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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第16章 第1話:転入生の授業――言葉が追いつかない教室


 リナは、黒板の文字を目で追っていた。


 朝の教室には、鉛筆の音と椅子を引く音、友だち同士の小さな話し声が混じっている。窓の外では、校庭の木が風に揺れ、まだ少し湿った土の匂いが開いた窓から入ってきた。


 四年二組。


 リナがこの教室に来てから、三週間が過ぎていた。


 黒板には、今日の予定が書かれている。


 一時間目、国語。


 二時間目、算数。


 三時間目、理科。


 四時間目、体育。


 給食。


 掃除。


 帰りの会。


 リナは、文字を一つずつ読もうとした。


 読める字もある。


 読めない字もある。


 意味がわかる言葉もある。


 見たことはあるけれど、口に出すと途中でほどけてしまう言葉もある。


 リナは、家族の事情で海外からこの町へ来た。


 母語では、よく話す子だった。


 家では、弟に絵本を読んでやる。


 母に学校であったことを話す。


 植物や虫の名前をたくさん知っている。


 空の色が変わる理由を聞くのが好きで、前の学校では理科の時間に何度も手を挙げていた。


 けれど、この教室では、言葉が追いつかない。


「リナさん、おはよう」


 隣の席の芽衣が声をかけた。


 芽衣は、いつも優しい。


 ゆっくり話そうとしてくれる。


 リナは顔を上げて、少し笑った。


「おはよう」


 その言葉は、もう言える。


 でも、その後に続けたいことがあった。


 昨日、帰り道で見た白い花のこと。


 家の近くの細い道に咲いていて、前の国で見た花に少し似ていたこと。


 葉の形が違っていたこと。


 でも、それを日本語にしようとすると、胸の中で言葉が散らばった。


 リナは口を閉じた。


 芽衣は少し待ってから、にこっと笑った。


「今日、理科あるよ」


「りか」


「そう。植物の観察」


 植物。


 リナは、その言葉に反応した。


 好きなものだ。


 でも、言えるのは短い単語だけだった。


「すき」


「理科、好き?」


 リナは頷いた。


 その時、担任の香坂先生が教室に入ってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 子どもたちの声が揃う。


