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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第17章 第2話:データの授業――数字になった努力


 千尋の名前の横には、赤い印がついていた。


 学習管理システムの画面は、冷たいほど整っている。


 ログイン時間。


 正答率。


 提出回数。


 復習回数。


 単元別理解度。


 グラフは色分けされ、基準を下回る項目は赤く表示される。


 高校二年、数学演習。


 千尋の画面には、赤と黄色が多かった。


『ログイン時間:少』

『正答率:平均以下』

『復習回数:少』

『提出状況:一部遅れ』


 担任であり数学担当でもある桐谷先生は、職員室の机でその画面を見つめていた。


 この高校では、今年度から学習ログを本格的に活用し始めている。


 生徒がオンライン教材にどれだけ取り組んだか。


 どの問題でつまずいたか。


 どの単元の正答率が低いか。


 復習をしているか。


 提出物が期限内に出ているか。


 数字で見えるようになった。


 桐谷先生は、その仕組みに期待していた。


 教師の目だけでは見落とすことがある。


 授業中は静かにしている生徒が、実は家庭でまったく学習できていないこともある。


 逆に、授業中は目立たない生徒が、地道に復習していることもある。


 データを見れば、早く支援できる。


 勘や印象だけに頼らず、生徒の状態をつかめる。


 そう思っていた。


 けれど、千尋の画面を見ると、桐谷先生の手は止まった。


 千尋は真面目な生徒だ。


 授業中も顔を上げて聞いている。


 提出物も、遅れることはあるが、雑に済ませるタイプではない。


 友人に説明している姿も見たことがある。


 それなのに、ダッシュボード上では「学習量が少ない生徒」に見える。


 赤い印は、静かにそう告げていた。


 同じ頃、教室の後ろの席で、千尋はノートを閉じようとしていた。


 数学の問題集が開かれている。


 机の上には、消しゴムのかすが小さく積もっていた。


 ノートのページには、何度も書き直した跡がある。


 一度目の式。


 消した跡。


 二度目の図。


 また消した跡。


 赤ペンの丸と、青ペンのメモ。


『ここで符号を間違えた』

『公式を使う前に図を見る』

『なぜ二乗になる?』

『莉子に説明したら少しわかった』


 千尋は、オンライン教材が嫌いなわけではない。


 ただ、画面で次々に問題を解くより、紙に書いて考える方が自分には合っていた。


 間違えた式を残したい。


 どこで考え直したのかを見たい。


 画面の選択肢をクリックするより、ノートの余白に図を描きたい。


 だから、ログイン時間は短い。


 オンライン上の復習回数も少ない。


 正答率も低く見える。


 でも、勉強していないわけではなかった。


「千尋、ここ教えて」


 前の席の莉子が振り返った。


「どこ?」


「この二次関数のグラフ、軸がなんでこの式になるのかわかんない」


 千尋は、自分のノートを開いた。


「私も最初間違えた」


 そう言って、消し跡の多いページを見せる。


「ここで展開するとわかりにくくなるから、平方完成の形に戻して見た方がいいかも」


「え、待って。もう一回」


「うん。まず、この式をこう見る」


 千尋は、莉子のノートの横に小さく図を描いた。


 放課後の教室に、鉛筆の音が重なる。


 夕方の光が窓から入り、机の端を淡く照らしている。黒板には、昼間の授業で書かれた関数のグラフがまだ薄く残っていた。


 莉子が頷く。


「あ、そういうことか」


「たぶん」


「千尋、説明うまいじゃん」


「自分ではよく間違えるけど」


「でも、どこで間違えたか覚えてるからわかりやすい」


 千尋は少し笑った。


 間違えた跡。


 考え直した跡。


 それが自分の学びだった。


 けれど、その日の夕方、桐谷先生に呼ばれた。


 場所は進路指導室。


 机の上には、学習ログの印刷資料が置かれている。


 千尋は椅子に座り、その赤い印を見た。


 自分の名前の横にある、いくつもの低い数値。


 桐谷先生は、できるだけ穏やかに話した。


「千尋さん、最近の学習ログについて確認したいと思っています」


「はい」


「オンライン教材のログイン時間が少なく、正答率も少し低めです。復習回数も、クラス平均より少ないですね」


