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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第16章 第2話:避難所の授業――ランドセルのない朝


 サミルの手には、何もなかった。


 朝の臨時学習スペースには、折り畳み机が並んでいる。床は体育館ほど広くはないが、元は地域の集会室だった場所らしく、壁には古い予定表の跡が残っていた。窓際には、寄付で集められた鉛筆やノート、色鉛筆、絵本が箱に入って置かれている。


 子どもたちは、一人ずつ席につき始めていた。


 小さなリュックを背負っている子。


 紙袋にノートを入れてきた子。


 毛布を抱えたまま座る子。


 母親の袖を離せない子。


 その中で、サミルは入口の近くに立っていた。


 何も持っていない手を、胸の前で握っている。


 ランドセルはなかった。


 教科書もなかった。


 前の学校で使っていた筆箱も、ノートも、好きだった青い定規もない。


 避難の途中で、荷物は減っていった。


 持って行けるものは限られていた。


 服。


 書類。


 薬。


 少しの食べ物。


 そして、家族。


 それ以外のものは、どこかで置いていくしかなかった。


 サミルは、かつて学校が好きだった。


 朝、ランドセルを背負って歩く道。


 教室の窓から見える木。


 先生の字。


 友だちの席。


 休み時間の声。


 ノートの最初のページに日付を書くこと。


 それらは、いつも同じようにそこにあった。


 でも今は、朝起きても学校のチャイムは鳴らない。


 寝ている場所は毎日落ち着かず、知らない大人が手続きの話をしている。母は疲れた顔で書類を書き、電話をかけ、列に並んでいる。


 サミルは、自分の手を見る。


 何も持っていない。


 だから、ここに来ても何をすればいいのかわからなかった。


「サミル、座ろう」


 母が小さな声で言った。


 母の声は優しかったが、目の下には濃い影があった。


 夜、あまり眠れていないのだと思う。


 サミルは首を横に振った。


「いい」


「少しだけ」


「どうせまた移動する」


 その言葉は、思ったより冷たく出た。


 母は何か言いかけて、口を閉じた。


 臨時学習スペースの担当、榊先生が近づいてきた。


 榊先生は、地域の学校から応援に来ている先生だった。避難してきた子どもたちのために、ここで学習支援をしている。


 しかし、榊先生自身も迷っていた。


 教材はそろっていない。


 学年も言葉もばらばら。


 子どもたちの生活状況も違う。


 今日来られても、明日来られるとは限らない。


 普通の授業を再現しようとしても、教科書も時間割も足りない。


 何から始めればいいのか、榊先生にもわからない日があった。


「おはよう、サミル」


 榊先生は、無理に笑わせようとはしなかった。


 サミルは小さく頷いた。


「今日は、見ているだけでもいいです」


 榊先生はそう言った。


 サミルは、空いている机の端に座った。


 机は白く、少し傷がついている。


 誰かが寄付してくれたものだと聞いた。


 でも、サミルには自分の机には見えなかった。


 少しした頃、入口に一人の先生が現れた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 さまざまな国や地域の学びの場を訪ねている先生だと、榊先生から紹介された。