 リナも少し遅れて言った。


「おはよう、ございます」


 香坂先生は、リナの方を見て微笑んだ。


 香坂先生は、リナを支えたいと思っていた。


 日本語がまだ十分にわからない転入生。


 不安なことも多いだろう。


 友だちとの関係も、授業も、生活のルールも、少しずつ覚えていかなければならない。


 だから、香坂先生はできるだけ声をかけていた。


 簡単な日本語で話す。


 ひらがなを多く使う。


 友だちに助けてもらう。


 それでも、授業は待ってくれない。


 国語の音読。


 算数の説明。


 理科の観察記録。


 体育のルール。


 給食当番。


 掃除の分担。


 指示は一日の中に何度も流れる。


 香坂先生は、リナに何度も言っていた。


「日本語で言ってみよう」


 悪気はなかった。


 日本語を覚えれば、もっと教室に入れる。


 もっと友だちと話せる。


 もっと授業がわかる。


 そう思っていた。


 朝の会が終わり、一時間目の国語が始まった。


 教科書を開く。


 今日の物語文。


 香坂先生が言った。


「では、この場面で主人公はどんな気持ちだったと思いますか。まず隣の人と話してみましょう」


 教室が一気にざわめいた。


 子どもたちが向かい合う。


 話す声が重なる。


 リナの隣で、芽衣が教科書を指した。


「ここ、主人公が友だちに言えなかったところ。リナはどう思う?」


 リナは、教科書の挿絵を見た。


 主人公の表情。


 少し下を向いた目。


 握った手。


 リナには、気持ちがわかった。


 言いたいのに、言えない。


 言葉が出ない。


 相手にどう思われるか怖い。


 それは今の自分にも近かった。


 でも、日本語で何と言えばいいのかわからない。


 かなしい。


 ちがう。


 こわい。


 それだけでもあるけれど、それだけではない。


 言葉の前に、胸の中にたくさんの色があった。


 リナは、母語で小さく呟いた。


 芽衣は聞き取れず、少し首をかしげた。


「え?」


 リナは慌てて口を閉じた。


「わからない」


 そう言うと、芽衣は困ったように笑った。


「そっか」


 話し合いの時間が終わる。


 香坂先生が尋ねた。


「では、発表できる人」


 手が上がる。


「悲しかったと思います」


「友だちに嫌われると思って、怖かったと思います」


「本当は言いたかったけど、言えなかったと思います」


 リナは、机の上の消しゴムを見つめた。


 自分も考えていた。


 でも、それは教室の中に出ていかない。


 出せない考えは、ないのと同じなのだろうか。


 三時間目の理科。


 校庭の花壇で、植物の成長を観察する授業だった。


 リナは、少しだけ顔を明るくした。


 花壇には、ホウセンカとヒマワリの苗が植えられている。


 葉の形。


 茎の太さ。


 葉脈。


 土の湿り気。


 リナは、しゃがみ込んでじっと見た。


 葉の裏に小さな虫がいた。


 茎の根元の色が、上の方と少し違う。


 隣の苗より、こちらの方が葉の向きが光の方へ傾いている。


 リナは、それをノートに描いた。


 丁寧な線で、葉の形を描く。


 小さな虫も描く。


 茎の根元に色をつける。


 そして、ノートの端に母語で短いメモを書いた。


 葉が光の方へ向いている。


 土が昨日より乾いている。


 虫が葉の裏にいる。


 前の学校で育てた豆の芽に似ている。


 リナの手は、すらすら動いた。


 絵と言葉なら、考えが出てくる。


 けれど、香坂先生が近づいてきた時、リナは母語のメモを手で隠してしまった。


「リナさん、よく描けていますね」


 香坂先生はノートを覗き込んだ。


「これは葉っぱかな」


「はい」


「日本語でも書いてみようか。葉、茎、虫」


 香坂先生は、ノートの上に指で示した。


「日本語で言ってみよう」


 リナは、先生を見た。


 先生は優しい。


 怒っていない。


 でも、その言葉を聞くと、リナの中にあるたくさんの観察が、急に細くなる。


 葉。


 茎。


 虫。


 それだけでは足りない。


 でも、それ以上は言えない。


「は」


「そう、葉」


「くき」


「うん、茎」


「むし」


「虫。よく言えました」


 香坂先生は微笑んだ。


 リナも笑おうとした。


 でも、胸の中には少しだけ残るものがあった。


 言えた。


 でも、伝わっていない。


 その日の午後、教室には見学者が来ていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生。


 白瀬灯理。


 世界の学校や学びの場を訪ねている先生だと、香坂先生から紹介された。


 灯理は、授業の後ろで静かに子どもたちを見ていた。


 リナが国語で黙ったこと。


 理科で熱心に観察していたこと。


 ノートの端に母語で何かを書き、先生が近づくと隠したこと。


 その一つひとつを、灯理は見ていた。


