第18章 第1話:高齢者施設の授業――忘れていく名前
真尋は、祖母に名前を間違えられた日のことを、まだ覚えている。
病院の廊下は白く、消毒液の匂いがした。
祖母はベッドの上で、薄い毛布を膝までかけていた。窓の外には、冬の午後の弱い光が差していて、カーテンの影が祖母の頬にゆっくり揺れていた。
真尋が入っていくと、祖母は顔を上げた。
そして、にこりと笑った。
「由美ちゃん、来てくれたの」
由美は、真尋の母の名前だった。
真尋は、その時、どう返せばいいかわからなかった。
違うよ、と言えばよかったのか。
真尋だよ、と笑えばよかったのか。
でも、喉の奥が固くなって、声が出なかった。
祖母は続けた。
「学校、どうだった?」
それは、真尋に向けられた言葉のようでもあり、若い頃の母に向けられた言葉のようでもあった。
真尋は、手に持っていたみかんの袋を強く握った。
祖母は、真尋を見ている。
でも、真尋を見ていない。
そんな気がした。
その日から、真尋は祖母に会いに行く回数が減った。
母は言った。
「おばあちゃん、喜ぶから顔だけでも見せてあげて」
真尋は頷いた。
でも、行かなかった。
名前を忘れられるくらいなら、会わない方がいいと思った。
自分がそこにいても、祖母の中にはいないのなら、意味がない気がした。
その記憶を抱えたまま、真尋は今、高齢者施設の玄関に立っていた。
中学二年の総合学習。
地域交流活動として、クラスで高齢者施設を訪問することになった。
施設の名前は「陽だまりの丘」。
入り口には季節の花が植えられ、ガラス扉の向こうには明るいロビーが見える。中からは、温かいお茶の匂いと、誰かが弾いているらしい古い歌のメロディが聞こえてきた。
クラスメイトたちは、少し緊張しながらも賑やかだった。
「何話せばいいんだろう」
「折り紙やるんだっけ」
「歌も歌うって先生言ってた」
「お年寄りって、耳遠い人多いのかな」
真尋は、列の後ろで黙っていた。
施設訪問なんて、できれば行きたくなかった。
知らない高齢者と話すことも不安だった。
もし名前を何度も間違えられたら。
もし同じ話を何度も聞かされたら。
もし、またあの時のように、自分がそこにいない気持ちになったら。
引率の教師が扉を開ける。
「みんな、挨拶をしっかりね」
生徒たちは中へ入った。
ロビーは思ったより明るかった。
大きな窓から光が入り、床にはやわらかな色のマットが敷かれている。壁には、利用者が作ったらしい折り紙の花や、季節の絵が飾られていた。
テーブルでは、数人の高齢者がお茶を飲んでいる。
車椅子に座っている人。
職員と話している人。
目を閉じて音楽を聞いている人。
同じ場所にいても、それぞれの時間が少しずつ違うように流れていた。
施設職員の尾崎さんが、生徒たちの前に立った。
「今日は来てくれてありがとうございます。みなさんには、利用者さんとお話をしたり、一緒に折り紙をしたり、歌を歌ったりしてもらいます」
尾崎さんは、優しそうな声の人だった。
ただ、説明を始めると、少し言葉が硬くなった。
「この施設には、認知症のある方もいます。認知症というのは、記憶や判断力などに変化が出る病気です。同じ話を繰り返したり、名前を覚えられなかったりすることがあります。でも、怒ったり否定したりしないでください」
生徒たちは真剣に聞いていた。
真尋は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
名前を覚えられない。
同じ話を繰り返す。
説明として聞けば、そういう症状なのだとわかる。
でも、実際に名前を間違えられた時の痛みは、説明だけでは消えなかった。
その時、ロビーの奥から一人の先生が歩いてきた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