 灯理は、部屋に入るとすぐに子どもたちの持ち物を見た。


 そろっていない筆箱。


 違う種類のノート。


 名前のない鉛筆。


 そして、何も持っていないサミルの手。


 灯理は、教卓代わりの机の前に立った。


「今日は、学校の続きをそのまま始めるのではありません」


 榊先生が少し驚いたように灯理を見る。


 灯理は、黒板代わりのホワイトボードに大きく書いた。


『今日、ここにいることから始める』


 子どもたちは、静かにその文字を見た。


 灯理は続けた。


「持っている教科書が違っても、ランドセルがなくても、前の学校から離れていても、今日ここでできる学びがあります」


 サミルは、顔をそむけた。


 ランドセルがなくても。


 その言葉が、胸に刺さった。


 灯理は、机の上に小さな紙を並べた。


『名前を書く』

『今日の日付を書く』

『朝に見たものを一つ描く』

『覚えている教室の一場面を描く』

『今いる場所の地図を描く』

『必要な言葉をカードにする』

『今日、自分で選ぶ学びを一つ置く』


 榊先生が小さく息を吸った。


 それは、国語でも算数でも理科でもないように見えた。


 けれど、どれも確かに学びの入口だった。


 灯理は子どもたちにノートを配った。


 寄付された、まだ誰の名前も書かれていない新しいノート。


 サミルの机にも一冊置かれた。


 表紙は薄い水色だった。


 サミルは手を伸ばさなかった。


 ノートを見ると、前の学校のノートを思い出した。


 机の中に置いたままの算数ノート。


 最後に書いた日付。


 途中まで解いた問題。


 次の日に続きをやるはずだったページ。


 その続きを、もう書けない。


 だから、新しいノートを開くのが怖かった。


 灯理が、サミルの机の横に来た。


「サミルさん」


 サミルは黙っていた。


「ノートを開かなくてもいいです。今日は、見ているだけでもいい」


 サミルは、少しだけ灯理を見た。


「でも、一つ聞いてもいいですか」


 サミルは答えなかった。


 灯理は、静かに尋ねた。


「前の教室で、覚えている場所はありますか」


 サミルの手が、少し動いた。


 前の教室。


 思い出したくない。


 でも、忘れたくもない。


 窓。


 自分の席。


 友だちのナディアの席。


 黒板の右上に貼ってあった時間割。


 先生の机の上の花瓶。


 窓際に置かれていた鉢植え。


 サミルは、唇を噛んだ。


「先生、ランドセルも教科書もないのに、学校みたいなことをして意味がありますか」


 声は小さかったが、部屋の中に落ちた。


 榊先生が息を止める。


 灯理は、すぐに答えを決めつけなかった。


 そして、ゆっくり言った。


「うん。では、学びは持ち物がそろった時だけ、その子のものになるのでしょうか」


 サミルは、ノートを見た。


 持ち物。


 そろっていない。


 失ったものばかりだ。


 でも、頭の中には、まだ残っているものがある。


 前の教室の窓。


 友だちの席。


 先生の声。


 自分の名前。


 灯理は、色鉛筆を一本机に置いた。


「失ったものを全部書かなくてもいいです。覚えている教室を、一つだけ描いてみませんか」


 サミルは、しばらく動かなかった。


 周りでは、他の子どもたちが紙に絵を描き始めている。


 朝に見た空。


 配られたパン。


 水のボトル。


 寝ている毛布。


 弟の顔。


 臨時学習スペースの入り口。


 サミルは、色鉛筆を取った。


 青だった。


 ノートは開かなかった。


 代わりに、配られた白い紙の端に、小さな四角を描いた。


 窓。


 それから、机を描いた。


 自分の机。


 その隣に、もう一つ机を描く。


 ナディアの席。


 黒板。


 先生の机。


 鉢植え。


 描いているうちに、手が少し速くなった。


 前の教室は、完全には消えていなかった。


 頭の中に、まだある。


 紙の上に出せる。


 灯理は何も言わず、少し離れたところで見ていた。


 サミルは、絵の上に小さく母語で文字を書いた。


『ぼくの席』

『ナディアの席』

『窓』

『先生の机』


 その文字を見て、胸が痛くなった。


 でも、描き終えると、少し呼吸がしやすくなった。


 榊先生が、そっと近づいた。


「見せてもらってもいいですか」


 サミルは、紙を半分だけ向けた。


「前の教室?」


 サミルは頷いた。


「ここが、ぼく」


 自分の席を指した。


「ここ、友だち」


「ナディアさん?」


 サミルは驚いて顔を上げた。


 榊先生は、紙の文字を見ていた。


「名前、書いてくれたんですね」


 サミルは小さく頷いた。


 榊先生は、その絵を見て思った。


 この子は、勉強を拒んでいるだけではない。


 失った教室を、失ったまま抱えている。


 いきなり普通の授業を始めても、その前に置いてきたものが大きすぎるのかもしれない。


 灯理は、ホワイトボードに次の活動を書いた。


『今いる場所の地図を描く』


 子どもたちは、臨時学習スペースを見回した。


 入口。


 机。


 寄付の本棚。


 水の置き場。


 相談窓口。


 トイレ。


 母親たちが手続きの書類を書いている部屋。


 毛布のある休憩スペース。


 それぞれが紙に描いていく。


