表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
86/204

第18章 第1話:高齢者施設の授業――忘れていく名前


 真尋は、祖母に名前を間違えられた日のことを、まだ覚えている。


 病院の廊下は白く、消毒液の匂いがした。


 祖母はベッドの上で、薄い毛布を膝までかけていた。窓の外には、冬の午後の弱い光が差していて、カーテンの影が祖母の頬にゆっくり揺れていた。


 真尋が入っていくと、祖母は顔を上げた。


 そして、にこりと笑った。


「由美ちゃん、来てくれたの」


 由美は、真尋の母の名前だった。


 真尋は、その時、どう返せばいいかわからなかった。


 違うよ、と言えばよかったのか。


 真尋だよ、と笑えばよかったのか。


 でも、喉の奥が固くなって、声が出なかった。


 祖母は続けた。


「学校、どうだった?」


 それは、真尋に向けられた言葉のようでもあり、若い頃の母に向けられた言葉のようでもあった。


 真尋は、手に持っていたみかんの袋を強く握った。


 祖母は、真尋を見ている。


 でも、真尋を見ていない。


 そんな気がした。


 その日から、真尋は祖母に会いに行く回数が減った。


 母は言った。


「おばあちゃん、喜ぶから顔だけでも見せてあげて」


 真尋は頷いた。


 でも、行かなかった。


 名前を忘れられるくらいなら、会わない方がいいと思った。


 自分がそこにいても、祖母の中にはいないのなら、意味がない気がした。


 その記憶を抱えたまま、真尋は今、高齢者施設の玄関に立っていた。


 中学二年の総合学習。


 地域交流活動として、クラスで高齢者施設を訪問することになった。


 施設の名前は「陽だまりの丘」。


 入り口には季節の花が植えられ、ガラス扉の向こうには明るいロビーが見える。中からは、温かいお茶の匂いと、誰かが弾いているらしい古い歌のメロディが聞こえてきた。


 クラスメイトたちは、少し緊張しながらも賑やかだった。


「何話せばいいんだろう」


「折り紙やるんだっけ」


「歌も歌うって先生言ってた」


「お年寄りって、耳遠い人多いのかな」


 真尋は、列の後ろで黙っていた。


 施設訪問なんて、できれば行きたくなかった。


 知らない高齢者と話すことも不安だった。


 もし名前を何度も間違えられたら。


 もし同じ話を何度も聞かされたら。


 もし、またあの時のように、自分がそこにいない気持ちになったら。


 引率の教師が扉を開ける。


「みんな、挨拶をしっかりね」


 生徒たちは中へ入った。


 ロビーは思ったより明るかった。


 大きな窓から光が入り、床にはやわらかな色のマットが敷かれている。壁には、利用者が作ったらしい折り紙の花や、季節の絵が飾られていた。


 テーブルでは、数人の高齢者がお茶を飲んでいる。


 車椅子に座っている人。


 職員と話している人。


 目を閉じて音楽を聞いている人。


 同じ場所にいても、それぞれの時間が少しずつ違うように流れていた。


 施設職員の尾崎さんが、生徒たちの前に立った。


「今日は来てくれてありがとうございます。みなさんには、利用者さんとお話をしたり、一緒に折り紙をしたり、歌を歌ったりしてもらいます」


 尾崎さんは、優しそうな声の人だった。


 ただ、説明を始めると、少し言葉が硬くなった。


「この施設には、認知症のある方もいます。認知症というのは、記憶や判断力などに変化が出る病気です。同じ話を繰り返したり、名前を覚えられなかったりすることがあります。でも、怒ったり否定したりしないでください」


 生徒たちは真剣に聞いていた。


 真尋は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


 名前を覚えられない。


 同じ話を繰り返す。


 説明として聞けば、そういう症状なのだとわかる。


 でも、実際に名前を間違えられた時の痛みは、説明だけでは消えなかった。


 その時、ロビーの奥から一人の先生が歩いてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 今回の地域交流授業に助言者として参加している先生だった。