今回の地域交流授業に助言者として参加している先生だった。
灯理は、生徒たちの顔を一人ひとり見るようにゆっくり視線を動かした。
そして、尾崎さんの隣に立った。
「今日は、覚えてもらうことを目標にしなくてもいいと思います」
生徒たちは、少し驚いたように灯理を見た。
尾崎さんも、目を瞬かせる。
灯理は続けた。
「名前を覚えてもらうこと。話した内容を覚えてもらうこと。それは嬉しいことです。でも、今日の時間では、それだけを目標にしません」
ロビーの空気が静かになる。
「その時、相手が安心しているか。楽しそうか。手が動いているか。表情がやわらいだか。繰り返される話の中に、どんな気持ちがあるのか。そういうことも、一緒に見てみましょう」
真尋は、灯理の言葉を聞きながら、祖母の顔を思い出していた。
由美ちゃん。
あの時、祖母は自分の名前を間違えた。
でも、笑っていた。
学校はどうだった、と聞いた。
あれは、誰に向けられた言葉だったのだろう。
生徒たちは数人ずつに分かれ、利用者と交流することになった。
真尋の班は、ロビーの窓際のテーブルに案内された。
そこに座っていたのは、佐和さんという女性だった。
白い髪を後ろでまとめ、薄紫色のカーディガンを羽織っている。膝には、小さなひざ掛けがかけられていた。テーブルの上には、古い裁縫箱が置かれている。
尾崎さんが紹介した。
「佐和さん、今日は中学生のみなさんが来てくれましたよ」
佐和さんは、ゆっくり顔を上げた。
「あらあら、若い人がたくさん」
目尻に深い皺が寄る。
真尋の班の生徒たちは、順番に名乗った。
「二年三組の真尋です」
真尋は、少し小さな声で言った。
佐和さんは、にこにこと頷いた。
「まひろちゃん」
その時は、合っていた。
真尋は、少しだけほっとした。
班の生徒たちは、折り紙や写真カードを広げた。
佐和さんは、昔の町の写真を見ると、急に目を細めた。
「ああ、ここね。昔は魚屋さんがあってね」
写真には、古い商店街が写っていた。
「朝になると、氷の上に魚が並んでね。うちの母がよく買いに行ったの。私は小さくてね、魚の目が怖くて、母の後ろに隠れていたのよ」
佐和さんは楽しそうに話した。
生徒たちは頷きながら聞く。
少し経つと、佐和さんはまた同じ写真を指した。
「ああ、ここね。昔は魚屋さんがあってね」
さっきと同じ話だった。
班の一人が、少し戸惑った顔をした。
真尋も、どう反応すればいいかわからなかった。
尾崎さんが近くに来て、小さな声で言った。
「否定しなくていいですよ。初めて聞くように受け止めてください」
真尋は頷いた。
佐和さんは続ける。
「氷の上に魚が並んでね。目がぎょろっとしていて、怖かったの」
真尋は、さっきと同じ話を聞きながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
祖母も、同じ話を繰り返すようになった。
昔の近所の話。
母が子どもだった頃の話。
同じ場面を何度も話す。
そのたび、真尋は思っていた。
また同じ話だ。
もう聞いた。
どうして覚えていないの。
佐和さんが、真尋を見る。
「あなた、お名前は?」
真尋の体が少し強ばった。
「真尋です」
「あら、真由ちゃん?」
「真尋です」
「そう、真由ちゃん」
違う。
真尋は、口を結んだ。
祖母に由美と呼ばれた日の記憶が、胸の奥からふっと浮かび上がる。
まただ。
名前が違う。
自分が消えていく。
佐和さんは悪くない。
それはわかる。
でも、痛いものは痛かった。
「先生」
真尋は、近くにいた灯理に小さく声をかけた。
「はい」
「名前も覚えてもらえないなら、会いに行く意味ありますか」
言った瞬間、目の奥が熱くなった。
これは佐和さんのことだけではない。
祖母のことだった。
真尋自身の痛みだった。
灯理は、すぐに否定しなかった。
そして、静かに言った。
