第16章 第4話:オンラインの授業――画面の向こうで消える声
海斗のマイクアイコンは、今日も灰色のままだった。
画面の右下に、小さな斜線入りのマイクが表示されている。カメラは一応つけていた。けれど、部屋の照明を少し暗くしているせいで、映る顔は影になっていた。
画面の向こうでは、教室が動いている。
黒板の前に立つ藤倉先生。
前の席でノートを開く生徒たち。
窓から差し込む午前の光。
誰かが椅子を引く音。
紙をめくる音。
笑い声。
それらは、スピーカーを通して少し遅れて届く。
海斗は、自分の机に置いたノートを見下ろした。
高校二年の秋。
体調を崩してから、登校できる日とできない日ができた。
朝、起きられる日もある。
でも、通学の途中で気分が悪くなる日もある。
教室に座っているだけで、体が重くなる日もある。
学校は、海斗のためにオンライン参加を認めてくれた。
授業の映像をつないでくれる。
プリントも共有してくれる。
藤倉先生も、よく声をかけてくれる。
「海斗、聞こえていますか」
海斗は、チャットに打つ。
『聞こえています』
それで、授業は始まる。
ありがたいと思っている。
教室に行けない日でも、授業を聞ける。
板書も見える。
クラスの空気も少しわかる。
けれど、授業に参加しているかと聞かれると、自信がなかった。
画面には映っている。
でも、声は出せない。
家族の生活音が入るのが怖い。
急に咳き込むかもしれない。
言葉が詰まるかもしれない。
みんなに見られるかもしれない。
マイクをオンにするだけで、胸がきゅっと縮む。
だから、いつもミュートのまま聞いている。
藤倉先生の声が、スピーカーから聞こえた。
「では、前回の続きです。今日は評論文の段落構成を見ていきます」
黒板に、文章の構造が書かれていく。
教室の生徒たちは、配られたプリントに線を引いている。
海斗も、画面に映ったプリントを見ながらノートに写した。
けれど、途中で先生の声が遠くなった。
教室の中で、誰かが質問したらしい。
マイクが教室全体を拾っているため、声が重なると聞き取りにくい。
海斗はイヤホンを押さえた。
聞こえない。
今、何の話になったのだろう。
画面の中では、先生が頷いている。
クラスの何人かが笑う。
海斗だけが、取り残されたように感じた。
チャット欄を開く。
『今のところ、もう一度お願いします』
そこまで打って、手が止まった。
送信したら、授業を止めることになる。
教室の流れを邪魔するかもしれない。
みんなはわかっているのに、自分だけがわかっていないように見える。
海斗は、文字を消した。
授業は進む。
画面の中で、藤倉先生は教室の生徒に問いかけた。
「この段落の役割は何でしょう」
何人かが手を挙げる。
先生は、その中の一人を指した。
声が聞こえる。
けれど、海斗の名前は呼ばれない。
オンラインでつながっている自分に発言の順番が来ないことに、ほっとする気持ちもある。
同時に、少しずつ薄くなっていくような感覚もあった。
画面の向こうにいる。
でも、授業の中にはいない。
四十分後、授業が終わった。
藤倉先生が画面に近づく。
「海斗、今日はここまでです。聞こえていましたか」
海斗はチャットに打った。
『聞こえていました。ありがとうございました』
本当は、途中で消えた。
でも、それは書かなかった。
通話が切れると、部屋が急に静かになった。
教室の音が消え、冷蔵庫の低い音と、遠くで母が食器を片づける音だけが残る。
海斗はノートを見た。
途中から、空白が増えている。
画面には映っていた。
でも、自分の声はどこにも残っていなかった。
その日の放課後、藤倉先生は教室で配信用の機材を片づけていた。
カメラ。
マイク。
ノートパソコン。
延長コード。
オンライン授業を始めてから、準備は増えた。
教室の生徒に授業をしながら、画面の向こうの生徒にも届ける。
黒板が見えるようにカメラの角度を調整する。
音が入るようにマイクを置く。
プリントを事前にデータで送る。
欠席扱いにしないよう記録をつける。
藤倉先生は、かなり頑張っているつもりだった。
けれど、海斗のチャットはいつも短い。
『聞こえています』
『大丈夫です』
『ありがとうございました』
それ以上の声がない。
授業中、海斗が本当に理解しているのか、何に困っているのか、どの場面で消えかけているのかが見えない。
見えていないと気づきながら、教室の生徒への対応で精いっぱいになってしまう。
その時、教室の入口に一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
さまざまな学校や学びの場を訪ねている先生だと、校長から紹介されていた。
灯理は、片づけられたマイクと、教室の前に置かれたカメラを見た。
「藤倉先生、今日の授業を拝見しました」
「ありがとうございます」