 放課後、香坂先生はリナのノートを机の上に広げていた。


「白瀬先生、リナさんのことなのですが」


「はい」


「日本語は少しずつ覚えてきています。ただ、授業中はどうしても黙ることが多くて」


 香坂先生は、リナの理科ノートを見た。


 絵はとても丁寧だ。


 でも、日本語の言葉は短い。


 葉。


 茎。


 虫。


「わかっていないわけではないと思うんです。でも、どこまで理解しているのかが見えにくくて」


 灯理はノートの端を見た。


 そこに、母語で書かれた小さなメモがあった。


 香坂先生は少し困ったように言った。


「日本語で書けるようにしていかないと、授業についていけなくなると思って」


「はい」


「でも、急がせすぎてもいけない気がして」


 香坂先生は、椅子に座り直した。


「先生、リナさんはわかっていないのでしょうか」


 灯理は、リナの描いた葉の絵を見た。


 葉脈の細い線。


 虫の位置。


 土の乾き具合を表す点。


 その横にある母語のメモ。


 そこには、理解があった。


 観察があった。


 日本語の前に、確かな考えがあった。


 灯理は静かに言った。


「うん。では、わかっていないことと、まだこの言葉で出せないことは同じでしょうか」


 香坂先生は、はっとしたようにノートを見た。


 わかっていない。


 言えない。


 書けない。


 それらを同じ箱に入れていたのかもしれない。


 灯理は続けた。


「リナさんの中には、考えがあります。ただ、それをこの教室の言葉へ運ぶ橋が、まだ少ないのだと思います」


「橋……」


「はい。言葉が追いつくまでの橋です」


 翌日、四年二組の黒板には、いつもと違う表が貼られていた。


 香坂先生と灯理が、朝のうちに準備したものだった。


『今日の大事な言葉』


 その下に、絵と短い言葉が並んでいる。


 葉。


 茎。


 根。


 光。


 水。


 土。


 育つ。


 比べる。


 気づいたこと。


 それぞれに小さな絵がついている。


 香坂先生は、子どもたちに言った。


「今日は、理科の観察をするとき、言葉の使い方を少し工夫します」


 教室が少しざわつく。


「リナさんのためですか」


 誰かが小さく言った。


 香坂先生は頷いた。


「リナさんのためでもあります。でも、それだけではありません」


 黒板に、もう一つ紙を貼る。


『伝えるためにできること』


 そこには、こう書かれていた。


『待つ』

『指す』

『絵を描く』

『ゆっくり言い直す』

『短く分ける』

『友だちの言葉を代わりに読む』

『母語で考えてから日本語にする』

『話す以外の方法で出す』


 子どもたちは、その紙を見た。


 芽衣が手を挙げる。


「母語って、リナの言葉ですか」


「はい。リナさんが家で使っている言葉です」


「日本語じゃなくてもいいんですか」


 香坂先生は少し間を置いた。


 以前なら、日本語で言ってみよう、と言ったかもしれない。


 でも、今日は言い方を変えた。


「まず、どの言葉なら考えを出せるかを大切にします。その後で、日本語とつなげていきます」


 リナは、黒板を見ていた。


 母語で考えてから日本語にする。


 その文字を全部読めたわけではない。


 でも、香坂先生が自分の方を見て、ゆっくり言った。


「リナさん、母語で書いてもいいです。絵でもいいです。日本語の単語を少し足してもいいです」


 リナは、少し目を大きくした。


「いい?」


「いいです」


 香坂先生は頷いた。


「リナさんの考えを、教室に置くためです」


 教室に置く。


 その言葉は、リナには少し難しかった。


 でも、何かを隠さなくてもいいのだと感じた。


 理科の授業が始まった。


 子どもたちは、昨日と同じ花壇へ行く。


 今日は、観察カードの形も少し違っていた。


 左側には絵を描く欄。


 右側には三つの欄。


『見えたもの』

『気づいたこと』

『まだ言葉にできないこと』


 そして、端に小さく書かれている。


『母語で書いてもよい』

『絵でもよい』

『友だちに読んでもらってもよい』


 リナは、観察カードを見て、ゆっくり鉛筆を持った。


 ホウセンカの苗を見る。


 葉の向き。


 昨日より伸びた茎。


 土の表面の割れ。


 光の当たる側と影の側。


 リナは絵を描いた。


 昨日より少し大きくなった部分に印をつける。


 葉の裏の虫も描く。


 それから、母語で書いた。


 光の方へ葉が向いている。


 水が少ないところの葉が少し下を向いている。


 同じ植物でも、場所で違う。


 リナは、手を止めなかった。


 芽衣が隣から覗く。


「すごい。いっぱい書いてる」


 リナは少し身構えた。


 でも、芽衣は笑って言った。


「読めないけど、すごいこと書いてるのはわかる」


 リナは、少しだけ笑った。


 芽衣は黒板から持ってきた言葉カードを見た。


「これ、どれ?」