 灯理は、生徒たちの顔を一人ひとり見るようにゆっくり視線を動かした。


 そして、尾崎さんの隣に立った。


「今日は、覚えてもらうことを目標にしなくてもいいと思います」


 生徒たちは、少し驚いたように灯理を見た。


 尾崎さんも、目を瞬かせる。


 灯理は続けた。


「名前を覚えてもらうこと。話した内容を覚えてもらうこと。それは嬉しいことです。でも、今日の時間では、それだけを目標にしません」


 ロビーの空気が静かになる。


「その時、相手が安心しているか。楽しそうか。手が動いているか。表情がやわらいだか。繰り返される話の中に、どんな気持ちがあるのか。そういうことも、一緒に見てみましょう」


 真尋は、灯理の言葉を聞きながら、祖母の顔を思い出していた。


 由美ちゃん。


 あの時、祖母は自分の名前を間違えた。


 でも、笑っていた。


 学校はどうだった、と聞いた。


 あれは、誰に向けられた言葉だったのだろう。


 生徒たちは数人ずつに分かれ、利用者と交流することになった。


 真尋の班は、ロビーの窓際のテーブルに案内された。


 そこに座っていたのは、佐和さんという女性だった。


 白い髪を後ろでまとめ、薄紫色のカーディガンを羽織っている。膝には、小さなひざ掛けがかけられていた。テーブルの上には、古い裁縫箱が置かれている。


 尾崎さんが紹介した。


「佐和さん、今日は中学生のみなさんが来てくれましたよ」


 佐和さんは、ゆっくり顔を上げた。


「あらあら、若い人がたくさん」


 目尻に深い皺が寄る。


 真尋の班の生徒たちは、順番に名乗った。


「二年三組の真尋です」


 真尋は、少し小さな声で言った。


 佐和さんは、にこにこと頷いた。


「まひろちゃん」


 その時は、合っていた。


 真尋は、少しだけほっとした。


 班の生徒たちは、折り紙や写真カードを広げた。


 佐和さんは、昔の町の写真を見ると、急に目を細めた。


「ああ、ここね。昔は魚屋さんがあってね」


 写真には、古い商店街が写っていた。


「朝になると、氷の上に魚が並んでね。うちの母がよく買いに行ったの。私は小さくてね、魚の目が怖くて、母の後ろに隠れていたのよ」


 佐和さんは楽しそうに話した。


 生徒たちは頷きながら聞く。


 少し経つと、佐和さんはまた同じ写真を指した。


「ああ、ここね。昔は魚屋さんがあってね」


 さっきと同じ話だった。


 班の一人が、少し戸惑った顔をした。


 真尋も、どう反応すればいいかわからなかった。


 尾崎さんが近くに来て、小さな声で言った。


「否定しなくていいですよ。初めて聞くように受け止めてください」


 真尋は頷いた。


 佐和さんは続ける。


「氷の上に魚が並んでね。目がぎょろっとしていて、怖かったの」


 真尋は、さっきと同じ話を聞きながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。


 祖母も、同じ話を繰り返すようになった。


 昔の近所の話。


 母が子どもだった頃の話。


 同じ場面を何度も話す。


 そのたび、真尋は思っていた。


 また同じ話だ。


 もう聞いた。


 どうして覚えていないの。


 佐和さんが、真尋を見る。


「あなた、お名前は?」


 真尋の体が少し強ばった。


「真尋です」


「あら、真由ちゃん?」


「真尋です」


「そう、真由ちゃん」


 違う。