「うん。では、人との関係は、名前を正しく覚えていることだけでできているのでしょうか」
真尋は、何も言えなかった。
名前を覚えてほしい。
それは当然だと思っていた。
自分が誰なのかを、相手にわかってほしい。
でも、関係は名前だけでできているのか。
そう聞かれると、答えがすぐには出なかった。
灯理は、佐和さんの方を見た。
「少し、別の見方をしてみましょう」
灯理は、テーブルの上に観察カードを置いた。
そこには、いくつかの項目があった。
『覚えていたこと』
『繰り返した話』
『その話にある気持ち』
『表情』
『手の動き』
『安心していた場面』
『一緒に過ごした時間』
『覚えているかではなく、何が残ったか』
真尋は、カードを見つめた。
覚えているかではなく、何が残ったか。
灯理は言った。
「同じ話を繰り返す時、その内容だけを見ると『また同じ』になります。でも、その話の中に、その人が大切にしている気持ちが残っていることがあります」
佐和さんは、また写真を指している。
「魚の目が怖くてね。母の後ろに隠れていたの」
真尋は、その言葉を聞いた。
魚の目が怖い。
母の後ろに隠れる。
佐和さんは、その時の自分を何度も話している。
怖かったこと。
母の後ろに隠れたこと。
それは、もしかすると安心した記憶なのかもしれない。
真尋は、観察カードに書いた。
『魚屋の話』
『怖かった』
『母の後ろに隠れた』
『安心したのかもしれない』
佐和さんは、裁縫箱を開けた。
中には、色とりどりの糸、針山、小さなはさみ、古いボタンが入っている。
「あら、糸がからまってる」
佐和さんは、細い指で糸をほどこうとした。
尾崎さんが言った。
「佐和さん、昔はお裁縫が得意だったんですよ」
「得意なんて」
佐和さんは笑った。
「子どもの服を直してばかりだったわ。膝に穴をあけて帰ってくるから」
その言葉も、しばらくしてまた繰り返された。
「子どもの服を直してばかりだったわ」
真尋は、観察カードに書く。
『服を直す話』
『世話をしていた』
『誰かを気にかける気持ち』
その時、佐和さんの視線が真尋の制服の袖に止まった。
真尋は気づいていなかったが、袖口の内側から細い糸が出ていた。
佐和さんは、少し身を乗り出した。
「あら、糸が出ているわ」
真尋は、自分の袖を見る。
「あ、本当だ」
「引っぱっちゃだめよ。余計ほつれるから」
佐和さんは、裁縫箱から小さなはさみを取り出そうとした。
尾崎さんが慌ててそっと手を添える。
「佐和さん、こちらで切りましょうか」
「いいのよ、ちょっとだから」
佐和さんは、真尋の袖をそっと持った。
指先は少し震えていた。
でも、その動きは驚くほど丁寧だった。
袖口の糸を見つめ、布を傷つけないように、慎重に余分な糸を切る。
真尋は、動けなかった。
佐和さんは、真尋の名前を覚えていない。
真由ちゃんと呼んだ。
次に話しかける時には、また別の名前になるかもしれない。
でも今、佐和さんは真尋の袖のほつれを見つけて、直そうとしている。
寒くないか。
糸が出ている。
引っぱってはいけない。
誰かを気遣う手つきが、そこにあった。
佐和さんは、糸を切ると満足そうに頷いた。
「これで大丈夫」
真尋は、袖口を見た。
小さなほつれがなくなっている。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
佐和さんは、にこりと笑った。
「いいのよ、真由ちゃん」
名前は違った。
でも、手はやさしかった。
真尋は、観察カードに書こうとして、しばらくペンを止めた。
何を書けばいいのかわからない。
やがて、ゆっくり書いた。
『名前は違った。でも、手はやさしかった』
書いた瞬間、胸の奥にあった硬いものが少し揺れた。
施設訪問の後半、生徒たちは利用者と一緒に歌を歌った。
古い童謡だった。