 葉のカードを指す。


「は」


「葉。こっちは?」


「ひかり」


「そう、光」


 リナは、自分の絵の葉が光の方へ向いている部分を指した。


「は、ひかり」


「葉が光?」


 リナは頷いた。


 でも、それだけでは足りない。


 芽衣は少し考えてから言った。


「葉が、光の方を向いてる?」


 リナの顔がぱっと明るくなった。


「そう。は、ひかり、むく」


「向く」


「むく」


 芽衣は観察カードの日本語欄に、小さく書いた。


『葉が光の方を向く』


 そして、リナに見せた。


「これで合ってる?」


 リナは頷いた。


「合ってる」


 その短い言葉に、芽衣は嬉しそうに笑った。


 教室に戻ってから、発表の時間になった。


 香坂先生は、いつものように「発表できる人」とは言わなかった。


 今日は黒板に発表方法を貼った。


『自分で話す』

『絵を見せる』

『単語で言う』

『友だちに読んでもらう』

『指差しで伝える』

『母語と日本語を並べる』


「今日は、どの方法で発表してもいいです」


 子どもたちは少し戸惑いながらも、面白そうにカードを見ている。


 最初に、何人かの子が発表した。


「葉が昨日より大きくなっていました」


「茎の色が下と上で違いました」


「土が乾いているところの苗は、少し元気がない気がしました」


 香坂先生は、そのたびに黒板へ言葉をまとめる。


 そして、リナの方を見た。


「リナさん、発表の方法を選べます。絵を見せるだけでもいいです」


 リナは、胸がどきどきした。


 発表。


 みんなの前。


 日本語。


 怖い。


 でも、観察カードには自分の考えがある。


 絵もある。


 芽衣が隣で小さく言った。


「私、読もうか?」


 リナは、少し考えてから頷いた。


 二人で前に出る。


 リナは観察カードを黒板に貼った。


 丁寧に描かれたホウセンカ。


 葉の向き。


 土の割れ。


 虫。


 母語のメモ。


 その横に、日本語の短い言葉。


 芽衣が読んだ。


「リナさんは、葉が光の方を向いていることに気づきました。水が少なそうな土のところでは、葉が少し下を向いているそうです」


 クラスが少しざわついた。


「すごい」


「そこまで見てなかった」


「虫もいる」


 リナは、絵の葉を指した。


「は、ひかり、むく」


 少しだけ発音がたどたどしい。


 でも、教室の中に届いた。


 香坂先生が言った。


「リナさんは、植物の向きと光、水の関係に気づいたのですね」


 リナは、先生の言葉を全部は理解できなかった。


 でも、自分の観察が受け取られたことはわかった。


 香坂先生は、黒板に書いた。


『葉が光の方を向く』

『水が少ないと葉が下を向く?』

『場所によって育ち方が違う?』


「ここから、次の理科の問いが作れそうです」


 リナは、黒板の文字を見た。


 自分の絵から、問いが生まれている。


 それは、初めての感覚だった。


 授業の後、香坂先生は職員室でリナの観察カードを見ていた。


 母語のメモは、翻訳アプリを使っておおよその意味を確認した。


 葉が光へ向くこと。


 土の乾き。


 虫の位置。


 前の学校で育てた植物との比較。


 そこには、香坂先生が想像していた以上の観察があった。


「こんなに考えていたんですね」


 香坂先生は呟いた。


 灯理は隣で頷いた。


「はい」


「私は、リナさんに日本語で言えるようになってほしいと思っていました」


「大切な願いですね」


「でも、日本語で言える部分だけを見て、理解の量を測っていたのかもしれません」


 香坂先生は、観察カードの端を指でなぞった。


「日本語で言えるのは、葉、茎、虫。でも、リナさんの中にはもっとたくさんあった」


「はい」


「橋が足りなかったんですね」


 灯理は静かに言った。


「言葉を学ぶことは、正しく話すことだけではなく、自分の考えを教室に置くための道を持つことでもあります」


 香坂先生は、その言葉をノートに書いた。


『考えを教室に置くための道』


 翌週から、四年二組では少しずつ工夫が増えていった。


 授業の最初に、大事な言葉カードを貼る。


 長い指示は、短く分けて黒板に書く。


 話し合いの前に、絵で考える時間を入れる。


 発表方法を一つにしない。


 友だちが言い直す時は、相手を急がせない。


 リナだけでなく、他の子どもたちにも変化があった。


 国語で言葉に詰まる子が、まず絵を描くようになった。


 算数の説明が苦手な子が、図を指しながら話せるようになった。


 発表が得意な子も、相手に届く速さで話すことを意識し始めた。


 芽衣は、休み時間にリナと小さな言葉カードを作った。


 花。


 雨。


 楽しい。


 難しい。


 もう一回。


 待って。


 こっち。


 わかった。


 まだ。


 それぞれに、絵をつける。


 リナは、母語の言葉も横に書いた。