 千尋は、資料を見つめた。


 数字は間違っていない。


 たしかに、自分はあまりログインしていない。


 画面上の復習回数も少ない。


 正答率も高くない。


「授業中はよく聞いていますし、ノートも取っています。ただ、データを見る限り、家庭学習の量が少ないように見えます」


 千尋は、膝の上で手を握った。


 少ないように見える。


 その言葉が、胸に刺さった。


「先生」


「はい」


「数字が低いなら、私は頑張っていないことになるんですか」


 声は思ったより小さかった。


 でも、言った後、喉の奥が熱くなった。


 桐谷先生は、すぐに答えられなかった。


 責めるつもりはなかった。


 データを見て支援したいと思っただけだった。


 でも、千尋の目には、傷ついた色があった。


 その時、進路指導室の扉が静かに開いた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が立っていた。


 白瀬灯理。


 学習データ活用の授業を見学するために来ている外部助言者だった。


 灯理は、机の上の資料と、千尋の膝の上で固く握られた手を見た。


 そして、静かに言った。


「うん。では、数字に出たものだけが、君の学びの全部なのでしょうか」


 千尋は顔を上げた。


 桐谷先生も、資料から目を離した。


 数字に出たもの。


 数字に出ていないもの。


 進路指導室の空気が、少し変わった。


 翌日の数学演習の時間、教室には大きな紙が貼られた。


 灯理が黒板に書いた。


『数字に出た学び』

『数字に出ていない学び』


 生徒たちは、少し不思議そうに黒板を見ている。


 桐谷先生が前に立った。


「今日は、学習データの見方について考えます」


 教室がざわついた。


「データ?」


「正答率のやつ?」


「ログイン時間見られてる?」


 桐谷先生は頷いた。


「学習ログは、みなさんの学びを支えるために使います。けれど、数字だけで人を決めつけるためのものではありません」


 千尋は、自分の席でノートを握っていた。


 昨日の面談のあと、灯理に言われて、いつもの数学ノートを持ってくることになった。


 消し跡だらけのノート。


 きれいではない。


 でも、自分の時間が詰まっている。


 灯理は黒板に項目を書いた。


『ログイン時間』

『正答率』

『提出回数』

『復習回数』

『先生に質問した回数』

『友人に説明したこと』

『紙のノートで考えた時間』

『間違い直しの跡』

『途中で諦めなかった場面』

『まだ数字にできない変化』


 生徒たちは、項目を読みながら少しずつ表情を変えた。


「友人に説明したことって、データに出ないよね」


「ノートでやってる時間も出ない」


「正答率低いと、間違ってばっかりってこと?」


「でも、難しい問題やったら下がるじゃん」


 灯理は言った。


「データは、とても大切な窓です。見えにくかったものを見せてくれることがあります」


 黒板の『数字に出た学び』の下に、いくつか書く。


『どの単元でつまずいたか』

『どれくらい取り組んだか』

『復習した回数』

『提出の状況』

『正答率の変化』


「でも、窓は一つだけではありません」


 今度は『数字に出ていない学び』の下に書く。


『なぜ間違えたか考えた時間』

『友だちに説明して整理したこと』

『紙に図を描いたこと』

『同じ問題を別の方法で考え直したこと』

『わからないままでも諦めなかったこと』

『不安や焦り』

『自信が少し戻った瞬間』


 千尋は、黒板を見つめた。


 自分のノートの中にあるものが、そこに書かれている。


 消し跡。


 図。


 青ペンのメモ。


 莉子に説明した時間。


 それらは、ログイン時間には出ない。


 でも、なかったことではない。


 灯理は、生徒たちにワークシートを配った。


 左右に欄が分かれている。


『データで見えること』

『データでは見えにくいこと』

『次に見ること』


 桐谷先生が説明した。


「今日は、自分の学習データを一つ見ます。ただし、その数字を見て終わりにしません。数字の外側にある学びも一緒に置きます」


 生徒たちは、自分の端末で学習ログを開いた。


 千尋も画面を開く。


 赤い印。


 黄色い棒グラフ。


 短いログイン時間。


 低めの正答率。


 昨日見た時と同じ数字なのに、今日は少し違って見えた。