 サミルは、最初は前の教室の絵だけを見ていた。


 でも、灯理がもう一枚の紙を机に置いた。


「今いる場所も、描いてみますか」


 サミルは、部屋を見回した。


 知らない場所。


 仮の場所。


 また移動するかもしれない場所。


 でも、今いる場所。


 サミルは、入口を描いた。


 それから、自分が座っている机を描いた。


 隣の机には、小さな女の子が色鉛筆でパンを描いている。


 窓際の箱には、ノートと鉛筆がある。


 榊先生の机。


 灯理が立っている場所。


 母が座っている手続きの机。


 描いてみると、この場所にも形があった。


 ただの避難所ではなく、今日自分が座っている場所として紙に置けた。


 昼前、灯理は子どもたちに小さなカードを配った。


「必要な言葉カードを作ります」


 カードには、それぞれの言葉が絵と一緒に書かれていく。


『水』

『トイレ』

『おなかが痛い』

『わかりません』

『もう一回』

『休みたい』

『書きたい』

『聞きたい』

『ここにいます』


 子どもたちは、自分に必要な言葉を選んで書いた。


 サミルは、しばらくカードを見ていた。


 そして、一枚に母語で書いた。


『なくした』


 その下に、榊先生が日本語を書いた。


『なくしました』


 もう一枚には、灯理が尋ねた。


「何を書きたいですか」


 サミルは少し考えた。


「覚えている」


 灯理は頷いた。


 カードに書く。


『覚えています』


 サミルは、その二枚のカードを並べた。


『なくしました』

『覚えています』


 失ったもの。


 覚えているもの。


 どちらも本当だった。


 午後、榊先生は、子どもたちに「今日、自分で選ぶ学び」を一つ選ばせた。


 絵を続ける子。


 名前を書く練習をする子。


 数を数えるカードを選ぶ子。


 前の学校の歌を思い出して書く子。


 今いる場所の地図を詳しくする子。


 サミルは、前の教室の絵と、今いる場所の地図を並べた。


 二つの紙の間に、細い線を引いた。


 前の教室から、今の机へ。


 そこに、言葉を書いた。


『今日』


 榊先生が、それを見て静かに言った。


「前の教室と、今日の机がつながりましたね」


 サミルは、何も言わなかった。


 でも、鉛筆を握る手は止まっていなかった。


 夕方、サミルの母が学習スペースへ戻ってきた。


 手続きの書類を抱え、疲れた顔をしていた。


 それでも、サミルが机に向かっているのを見て、少し立ち止まった。


 サミルは、母に紙を見せた。


「これ、前の教室」


 母の目が揺れた。


「覚えていたのね」


「うん」


「これは?」


「ここ」


 サミルは、今いる場所の地図を指した。


「今日、ぼくが座った机」


 母は、しばらくその紙を見つめていた。


 そして、目元を押さえた。


「勉強どころじゃないと思っていた」


 母は榊先生に言った。


「安全な場所、手続き、食べ物、寝る場所。それだけでいっぱいで」


「はい」


「でも、この子の顔、久しぶりに見ました」


 サミルは、少し恥ずかしそうに紙をしまおうとした。


 母は優しく止めた。


「見せて」


 サミルは、紙をもう一度広げた。


 母は、前の教室の絵を指でなぞった。


「あなたの席、ここだったね」


「うん」


「窓の近く」


「うん」


「新しい机も、描いたのね」


 サミルは頷いた。


「今日の机」


 その言葉を、母は小さく繰り返した。


「今日の机」


 翌日、サミルはまた臨時学習スペースへ来た。


 手には、昨日配られた水色のノートがあった。


 まだ名前は書いていない。


 でも、昨日とは違い、抱えるように持っていた。


 机に座ると、サミルはしばらく表紙を見つめた。


 ノートは新しい。


 前の学校の続きではない。


 失ったノートの代わりにもならない。


 それでも、今日ここで開けるものだった。


 榊先生が近づいた。


「おはよう、サミル」


「おはよう」


「今日は、何から始めますか」


 サミルは、表紙を指した。


「名前」


 榊先生は頷いた。


「書きましょう」


 サミルは、ゆっくり鉛筆を持った。


 母語で自分の名前を書く。


 その下に、榊先生に教えてもらいながら、日本語のカタカナでも書いた。


 サミル。


 少し曲がった字。


 でも、自分の名前だった。


 灯理が見守っている。


 サミルは、ノートの最初のページを開いた。


 日付を書く。


 まだ、ここの日付の書き方には慣れていない。


 榊先生が横に小さく見本を書いた。


 サミルは真似して書いた。


 それから、昨日描いた地図を見ながら、最初のページに短い言葉を書く。


『これは、今日のぼくの机』


 書いたあと、サミルはその一文をじっと見た。


 ランドセルはない。


 前の教科書もない。


 青い定規もない。


 ナディアの席も、今は隣にない。


 でも、今日の机はある。


 そこに、自分の名前が書かれたノートがある。


 失ったものは戻らない。


 明日もここにいられるかはわからない。


 それでも、今日ここで書いたものは、自分のものだった。


 その日の午後、榊先生は授業記録を書いていた。


 以前は、学習スペースで何を教えればいいのか、ずっと焦っていた。