 芽衣はそれを真似して発音しようとする。


 うまく言えなくて、二人で笑った。


 言葉は、リナだけが覚えるものではなくなっていた。


 教室全体が、伝わるための方法を少しずつ増やしていた。


 ある日の国語の時間。


 物語の登場人物の気持ちを考える授業で、リナはまた少し黙った。


 でも、今度は黙ったまま終わらなかった。


 観察カードのような小さな紙に、顔の絵を描いた。


 口は閉じている。


 目は少し横を向いている。


 手は胸の前で小さく握られている。


 その横に母語で書き、日本語の単語を二つ足した。


『言いたい』

『こわい』


 芽衣が見て、ゆっくり言った。


「言いたいけど、怖い?」


 リナは頷いた。


「そう」


 香坂先生が近づいた。


「リナさん、発表しますか。芽衣さんに読んでもらってもいいです」


 リナは少し迷った。


 そして、小さく言った。


「めい、読む」


 芽衣が発表した。


「リナさんは、主人公は言いたいけど怖い気持ちだと思いました。絵では、口を閉じていて、手をぎゅっとしています」


 クラスの一人が言った。


「その絵、わかる」


 別の子も言う。


「言葉にできない時って、そういう感じある」


 リナは、教室の空気を感じた。


 自分の絵が、誰かの気持ちにもつながっている。


 日本語はまだ追いつかない。


 でも、考えは少しずつ届いている。


 放課後、リナはノートの端に、日本語と母語を並べて書いていた。


 まだ、書ける日本語は少ない。


 でも、今日は自分で書いた。


『まだ言えない。でも、考えている』


 その下に、母語でも同じ意味の言葉を書く。


 そして、小さな橋の絵を描いた。


 片側にリナ。


 反対側に教室。


 橋の上には、絵、母語、日本語、友だちの声、待つ時間が並んでいる。


 香坂先生がそれを見て、少し目を細めた。


「リナさん」


 リナは顔を上げた。


「この橋、とてもいいですね」


 リナは、少し照れたように笑った。


「ことば、橋」


「はい。言葉は橋ですね」


 香坂先生は、ゆっくり言った。


「日本語も、母語も、絵も、友だちの助けも、全部橋になります」


 リナは頷いた。


 そして、短い日本語で言った。


「これ、わかった。でも、言葉、まだ」


 香坂先生は、その言葉を受け止めた。


「うん。では、まずどの言葉なら出せるかな」


 以前の「日本語で言ってみよう」とは違う声だった。


 リナはノートの絵を指した。


「絵」


「絵で教えてください」


 芽衣が隣から顔を出した。


「じゃあ、絵で教えて」


 リナは笑った。


 その笑顔は、転入してきた日の緊張した笑顔とは少し違っていた。


 教室にいてもいい。


 まだ全部言えなくても、考えていることを置いていい。


 そう感じられる笑顔だった。


 夜、灯理は小学校を出た。


 校舎の窓には、職員室の明かりが残っている。香坂先生は机に向かい、次の日の授業で使う言葉カードを作っていた。


 校門まで、香坂先生が見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、リナさんの橋を一緒に見せていただきました」


 香坂先生は、手にした言葉カードを見た。


「私は、リナさんに早く日本語を覚えてほしいと思っていました」


「はい」


「それは今も同じです。日本語が増えれば、学校生活はきっと楽になります」


「大切な支援ですね」


「でも、それだけを急ぐと、リナさんの中にもうある考えを見落としてしまうのですね」


 香坂先生は、少しだけ息を吐いた。


「黙っている子、ではなかった。言葉が追いつくのを待っている子だったんですね」


 灯理は頷いた。


「そして、待つだけでなく、橋をかけることができます」


「はい。母語、絵、友だちの代読、言葉カード、短い指示。クラス全員にも必要な橋でした」


 校庭の木が、夜風に揺れた。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、避難者を受け入れる臨時学習スペースから届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 言葉を学ぶことは、正しい文を早く言えるようになることだけではない。


 自分の考えを、誰かのいる場所へ渡すこと。


 相手の言葉を、こちらへ迎えること。


 まだ言えないものを、絵や母語や指差しや友だちの声で支えること。


 そして、教室の側も、届くまで待ち、届く道を増やすこと。


 灯理は、夜の教室の窓を見上げた。


 机の上に、リナのノートが閉じられている。


 その端には、日本語と母語で並んだ一文が残っている。


 まだ言えない。でも、考えている。


 その小さな橋を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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