 真尋は、口を結んだ。


 祖母に由美と呼ばれた日の記憶が、胸の奥からふっと浮かび上がる。


 まただ。


 名前が違う。


 自分が消えていく。


 佐和さんは悪くない。


 それはわかる。


 でも、痛いものは痛かった。


「先生」


 真尋は、近くにいた灯理に小さく声をかけた。


「はい」


「名前も覚えてもらえないなら、会いに行く意味ありますか」


 言った瞬間、目の奥が熱くなった。


 これは佐和さんのことだけではない。


 祖母のことだった。


 真尋自身の痛みだった。


 灯理は、すぐに否定しなかった。


 そして、静かに言った。


「うん。では、人との関係は、名前を正しく覚えていることだけでできているのでしょうか」


 真尋は、何も言えなかった。


 名前を覚えてほしい。


 それは当然だと思っていた。


 自分が誰なのかを、相手にわかってほしい。


 でも、関係は名前だけでできているのか。


 そう聞かれると、答えがすぐには出なかった。


 灯理は、佐和さんの方を見た。


「少し、別の見方をしてみましょう」


 灯理は、テーブルの上に観察カードを置いた。


 そこには、いくつかの項目があった。


『覚えていたこと』

『繰り返した話』

『その話にある気持ち』

『表情』

『手の動き』

『安心していた場面』

『一緒に過ごした時間』

『覚えているかではなく、何が残ったか』


 真尋は、カードを見つめた。


 覚えているかではなく、何が残ったか。


 灯理は言った。


「同じ話を繰り返す時、その内容だけを見ると『また同じ』になります。でも、その話の中に、その人が大切にしている気持ちが残っていることがあります」


 佐和さんは、また写真を指している。


「魚の目が怖くてね。母の後ろに隠れていたの」


 真尋は、その言葉を聞いた。


 魚の目が怖い。


 母の後ろに隠れる。


 佐和さんは、その時の自分を何度も話している。


 怖かったこと。


 母の後ろに隠れたこと。


 それは、もしかすると安心した記憶なのかもしれない。


 真尋は、観察カードに書いた。


『魚屋の話』

『怖かった』

『母の後ろに隠れた』

『安心したのかもしれない』


 佐和さんは、裁縫箱を開けた。


 中には、色とりどりの糸、針山、小さなはさみ、古いボタンが入っている。


「あら、糸がからまってる」


 佐和さんは、細い指で糸をほどこうとした。


 尾崎さんが言った。


「佐和さん、昔はお裁縫が得意だったんですよ」


「得意なんて」


 佐和さんは笑った。


「子どもの服を直してばかりだったわ。膝に穴をあけて帰ってくるから」


 その言葉も、しばらくしてまた繰り返された。


「子どもの服を直してばかりだったわ」


 真尋は、観察カードに書く。


『服を直す話』

『世話をしていた』

『誰かを気にかける気持ち』


 その時、佐和さんの視線が真尋の制服の袖に止まった。


 真尋は気づいていなかったが、袖口の内側から細い糸が出ていた。


 佐和さんは、少し身を乗り出した。


「あら、糸が出ているわ」


 真尋は、自分の袖を見る。


「あ、本当だ」


「引っぱっちゃだめよ。余計ほつれるから」


 佐和さんは、裁縫箱から小さなはさみを取り出そうとした。


 尾崎さんが慌ててそっと手を添える。


「佐和さん、こちらで切りましょうか」


「いいのよ、ちょっとだから」


 佐和さんは、真尋の袖をそっと持った。