藤倉先生は、少し疲れた笑みを浮かべた。
「オンライン配信は、まだ慣れませんね。黒板も見せなければいけないし、音も拾わなければいけないし、教室の生徒も見なければいけない」
「はい」
「海斗にも授業を届けたいのですが、どうしても教室中心になってしまいます」
灯理は、パソコンの画面に残った通話履歴を見た。
「海斗さんは、授業中に何か困っていることを伝える方法がありますか」
「チャットは使えます。ただ、あまり書きません」
「書きにくいのかもしれません」
「そうですね」
藤倉先生は、椅子に座った。
「でも、画面はつながっています。授業も聞けています。カメラもつけてくれています」
そう言ってから、少し自信がなくなった。
画面がつながること。
授業が映ること。
それは、参加できていることと同じなのだろうか。
灯理は静かに言った。
「先生、画面には映っているのに、授業から消えている気がします」
藤倉先生は顔を上げた。
それは、海斗が言った言葉のように聞こえた。
灯理は続ける。
「うん。では、映像が届くことと、その人の声が届くことは同じでしょうか」
藤倉先生は、机の上のマイクを見た。
映像は届いている。
音声も届いている。
でも、海斗の声が教室に届く道は、ほとんど用意していなかった。
翌日、藤倉先生の授業は少し変わった。
黒板の横に、新しい紙が貼られている。
『オンライン参加の方法』
その下には、いくつかの選択肢が並んでいた。
『音声で話す』
『チャットに書く』
『スタンプで反応する』
『共有ノートに短く書く』
『あとでフォームに残す』
『聞こえなかった時は「もう一度」と書く』
『カメラオフでも参加できる』
教室の生徒たちは、その紙を見て少しざわついた。
「スタンプもいいんだ」
「共有ノートって何?」
「カメラオフでもいいの?」
藤倉先生は、いつもより少しゆっくり話した。
「今日は、オンラインで参加している海斗だけでなく、教室にいる皆さんも一緒に参加方法を考えます」
画面の向こうで、海斗は紙に書かれた言葉を読んでいた。
カメラオフでも参加できる。
音声で話さなくてもいい。
チャット。
スタンプ。
共有ノート。
あとでフォーム。
その文字を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
藤倉先生は続けた。
「教室側にも役割を置きます。今日の『画面係』を決めます」
教室がざわつく。
「画面係?」
「オンラインで参加している人のチャットや共有ノートの書き込みに気づき、先生に知らせる役です」
今日の画面係は、クラスメイトの奈緒になった。
奈緒は、海斗と中学から同じ学校の生徒だった。
以前はよく話していたが、海斗が登校しづらくなってから、少し距離ができていた。
何を話せばいいかわからなかった。
声をかけても負担になるのではないかと思っていた。
藤倉先生は、授業の前に共有ノートのリンクを開いた。
画面には、全員が書き込める白いページがある。
上に今日の問いが書かれていた。
『本文の主張は、どの段落で変化していますか』
『わからないところ、もう一度聞きたいところも書いてよい』
海斗は、共有ノートを開いた。
カーソルが点滅している。
書いていい場所。
でも、何を書けばいいのかわからない。
授業が始まった。
藤倉先生は、教室の生徒を見ながらも、時々画面に視線を移すようになった。
「今から三分、本文に線を引いてください。オンラインの人は共有ノートに番号だけ書いても大丈夫です」
三分。
時間が区切られる。
海斗は本文を見た。
段落の境目に線を引く。
ここかもしれない。
でも、自信はない。
共有ノートを見ると、教室の生徒たちも番号を書き込んでいた。
『三段落』
『四段落?』
『二から三に変わるところ』
『わかりません』
誰かが「わかりません」と書いている。
教室にいる生徒だろうか。
それを見て、海斗は少し息をついた。
わからないと書いてもいいのかもしれない。
でも、まだ自分の名前で書く勇気はなかった。
藤倉先生は言った。
「名前を書かなくても大丈夫です。まずは、言葉を置いてください」
海斗は、共有ノートの下の方に短く打った。
『ここ、もう一度』
送信。
たった五文字。
それでも、心臓が速くなった。
教室では、奈緒が画面を見ていた。
共有ノートの下に、新しい文字が出た。
『ここ、もう一度』
奈緒は手を挙げた。
「先生、共有ノートに『ここ、もう一度』ってあります」
藤倉先生は頷いた。
「ありがとう」
先生は、黒板の前に戻った。
「今、共有ノートに『ここ、もう一度』とありました。大事なところです。もう一回、段落の変わり目を確認します」
海斗は、画面の前で固まった。
自分の書いた言葉が、教室で読まれた。
授業が止まったのではない。
授業の中に入った。
藤倉先生は、本文の二段落目と三段落目を指しながら説明し直した。
