も聞く。


 夜中に起きる日もある。


 遥が苛立つ日もある。


 母が疲れてため息をつく日もある。


 でも、「家族だから普通」で全部を飲み込む家ではなくなっていった。


 ある朝、遥は薬ケースを確認した。


 前よりわかりやすい。


 今日の朝の分は、母がすでに置いてくれていた。


 祖母が居間から言う。


「遥ちゃん、今日は何曜日?」


「木曜日」


「病院の日?」


「今日はデイだよ」


「そう」


 少しして、また聞かれた。


「今日は何曜日?」


 遥は、一度目を閉じた。


 まだイライラはする。


 でも、昨日より少し眠れている。


 今日は、急いで全部を一人で確認しなくてもいい。


「木曜日だよ。カレンダーにも書いてある」


 遥は、壁の大きなカレンダーを指した。


 祖母は、それを見て頷いた。


「ああ、デイの日」


「うん」


 祖母は、遥を見た。


「いつも悪いねえ」


 遥は、少し驚いた。


 祖母がそう言うことは珍しかった。


 今の祖母が、どこまでわかって言っているのかはわからない。


 でも、その言葉は確かに聞こえた。


「ううん」


 遥は、鞄を持った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 玄関を出る。


 空気は冷たい。


 でも、前ほど息苦しくはなかった。


 学校へ着くと、牧野先生が廊下で声をかけた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「眠れましたか」


「少し」


 遥は笑った。


「今日は、一時間目から出られます」


「よかったです」


 牧野先生は、それ以上聞きすぎなかった。


 でも、必要な時に声をかけられる距離にいる。


 それが、遥にはありがたかった。


 総合学習の振り返りで、遥は支援シートに向かった。


 そこには、以前のワークシートと同じ項目がある。


 でも、最後の欄が増えていた。


『これから大切にしたいこと』


 遥は、ペンを持った。


 祖母を大切にしたい。


 母を助けたい。


 でも、自分も眠りたい。


 友人と話したい。


 勉強も続けたい。


 苛立った自分を責めるだけで終わりたくない。


 家族を大切にすることと、自分を削り続けることは同じではない。


 遥は書いた。


『祖母を大切にしたい。だから、一人で抱えない』


 その一文を見て、少しだけ胸が軽くなった。


 放課後、灯理は教室の後ろで、遥が支援シートを鞄にしまうのを見ていた。


 牧野先生が隣に立つ。


「白瀬先生」


「はい」


「家庭に踏み込むことが怖かったです」


「はい」


「でも、踏み込むというより、扉の前で声をかけることなのかもしれませんね」


 灯理は頷いた。


「責めるためではなく、支援につなぐために」


「はい。遥さんも、お母さんも、おばあさまも、誰かが悪いわけではなかった。ただ、家の中だけでは難しいことが増えていた」


 牧野先生は、教室の窓の外を見た。


「学校が気づけるサインを、もっと持っていたいです。遅刻や課題の遅れを、単なる怠けと決めつけないで」


「はい」


「大丈夫と言う子の、大丈夫ではない部分を聞けるように」


 夕方、灯理は学校を出た。


 校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。廊下では、牧野先生がスクールソーシャルワーカーと次の支援会議の日程を確認していた。


 校門まで、遥が少しだけ見送りに来た。


「白瀬先生」


「はい」


「助けてって言うの、まだ苦手です」


「はい」


「でも、言ったら全部壊れるわけじゃないんだって思いました」


 灯理は静かに頷いた。


「言うことで、支え方を変えられることがありますね」


「はい」


 遥は、少し笑った。


「祖母のことは、嫌じゃないです」


「うん」


「でも、一人で全部やるのも違うって、今は思えます」


「はい」


 夜風が、校門の横の木を揺らした。


 遥は、小さく頭を下げて駅の方へ歩いていった。


 灯理は、鞄を肩にかけ直した。


 中には、小児病棟と病院内学級から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 支えることは、美しいことだけではない。


 薬袋を確認する朝。


 眠れない夜。


 繰り返される問いに苛立つ瞬間。


 優しくできなかった自分を責める時間。


 ありがとうを言う余裕も、言われる余裕もなくなる家。


 そこには、愛情だけでは支えきれない重さがある。


 家族だからできることがある。


 けれど、家族だけでは難しいこともある。


 助けを求めることは、家族を捨てることではない。


 大切にしたい関係を、壊さず続けるための道になることもある。


 灯理は、夕暮れの道を歩きながら、遥の支援シートに書かれた一文を思い出した。


 祖母を大切にしたい。だから、一人で抱えない。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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