 指先は少し震えていた。


 でも、その動きは驚くほど丁寧だった。


 袖口の糸を見つめ、布を傷つけないように、慎重に余分な糸を切る。


 真尋は、動けなかった。


 佐和さんは、真尋の名前を覚えていない。


 真由ちゃんと呼んだ。


 次に話しかける時には、また別の名前になるかもしれない。


 でも今、佐和さんは真尋の袖のほつれを見つけて、直そうとしている。


 寒くないか。


 糸が出ている。


 引っぱってはいけない。


 誰かを気遣う手つきが、そこにあった。


 佐和さんは、糸を切ると満足そうに頷いた。


「これで大丈夫」


 真尋は、袖口を見た。


 小さなほつれがなくなっている。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。


 佐和さんは、にこりと笑った。


「いいのよ、真由ちゃん」


 名前は違った。


 でも、手はやさしかった。


 真尋は、観察カードに書こうとして、しばらくペンを止めた。


 何を書けばいいのかわからない。


 やがて、ゆっくり書いた。


『名前は違った。でも、手はやさしかった』


 書いた瞬間、胸の奥にあった硬いものが少し揺れた。


 施設訪問の後半、生徒たちは利用者と一緒に歌を歌った。


 古い童謡だった。


 歌詞カードを見ながら、生徒たちは最初ぎこちなく歌った。


 佐和さんは、歌詞カードをほとんど見ずに口ずさんでいた。


 時々、言葉は曖昧になる。


 でも、メロディは残っている。


 手拍子も、ゆっくり合っていた。


 真尋は隣で歌いながら、祖母のことを思い出した。


 祖母も、昔の歌はよく覚えていた。


 真尋の名前は間違えても、子守歌の旋律は口からこぼれた。


 あれを、真尋はちゃんと聞いていただろうか。


 名前を間違えられた痛みだけで、他のものを全部閉じてしまっていたのかもしれない。


 歌が終わると、佐和さんは真尋の手を軽く叩いた。


「上手ねえ」


「そんなことないです」


「若い人の声はいいわ」


 佐和さんは、また真尋の名前を聞いた。


「あなた、お名前は?」


「真尋です」


「まひろちゃん」


 今度は合っていた。


 でも、合っていたことだけが嬉しいのではなかった。


 名前が合っても、間違っても、その時間の中に何かが残ることを、真尋は少し感じ始めていた。


 交流の最後に、生徒たちは記録カードを書くことになった。


 尾崎さんは、以前なら「認知症の方と接する時の注意点」をまとめさせるつもりだった。


 けれど、灯理と話して、項目を変えた。


『今日、一緒に過ごした場面』

『相手が安心していたように見えた瞬間』

『繰り返された話にあった気持ち』

『自分が感じたこと』

『覚えているか以外に残ったもの』


 真尋は、ペンを持った。


 すぐに書き出せなかった。


 佐和さんの声。


 魚屋の話。


 母の後ろに隠れた小さな佐和さん。


 裁縫箱。


 袖口に触れた指。


 古い歌。


 真由ちゃん。


 まひろちゃん。


 名前は揺れていた。


 でも、時間は空っぽではなかった。


 真尋は書いた。


『佐和さんは、私の名前を間違えた。でも、制服の糸に気づいてくれた。何度も同じ話をしたけれど、その話の中には怖かった気持ちと、お母さんの後ろに隠れて安心した記憶があった。名前を正しく覚えていることだけが関係ではないのかもしれない。』