「ここまでは筆者が一般的な考えを紹介しています。でも、三段落目から『しかし』で自分の主張へ入ります。だから、ここで役割が変わっています」
海斗はノートに書いた。
『しかし=主張へ変わる合図』
空白だったページに、少し線が戻った。
授業の途中、藤倉先生は教室へ問いかけた。
「では、筆者はなぜこの例を出したのでしょう」
いつもなら、教室の生徒だけが話し合う場面だった。
今日は違った。
藤倉先生は言った。
「教室の人は隣と話してください。オンラインの人は、チャットか共有ノートに単語だけでも書いてください。音声は使わなくてもいいです」
海斗は、本文を読み返した。
例を出した理由。
抽象的な主張をわかりやすくするため。
でも、それをうまく文章にできるか不安だった。
チャット欄を開く。
今度は、共有ノートではなく、授業チャットに打ってみた。
『例があると、主張が具体的になるから』
送信する前に、指が止まる。
長い。
間違っているかもしれない。
でも、さっきの「ここ、もう一度」は拾われた。
海斗は、送信した。
奈緒が画面を見る。
「あ、海斗がチャットに書いてます」
教室の何人かが画面の方を見た。
海斗は思わず背筋を固くした。
見ないでほしい。
でも、見てほしい気もする。
奈緒が読み上げた。
「『例があると、主張が具体的になるから』」
藤倉先生は黒板に書いた。
『例があると、主張が具体的になる』
「いいですね。これは本文の働きをよく捉えています」
教室の生徒の一人が言った。
「それ、わかりやすい」
別の生徒も頷いた。
「たしかに、例がないと何言ってるかわかりにくい」
海斗は画面の前で、ゆっくり息を吐いた。
声は出していない。
マイクも灰色のまま。
でも、自分の考えが黒板に書かれた。
それは、久しぶりの感覚だった。
授業の終わりに、藤倉先生は短いフォームを配った。
『今日、参加できた方法』
『困ったこと』
『次回使いたい参加方法』
『一言』
教室の生徒も、オンラインの海斗も同じフォームに答える。
海斗は、少し迷いながら入力した。
『今日、参加できた方法:共有ノート、チャット』
『困ったこと:教室の声が重なると聞き取りにくい』
『次回使いたい参加方法:チャット』
『一言:今日は声は出していない。でも、参加した』
送信した後、海斗は画面を閉じなかった。
通話の中で、藤倉先生が言った。
「海斗、フォーム読みました。ありがとう」
海斗はチャットに打った。
『ありがとうございました』
少し考えて、もう一文足した。
『次もチャットで参加します』
藤倉先生は、画面に向かって頷いた。
「待っています」
その日の放課後、奈緒は教室に残っていた。
藤倉先生が機材を片づけている。
奈緒は、画面係の役割表を見た。
「先生」
「はい」
「海斗、今日、参加してましたね」
「そうですね」
「今までも画面にはいたけど、なんか……今日の方が、教室にいた感じがしました」
藤倉先生は、その言葉を受け止めた。
「奈緒さんが声を運んでくれたからです」
「私、読んだだけです」
「その『読んだだけ』が大切でした」
奈緒は、少し考えた。
「今まで、海斗に話しかけていいのかわからなくて。オンラインでいるのは知ってたけど、なんとなく忘れてる時もありました」
「はい」
「でも、チャットが出たら、そこにいるってわかりました」
奈緒は、画面の消えたノートパソコンを見た。
「次も画面係、やっていいですか」
「もちろん」
翌週から、オンライン授業の形は少しずつ整っていった。
発言は音声だけにしない。
チャット。
スタンプ。
共有ノート。
フォーム。
授業後の一言。
カメラオンを参加の条件にしない。
通信が不安定な日は、録画と共有ノートで後から参加できるようにする。
教室側には、毎回画面係を置く。
藤倉先生は、授業の中に「画面の向こうへ問いを返す時間」を作った。
「今の問いを、オンラインの人も考えられるように一分待ちます」
「共有ノートを見ます」
「チャットの意見を一つ読みます」
「聞こえなかった人は、もう一度と書いてください」
最初はぎこちなかった。
教室の生徒は待つ時間に戸惑った。
藤倉先生も、教室と画面の両方を見るのに何度も失敗した。
海斗も、毎回書けるわけではなかった。
体調が悪い日は、スタンプだけの日もある。
カメラをオフにして、フォームだけ送る日もある。
それでも、参加の道は一つではなくなった。
ある日の授業で、海斗はカメラをオフにしていた。
画面には、名前だけが表示されている。
以前なら、それだけで「今日は聞いているだけ」となっていたかもしれない。
しかし、共有ノートに短い書き込みがあった。
『この筆者は、便利さを否定しているのではなく、考えない便利さを心配している?』
奈緒が手を挙げた。
「先生、海斗の共有ノートの意見、いいと思います」
藤倉先生は画面を見る。
「読み上げてもらえますか」