歌詞カードを見ながら、生徒たちは最初ぎこちなく歌った。
佐和さんは、歌詞カードをほとんど見ずに口ずさんでいた。
時々、言葉は曖昧になる。
でも、メロディは残っている。
手拍子も、ゆっくり合っていた。
真尋は隣で歌いながら、祖母のことを思い出した。
祖母も、昔の歌はよく覚えていた。
真尋の名前は間違えても、子守歌の旋律は口からこぼれた。
あれを、真尋はちゃんと聞いていただろうか。
名前を間違えられた痛みだけで、他のものを全部閉じてしまっていたのかもしれない。
歌が終わると、佐和さんは真尋の手を軽く叩いた。
「上手ねえ」
「そんなことないです」
「若い人の声はいいわ」
佐和さんは、また真尋の名前を聞いた。
「あなた、お名前は?」
「真尋です」
「まひろちゃん」
今度は合っていた。
でも、合っていたことだけが嬉しいのではなかった。
名前が合っても、間違っても、その時間の中に何かが残ることを、真尋は少し感じ始めていた。
交流の最後に、生徒たちは記録カードを書くことになった。
尾崎さんは、以前なら「認知症の方と接する時の注意点」をまとめさせるつもりだった。
けれど、灯理と話して、項目を変えた。
『今日、一緒に過ごした場面』
『相手が安心していたように見えた瞬間』
『繰り返された話にあった気持ち』
『自分が感じたこと』
『覚えているか以外に残ったもの』
真尋は、ペンを持った。
すぐに書き出せなかった。
佐和さんの声。
魚屋の話。
母の後ろに隠れた小さな佐和さん。
裁縫箱。
袖口に触れた指。
古い歌。
真由ちゃん。
まひろちゃん。
名前は揺れていた。
でも、時間は空っぽではなかった。
真尋は書いた。
『佐和さんは、私の名前を間違えた。でも、制服の糸に気づいてくれた。何度も同じ話をしたけれど、その話の中には怖かった気持ちと、お母さんの後ろに隠れて安心した記憶があった。名前を正しく覚えていることだけが関係ではないのかもしれない。』
最後に、少し迷ってから一文を書いた。
『名前は違った。でも、手はやさしかった。』
カードを書き終えると、真尋はしばらくその一文を見つめていた。
施設訪問が終わり、生徒たちは玄関に集まった。
利用者たちが見送りに来てくれる。
佐和さんも、車椅子に座って手を振っていた。
「また来てね」
真尋は、少しだけ前に出た。
「はい。また来ます」
佐和さんは、真尋を見て首をかしげた。
「ええと……」
名前は出てこなかった。
真尋の胸は、少しだけ痛んだ。
でも、前ほどではなかった。
「真尋です」
「まひろちゃん」
佐和さんは笑った。
「袖、引っぱっちゃだめよ」
真尋は、思わず笑った。
「はい」
名前より先に、袖のほつれを覚えているのかもしれない。
それとも、今見てまた気づいただけかもしれない。
どちらでもよかった。
そこには、真尋を気にかける一瞬があった。
帰り道、クラスメイトたちは施設での出来事を話していた。
「同じ話、三回くらい聞いた」
「でも、だんだんその話好きになってきた」
「歌、めっちゃ覚えてたね」
「手、あったかかった」
真尋は、少し後ろを歩きながら、スマートフォンを取り出した。
母からメッセージが来ていた。
『今日、おばあちゃんのところ寄れそう?無理ならいいよ』
真尋は、画面を見つめた。
いつもなら、用事があると返していた。
今日は、指が少し止まった後、短く打った。
『行く』
送信する。
すぐに母から返事が来た。
『ありがとう。きっと喜ぶよ』
喜ぶ。
祖母は、自分の名前を間違えるかもしれない。
また母の名前で呼ぶかもしれない。
何度も同じ話をするかもしれない。
でも、それでも会いに行けるだろうか。
真尋は、自分の制服の袖口を見た。
佐和さんが切ってくれた糸の跡は、もうほとんどわからない。
でも、触れられた感覚は残っていた。
その日の夕方、真尋は母と一緒に祖母のいる施設を訪ねた。