 国語の遅れをどうするか。


 算数の単元をどう進めるか。


 学年差をどう埋めるか。


 普通の学校に戻った時に困らないように、できるだけ勉強を進めなければと思っていた。


 もちろん、それも大切だ。


 子どもたちの学びが途切れないようにすること。


 読み書きや計算の力を支えること。


 しかし、サミルのノートを見て、榊先生は少し考えが変わった。


 今日の日付を書く。


 名前を書く。


 朝に見たものを描く。


 前の教室を思い出す。


 今いる場所の地図を作る。


 必要な言葉をカードにする。


 それらは、進度表には載らないかもしれない。


 でも、不安定な生活の中で、自分が今日ここにいることを確かめる学びだった。


 榊先生は、記録に書いた。


『普通の授業を再現する前に、今日の学びのリズムを作る』


 灯理が隣に立った。


「榊先生」


「白瀬先生」


「サミルさん、名前を書きましたね」


「はい」


 榊先生は、少し笑った。


「たった名前を書くことが、こんなに大きいとは思っていませんでした」


「はい」


「私は、教科書がない、教材が足りない、時間が足りないと、足りないものばかり見ていました」


「避難生活の中では、足りないものがたくさんありますね」


「でも、今日の日付と名前と、ここに座った机。そこから始められる学びもあるんですね」


 灯理は頷いた。


「学びは、整った教室がある時だけ始まるものではないのだと思います」


 榊先生は、学習スペースを見渡した。


 折り畳み机。


 寄付の鉛筆。


 ばらばらのノート。


 壁に貼られた地図。


 言葉カード。


 子どもたちの絵。


 そこは、完全な学校ではない。


 でも、学びの場所になり始めていた。


 数日後、臨時学習スペースには朝の小さな流れができていた。


 来たら名前を書く。


 今日の日付を書く。


 朝に見たものを一つ描く。


 必要な言葉カードを選ぶ。


 自分で選ぶ学びを一つ置く。


 子どもたちは、それぞれ違うものを描いた。


 配られたスープ。


 雨の音。


 母の背中。


 赤ちゃんの泣き声。


 窓から見た鳥。


 知らない町の道路。


 昨日覚えた言葉。


 サミルは、毎日ノートに少しずつ書いた。


『今日は雨』

『水をもらった』

『地図を描いた』

『前の学校の歌を思い出した』

『ここで計算を一つした』


 大きな勉強ではない。


 でも、ページは増えていく。


 ある日、サミルは算数の問題を一つ選んだ。


 前の学校で好きだった計算。


 榊先生が数字カードを出すと、サミルは少し集中した顔になった。


 解けた。


 答えを書いた。


 その下に、小さく書いた。


『まだできる』


 榊先生は、その文字を見て何も言わなかった。


 ただ、そっと頷いた。


 夕方、灯理は臨時学習スペースを出た。


 窓の向こうでは、子どもたちが自分のノートを重ねて棚に置いている。棚には、名前の書かれたノートが少しずつ増えていた。


 玄関の前で、榊先生が見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、今日の机を一緒に見せていただきました」


 榊先生は、学習スペースの中を振り返った。


「避難している子どもたちに、何を教えればいいのか迷っていました」


「はい」


「教科書がない。学年も違う。生活も落ち着かない。そんな中で、普通の授業をしなければと焦っていました」


「大切な焦りでもありますね」


「でも、普通に戻すことだけが学びではないのですね。名前を書く。日付を書く。見たものを描く。覚えている教室と今いる場所をつなぐ。それも、子どもが自分を取り戻すための学びでした」


 灯理は頷いた。


「今日ここで書いたものは、その子のものになります」


 榊先生は、少しだけ笑った。


「サミルくんの『これは、今日のぼくの机』という一文、忘れられません」


 夜風が、建物の前の小さな旗を揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、災害被害を受けた地域の中学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 避難生活の中で、学びは贅沢に見えることがある。


 寝る場所。


 食べ物。


 手続き。


 安全。


 それらが先に必要なのは確かだ。


 けれど、子どもにとって学びは、ただ教科を進めるためだけのものではない。


 自分の名前を書くこと。


 今日の日付を書くこと。


 覚えている教室を描くこと。


 今いる場所の地図を作ること。


 必要な言葉を持つこと。


 小さな机に向かい、自分で一つ選ぶこと。


 それらは、不安定な生活の中で、日常のかけらを取り戻す支えになる。


 灯理は、夜の臨時学習スペースを振り返った。


 棚の上には、水色のノートが一冊置かれている。


 表紙には、少し曲がった字でサミルの名前が書かれていた。


 最初のページには、消されなかった一文が残っている。


 これは、今日のぼくの机。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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