奈緒が読んだ。
教室が少し静かになる。
別の生徒が言った。
「あ、それなら次の段落とつながる」
「便利さ全部が悪いって話じゃないんだ」
藤倉先生は黒板に書いた。
『便利さの否定ではなく、考えない便利さへの問い』
「大事な読みです」
画面の向こうで、海斗はカメラオフのまま、ノートに同じ言葉を書いた。
声は出していない。
顔も映していない。
でも、授業の中に自分の考えが入っている。
それは、聞いているだけとは違った。
授業後、藤倉先生は職員室で灯理と話した。
「白瀬先生、オンライン授業は機材の問題だと思っていました」
「機材も大切ですね」
「はい。カメラの角度、マイクの位置、通信環境、資料共有。それが整えば授業は届くと思っていました」
「はい」
「でも、届いた先で声を置ける場所がなければ、参加にはならないのですね」
藤倉先生は、海斗のフォーム回答を見た。
『今日は声は出していない。でも、参加した』
「この一文を読んで、はっとしました」
灯理は頷いた。
「声は、音声だけではないのだと思います」
「チャットも、共有ノートも、スタンプも、フォームも、声なんですね」
「はい。その子が授業に何かを置く道です」
藤倉先生は、次の授業案に新しい欄を作った。
『オンライン参加者の声を拾う時間』
『教室側の画面係』
『共有ノートの問い』
『授業後フォームの確認』
その欄は、授業内容とは別の付け足しではない。
授業の一部だった。
夕方、海斗は自分の部屋で、授業後フォームの過去の回答を見返していた。
『聞いていました』
『途中で音が聞こえませんでした』
『ここ、もう一度』
『チャットで参加した』
『今日はスタンプだけ』
『カメラオフでも聞けた』
『声は出していない。でも、参加した』
少しずつ、言葉が増えている。
以前の自分は、授業の最後に『ありがとうございました』とだけ打っていた。
今も、長く話せるわけではない。
マイクをオンにする日はまだ少ない。
登校できる日も限られている。
でも、授業の中に自分の跡が残るようになった。
共有ノートの一行。
チャットの短文。
フォームの言葉。
黒板に書かれた自分の考え。
それらが、画面の向こうから教室へ伸びる細い線になっていた。
スマートフォンに、奈緒からメッセージが届いた。
『今日の意見、わかりやすかった。次の授業も画面係やる』
海斗は、少し迷ってから返信した。
『ありがとう。助かる』
すぐに返事が来た。
『こっちも助かってる。海斗のコメントで読み方変わる時ある』
海斗は画面を見つめた。
助かっている。
自分が授業に助けられているだけではない。
自分のコメントが、教室の誰かの読み方を変えることもある。
そのことが、胸の奥にゆっくり広がった。
夜、灯理は高校を出た。
校舎の窓には、職員室の明かりが残っている。国語準備室では、藤倉先生が次の授業の共有ノートを作っていた。
校門まで、藤倉先生が見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、画面の向こうの声を一緒に見せていただきました」
藤倉先生は、手にした授業案を見た。
「オンライン授業は、映像を届けることだと思っていました」
「はい」
「でも、海斗の声は、映像だけでは届いていなかった。マイクをオンにできないなら発言できない、カメラをつけられないなら参加が薄い。そんなふうに、知らないうちに参加の形を狭めていました」
灯理は静かに頷いた。
「参加の道が複数あると、置ける声も増えますね」
「はい。教室の生徒にも必要なことでした。奈緒たちも、画面の向こうの声を運ぶことで、授業を一緒に作る側になりました」
夜風が、校門の横の木を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、複数国の学校をつないだ共同プロジェクトから届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
オンラインで学ぶことは、画面をつなぐことだけではない。
映像が届く。
音声が聞こえる。
資料が共有される。
それは大切な入口だ。
けれど、その先に、声を置ける場所がなければ、画面の向こうの人は授業から消えてしまうことがある。
音声で話す。
チャットに書く。
共有ノートに残す。
スタンプで反応する。
フォームに一言を置く。
カメラを切っても聞く。
後から追いつく。
教室の誰かが、その声を読み上げる。
その一つひとつが、参加の橋になる。
灯理は、夜の校舎を振り返った。
誰もいない教室の前に、ノートパソコンが閉じられている。
その画面の向こうに、今日たしかに届いた一文があった。
今日は声は出していない。でも、参加した。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