廊下には、やはり消毒液の匂いがする。
祖母の部屋の前で、真尋は少し立ち止まった。
母が小さく言う。
「無理しなくていいよ」
「大丈夫」
大丈夫と言いながら、胸は少し苦しかった。
でも、逃げたいだけではなかった。
扉を開ける。
祖母は、椅子に座って窓の外を見ていた。
母が声をかける。
「お母さん、来たよ」
祖母が振り返る。
真尋を見る。
少し目を細める。
「あら、由美ちゃん」
やっぱり、と思った。
胸が痛む。
でも、真尋はその場に立ったまま、ゆっくり息を吸った。
「真尋だよ」
祖母は、少し不思議そうに瞬きをした。
「まひろ」
「うん」
「大きくなったねえ」
それは、今の真尋に向けられた言葉なのか、幼い頃の誰かに向けられた言葉なのか、わからなかった。
それでも、祖母は真尋の手を取った。
祖母の手は、以前より細くなっていた。
でも、温かかった。
「寒くない?」
祖母が聞いた。
真尋は、手を握り返した。
「寒くないよ」
「学校、どうだった?」
その質問は、前と同じだった。
でも、今日は少し違って聞こえた。
祖母は、名前を間違えた。
でも、学校を気にしている。
寒くないかと聞いている。
真尋の中で、痛みと温かさが同じ場所に並んだ。
「今日、高齢者施設に行った」
「そう」
「佐和さんっていう人に会った」
「いい人だった?」
「うん。制服の糸、切ってくれた」
祖母は、話の意味をどこまでわかっているのかわからない。
でも、真尋の手をさすりながら頷いた。
「よかったねえ」
真尋は、祖母の手を見る。
昔、この手が自分のおにぎりを作ってくれた。
転んだ時、膝を拭いてくれた。
浴衣の帯を結んでくれた。
名前を忘れても、その手がしてきたことは、全部消えるわけではないのかもしれない。
真尋は、祖母の隣に座った。
窓の外は、夕方の光で薄く赤くなっている。
祖母は、同じ話を始めた。
母が子どもだった頃、雨の日に傘を忘れて帰ってきた話。
真尋は、それを聞いたことがある。
何度もある。
でも今日は、話の内容だけでなく、祖母の表情を見た。
困ったように笑う顔。
少し嬉しそうな目。
雨に濡れた子どもを拭いてやった時の、心配と愛しさ。
同じ話の中に、同じ気持ちが残っている。
真尋は、相槌を打った。
「それで、おばあちゃんはどうしたの?」
祖母は、少し得意そうに笑った。
「タオルで拭いて、甘いお茶を入れてやったの」
真尋は頷いた。
「そっか」
祖母は、真尋の名前をまた間違えるかもしれない。
明日には、今日来たことを忘れているかもしれない。
でも、今日のこの時間に、手は温かかった。
声はそこにあった。
真尋は、そのことを覚えていようと思った。
数日後、学校で施設訪問の振り返り授業が行われた。
尾崎さんも来てくれた。
生徒たちは記録カードをもとに、自分が感じたことを話した。
「同じ話を聞くのが最初は困ったけど、その話がその人にとって大事なんだと思った」
「名前を覚えてもらえなかったけど、歌を一緒に歌った時に笑ってくれた」
「昔の写真を見た時、手がすごく動いていて、話すより先に体が覚えてるみたいだった」
尾崎さんは、生徒たちの言葉を聞きながら、静かに頷いていた。
以前は、認知症について正しく説明することが大切だと思っていた。
もちろん、それは必要だ。
症状を知ること。
対応を学ぶこと。
否定しないこと。
驚かせないこと。
安全を守ること。
でも、それだけでは、生徒たちの心には届ききらない。
実際に向き合い、戸惑い、痛みを感じ、手の温度や表情を受け取る中で、初めてわかることがある。
尾崎さんは言った。
「みなさんの記録を読んで、私も教えられました」
生徒たちが顔を上げる。
「私たち職員は、利用者さんの状態や症状を説明することに慣れています。でも、今日のみなさんは、その方がその瞬間に何を感じているかを見ようとしてくれました」