 最後に、少し迷ってから一文を書いた。


『名前は違った。でも、手はやさしかった。』


 カードを書き終えると、真尋はしばらくその一文を見つめていた。


 施設訪問が終わり、生徒たちは玄関に集まった。


 利用者たちが見送りに来てくれる。


 佐和さんも、車椅子に座って手を振っていた。


「また来てね」


 真尋は、少しだけ前に出た。


「はい。また来ます」


 佐和さんは、真尋を見て首をかしげた。


「ええと……」


 名前は出てこなかった。


 真尋の胸は、少しだけ痛んだ。


 でも、前ほどではなかった。


「真尋です」


「まひろちゃん」


 佐和さんは笑った。


「袖、引っぱっちゃだめよ」


 真尋は、思わず笑った。


「はい」


 名前より先に、袖のほつれを覚えているのかもしれない。


 それとも、今見てまた気づいただけかもしれない。


 どちらでもよかった。


 そこには、真尋を気にかける一瞬があった。


 帰り道、クラスメイトたちは施設での出来事を話していた。


「同じ話、三回くらい聞いた」


「でも、だんだんその話好きになってきた」


「歌、めっちゃ覚えてたね」


「手、あったかかった」


 真尋は、少し後ろを歩きながら、スマートフォンを取り出した。


 母からメッセージが来ていた。


『今日、おばあちゃんのところ寄れそう?無理ならいいよ』


 真尋は、画面を見つめた。


 いつもなら、用事があると返していた。


 今日は、指が少し止まった後、短く打った。


『行く』


 送信する。


 すぐに母から返事が来た。


『ありがとう。きっと喜ぶよ』


 喜ぶ。


 祖母は、自分の名前を間違えるかもしれない。


 また母の名前で呼ぶかもしれない。


 何度も同じ話をするかもしれない。


 でも、それでも会いに行けるだろうか。


 真尋は、自分の制服の袖口を見た。


 佐和さんが切ってくれた糸の跡は、もうほとんどわからない。


 でも、触れられた感覚は残っていた。


 その日の夕方、真尋は母と一緒に祖母のいる施設を訪ねた。


 廊下には、やはり消毒液の匂いがする。


 祖母の部屋の前で、真尋は少し立ち止まった。


 母が小さく言う。


「無理しなくていいよ」


「大丈夫」


 大丈夫と言いながら、胸は少し苦しかった。


 でも、逃げたいだけではなかった。


 扉を開ける。


 祖母は、椅子に座って窓の外を見ていた。


 母が声をかける。


「お母さん、来たよ」


 祖母が振り返る。


 真尋を見る。


 少し目を細める。


「あら、由美ちゃん」


 やっぱり、と思った。


 胸が痛む。


 でも、真尋はその場に立ったまま、ゆっくり息を吸った。


「真尋だよ」


 祖母は、少し不思議そうに瞬きをした。


「まひろ」


「うん」


「大きくなったねえ」


 それは、今の真尋に向けられた言葉なのか、幼い頃の誰かに向けられた言葉なのか、わからなかった。


 それでも、祖母は真尋の手を取った。


 祖母の手は、以前より細くなっていた。


 でも、温かかった。


「寒くない?」


 祖母が聞いた。


 真尋は、手を握り返した。


「寒くないよ」


「学校、どうだった?」


 その質問は、前と同じだった。


 でも、今日は少し違って聞こえた。


 祖母は、名前を間違えた。


 でも、学校を気にしている。


 寒くないかと聞いている。


 真尋の中で、痛みと温かさが同じ場所に並んだ。


「今日、高齢者施設に行った」


「そう」


「佐和さんっていう人に会った」


「いい人だった?」


「うん。制服の糸、切ってくれた」


 祖母は、話の意味をどこまでわかっているのかわからない。


 でも、真尋の手をさすりながら頷いた。


「よかったねえ」


 真尋は、祖母の手を見る。


 昔、この手が自分のおにぎりを作ってくれた。


 転んだ時、膝を拭いてくれた。


 浴衣の帯を結んでくれた。


 名前を忘れても、その手がしてきたことは、全部消えるわけではないのかもしれない。


 真尋は、祖母の隣に座った。


 窓の外は、夕方の光で薄く赤くなっている。


 祖母は、同じ話を始めた。


 母が子どもだった頃、雨の日に傘を忘れて帰ってきた話。


 真尋は、それを聞いたことがある。


 何度もある。


 でも今日は、話の内容だけでなく、祖母の表情を見た。


 困ったように笑う顔。


 少し嬉しそうな目。


 雨に濡れた子どもを拭いてやった時の、心配と愛しさ。


 同じ話の中に、同じ気持ちが残っている。


 真尋は、相槌を打った。


「それで、おばあちゃんはどうしたの?」


 祖母は、少し得意そうに笑った。


「タオルで拭いて、甘いお茶を入れてやったの」


 真尋は頷いた。


「そっか」


 祖母は、真尋の名前をまた間違えるかもしれない。


 明日には、今日来たことを忘れているかもしれない。


 でも、今日のこの時間に、手は温かかった。


 声はそこにあった。


 真尋は、そのことを覚えていようと思った。


 数日後、学校で施設訪問の振り返り授業が行われた。


 尾崎さんも来てくれた。