 ただ自分を責める印ではなく、何を見落としているかを考える入口に見えた。


 千尋はワークシートに書いた。


『データで見えること』

 オンライン教材のログイン時間が短い。

 正答率が低い。

 復習回数が少ない。


『データでは見えにくいこと』

 紙のノートで考えている。

 間違えたところを消さずに残している。

 莉子に説明した。

 同じ問題を三回考え直した。

 画面より紙の方が考えやすい。


『次に見ること』

 オンラインの復習を少し増やす。

 ノートの間違い直しも先生に見てもらう。

 正答率だけでなく、どこで間違えたかを見る。


 書いているうちに、少し呼吸が楽になった。


 自分は、何もしていなかったわけではない。


 ただ、データの窓には映りにくい方法で学んでいた。


 授業の後半、千尋は桐谷先生にノートを見せた。


 少し恥ずかしかった。


 ページはきれいではない。


 消し跡も多い。


 端に小さな字でメモが詰まっている。


 しかし、桐谷先生はページをめくりながら黙っていた。


 そして、あるページで手を止めた。


「ここ、三回解き直していますね」


「はい」


「一回目は符号のミス、二回目は公式の使い方、三回目で図を描いています」


「その方がわかったので」


「このメモは?」


 桐谷先生が指した。


『莉子に説明したら、自分の間違いに気づいた』


「友だちに教えている時に、自分のわかっていないところが見えたので」


 桐谷先生は、しばらくノートを見つめた。


 ダッシュボードには、この時間は出ていなかった。


 ログイン時間には現れない。


 復習回数にもカウントされない。


 けれど、ここには確かに学びがある。


 間違いを見つける力。


 説明して整理する力。


 紙に戻って考え直す力。


 桐谷先生は、千尋に言った。


「このノートも、学びの記録ですね」


 千尋は目を瞬かせた。


「いいんですか、こんなに消し跡ばかりで」


「消し跡があるから、考え直したことが見えます」


 千尋は、ノートの端を指で押さえた。


 消し跡を、汚いものだと思っていた。


 間違えた証拠。


 できなかった証拠。


 でも、考え直した証拠でもあるのかもしれない。


 桐谷先生は、ワークシートに新しい欄を書き足した。


『数字で見えること』

『数字では見えないこと』

『次に見ること』


 その三欄を見ながら言った。


「これから面談で、データを見る時はこの三つを一緒に確認します」


 灯理が頷いた。


「数字を否定するのではなく、数字を入口にして、人を見る窓を増やすのですね」


「はい」


 桐谷先生は、クラス全体にも伝えた。


「みなさん、学習ログは大切です。ログイン時間が短い時、正答率が下がった時、提出が遅れた時、それは何かを知らせてくれるサインです」


 生徒たちは前を見る。


「でも、その数字だけで、努力しているかどうかを決めることはしません。数字に出ていることと、数字には出ていないことを一緒に見ます」


 千尋は、静かに息を吐いた。


 胸の奥にあった硬いものが、少しほどけた気がした。


 授業の終わりに、生徒たちは自分の学習記録を一つ選び、短いコメントを書いた。


 千尋は、ノートのあるページを写真に撮り、学習ログのコメント欄に添付した。


 オンラインの正答率は低い。


 けれど、その問題について紙で三回考え直したページだった。


 コメント欄に書く。


『数字には出なかったけど、ここで三回考え直した』


 送信ボタンを押す。


 その一文が、データの横に置かれた。


 数日後、桐谷先生の面談は少し変わった。


 生徒のダッシュボードを見せる時、最初にこう聞く。


「この数字を見て、自分ではどう感じますか」


「数字に出ていない学びはありますか」


「次に見るなら、何を見たいですか」


 ある生徒は、ログイン時間は長いが、実は動画を流したまま別のことをしていたと話した。


 ある生徒は、正答率は高いが、簡単な問題だけを選んでいたと気づいた。


 ある生徒は、提出回数は少ないが、家で兄弟の世話があり、学校で残って進めたいと相談した。


 数字は、嘘ではない。


 でも、数字だけでは話しきれない。


 桐谷先生は、そのことを一つずつ学んでいった。


 千尋も、自分の学び方を少し変えた。


 紙のノートを続ける。


 それに加えて、オンライン教材にも週に二回はログインする。