尾崎さんは、真尋のカードを手に持った。
名前は出さずに、一文を読んだ。
「名前は違った。でも、手はやさしかった」
教室が静かになった。
真尋は、少しうつむいた。
でも、嫌ではなかった。
尾崎さんは続けた。
「忘れていくことはあります。でも、全部が同じように消えるわけではありません。手の動き、歌、匂い、気遣い、安心した表情。その人の中に残っているものを、一緒に探す関わりを、私たちも大切にしたいと思います」
灯理は、教室の後ろで静かに聞いていた。
授業の終わり、真尋は新しいカードに祖母のことを書いた。
『おばあちゃんは、私を母の名前で呼ぶことがある。前は、それがつらくて会いに行けなかった。今もつらくないわけじゃない。でも、手を握って寒くないか聞いてくれた。同じ話の中に、誰かを心配する気持ちが残っていた。名前を覚えてもらうためだけじゃなく、一緒にいる時間を作るために、また会いに行こうと思う。』
最後に、佐和さんの時と同じように、一文を書いた。
『名前は揺れても、手の温度は残った。』
放課後、真尋は灯理に声をかけた。
「白瀬先生」
「はい」
「名前を間違えられるのが、平気になったわけじゃないです」
「はい」
「やっぱり少し痛いです」
「うん」
「でも、それだけじゃないって思えました」
灯理は、静かに頷いた。
「痛みが消えなくても、別のものが一緒に見えることがありますね」
「はい」
真尋は、自分の袖口に触れた。
「佐和さん、次に会っても私の名前を覚えてないかもしれません」
「そうかもしれません」
「でも、また行ってもいいかなって思います」
「はい」
「おばあちゃんにも」
真尋は、少しだけ笑った。
「今度、昔の歌を持っていってみます」
灯理も微笑んだ。
「よい時間になるといいですね」
夕方、灯理は学校を出た。
校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。教室では、真尋が施設訪問の記録カードを鞄にしまっていた。
校門まで、尾崎さんが見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、忘れても残るものを一緒に見せていただきました」
尾崎さんは、手にした生徒たちの記録を見た。
「認知症を理解してもらおうとして、私は説明に力を入れすぎていたのかもしれません」
「説明も大切ですね」
「はい。でも、説明だけでは、名前を忘れられた痛みや、それでも残る気遣いまでは届かない」
尾崎さんは、静かに息を吐いた。
「生徒たちが見てくれた表情や手の動きを、私たち職員も改めて見直したいです」
灯理は頷いた。
「記憶は、正確な情報だけではないのだと思います」
「はい。関係や感情の痕跡も、そこにあるのですね」
夜風が、校門の横の木を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、家族介護についての相談が書かれた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
人は、忘れていく。
名前を。
日付を。
約束を。
何度も聞いた話を、また初めてのように語ることがある。
そのたびに、そばにいる人は傷つく。
自分が相手の中から消えていくように感じる。
その痛みは、簡単には消えない。
けれど、記憶は正しい名前だけでできているわけではない。
手が覚えていること。
歌が運ぶ時間。
同じ話に残る寂しさや安心。
寒くないかと聞く声。
ほつれた糸に気づく指先。
その瞬間に生まれる関係。
灯理は、夕暮れの道を歩きながら、真尋のカードに書かれた一文を思い出した。
名前は違った。でも、手はやさしかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