 生徒たちは記録カードをもとに、自分が感じたことを話した。


「同じ話を聞くのが最初は困ったけど、その話がその人にとって大事なんだと思った」


「名前を覚えてもらえなかったけど、歌を一緒に歌った時に笑ってくれた」


「昔の写真を見た時、手がすごく動いていて、話すより先に体が覚えてるみたいだった」


 尾崎さんは、生徒たちの言葉を聞きながら、静かに頷いていた。


 以前は、認知症について正しく説明することが大切だと思っていた。


 もちろん、それは必要だ。


 症状を知ること。


 対応を学ぶこと。


 否定しないこと。


 驚かせないこと。


 安全を守ること。


 でも、それだけでは、生徒たちの心には届ききらない。


 実際に向き合い、戸惑い、痛みを感じ、手の温度や表情を受け取る中で、初めてわかることがある。


 尾崎さんは言った。


「みなさんの記録を読んで、私も教えられました」


 生徒たちが顔を上げる。


「私たち職員は、利用者さんの状態や症状を説明することに慣れています。でも、今日のみなさんは、その方がその瞬間に何を感じているかを見ようとしてくれました」


 尾崎さんは、真尋のカードを手に持った。


 名前は出さずに、一文を読んだ。


「名前は違った。でも、手はやさしかった」


 教室が静かになった。


 真尋は、少しうつむいた。


 でも、嫌ではなかった。


 尾崎さんは続けた。


「忘れていくことはあります。でも、全部が同じように消えるわけではありません。手の動き、歌、匂い、気遣い、安心した表情。その人の中に残っているものを、一緒に探す関わりを、私たちも大切にしたいと思います」


 灯理は、教室の後ろで静かに聞いていた。


 授業の終わり、真尋は新しいカードに祖母のことを書いた。


『おばあちゃんは、私を母の名前で呼ぶことがある。前は、それがつらくて会いに行けなかった。今もつらくないわけじゃない。でも、手を握って寒くないか聞いてくれた。同じ話の中に、誰かを心配する気持ちが残っていた。名前を覚えてもらうためだけじゃなく、一緒にいる時間を作るために、また会いに行こうと思う。』


 最後に、佐和さんの時と同じように、一文を書いた。


『名前は揺れても、手の温度は残った。』


 放課後、真尋は灯理に声をかけた。


「白瀬先生」


「はい」


「名前を間違えられるのが、平気になったわけじゃないです」


「はい」


「やっぱり少し痛いです」


「うん」


「でも、それだけじゃないって思えました」


 灯理は、静かに頷いた。


「痛みが消えなくても、別のものが一緒に見えることがありますね」


「はい」


 真尋は、自分の袖口に触れた。


「佐和さん、次に会っても私の名前を覚えてないかもしれません」


「そうかもしれません」


「でも、また行ってもいいかなって思います」


「はい」


「おばあちゃんにも」


 真尋は、少しだけ笑った。


「今度、昔の歌を持っていってみます」


 灯理も微笑んだ。


「よい時間になるといいですね」


 夕方、灯理は学校を出た。


 校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。教室では、真尋が施設訪問の記録カードを鞄にしまっていた。


 校門まで、尾崎さんが見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、忘れても残るものを一緒に見せていただきました」


 尾崎さんは、手にした生徒たちの記録を見た。


「認知症を理解してもらおうとして、私は説明に力を入れすぎていたのかもしれません」


「説明も大切ですね」


「はい。でも、説明だけでは、名前を忘れられた痛みや、それでも残る気遣いまでは届かない」


 尾崎さんは、静かに息を吐いた。


「生徒たちが見てくれた表情や手の動きを、私たち職員も改めて見直したいです」


 灯理は頷いた。


「記憶は、正確な情報だけではないのだと思います」


「はい。関係や感情の痕跡も、そこにあるのですね」


 夜風が、校門の横の木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、家族介護についての相談が書かれた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 人は、忘れていく。


 名前を。


 日付を。


 約束を。


 何度も聞いた話を、また初めてのように語ることがある。


 そのたびに、そばにいる人は傷つく。


 自分が相手の中から消えていくように感じる。


 その痛みは、簡単には消えない。


 けれど、記憶は正しい名前だけでできているわけではない。


 手が覚えていること。


 歌が運ぶ時間。


 同じ話に残る寂しさや安心。


 寒くないかと聞く声。


 ほつれた糸に気づく指先。


 その瞬間に生まれる関係。


 灯理は、夕暮れの道を歩きながら、真尋のカードに書かれた一文を思い出した。


 名前は違った。でも、手はやさしかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