 正答率だけを上げるためではなく、自分がどの単元でつまずいているかを見るために使う。


 間違えた問題は、画面の解説を読んで終わりにせず、ノートに写して考え直す。


 莉子に説明した問題は、学習記録に「説明して整理」と書く。


 自分の努力を数字に合わせて変えるのではなく、数字とノートを並べて見る。


 それは、千尋にとって新しい学び方だった。


 ある日の放課後、千尋は教室で問題を解いていた。


 莉子が隣で端末を開いている。


「千尋、ログイン時間増えてるじゃん」


「少しだけね」


「データ意識してる?」


「うん。でも、前みたいに怖くはない」


「どうして?」


 千尋は、ノートを開いた。


 消し跡のあるページ。


 その横に、端末の学習ログ。


 赤や黄色の表示はまだある。


 でも、以前より少し緑も増えていた。


「数字は、私を決めるものじゃなくて、見るところを教えてくれるものだと思うようにしてる」


「かっこいい」


「言い方だけね」


 千尋は笑った。


 そして、ノートの端に今日のメモを書いた。


『データでは、関数の正答率が低い。ノートでは、平方完成で止まっている。次はここを先生に聞く。』


 数字とノートが、初めて同じ方向を向いた気がした。


 夕方、桐谷先生は職員室で千尋の学習記録を見ていた。


 ダッシュボードには、相変わらず赤い項目が少し残っている。


 けれど、その横に千尋が添付したノート写真とコメントがある。


『数字には出なかったけど、ここで三回考え直した』


 その一文を読むたび、桐谷先生は、自分が見落としていたものを思い出す。


 灯理が職員室へ来た。


「桐谷先生」


「白瀬先生」


「データの使い方、変わってきましたね」


「はい」


 桐谷先生は画面を見ながら言った。


「以前は、ダッシュボードを見れば生徒の状態がわかると思っていました」


「はい」


「でも、正確には、ダッシュボードで見える状態がある、ですね」


 灯理は頷いた。


「窓の一つですね」


「はい。赤い印がある時、すぐに『努力不足』と判断するのではなく、何が数字に出ていて、何が出ていないのかを聞く必要がある」


 桐谷先生は、千尋のノート写真を拡大した。


 消し跡。


 書き直し。


 図。


 小さなメモ。


「この消し跡は、最初のデータには出ませんでした。でも、ここに三回考え直した時間があります」


「はい」


「数字を使うなら、数字の外側を見る問いも一緒に持たなければいけないんですね」


 灯理は静かに微笑んだ。


 夜、灯理は高校を出た。


 校舎の窓には、まだいくつか明かりが残っている。教室では、千尋と莉子が机を並べ、ノートと端末を行き来しながら問題を解いていた。


 校門まで、桐谷先生が見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、数字の横にある学びを一緒に見せていただきました」


 桐谷先生は、手元のタブレットを見た。


「データは便利です。これからも使います。使わない方がいいとは思いません」


「はい」


「でも、数字は人を決めるためではなく、次に何を見るかを考えるために使いたいです」


 夜風が、校門の横の木を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、高校の文芸部と国語表現の授業から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 データを見ることは、人を数字に閉じ込めることではない。


 ログイン時間。


 正答率。


 提出回数。


 復習回数。


 それらは、確かに学びの一部を映す。


 早く支援に気づかせてくれることもある。


 変化を示してくれることもある。


 けれど、数字に出ないものもある。


 消し跡。


 迷った時間。


 友だちに説明した声。


 もう一度考え直した図。


 諦めずに残した余白。


 少し戻った自信。


 灯理は、夜の教室の窓を見上げた。


 机の上には、千尋のノートと端末が並んでいる。


 画面には赤い印がまだ少し残っている。


 けれど、ノートの端には、消されなかった一文がある。


 数字には出なかったけど、ここで三回考え直した。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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