第15章 第5話:教育格差の授業――同じ教室にない机
陸は、提出できなかった宿題を机の中に押し込んだ。
朝の教室は、いつものようにざわついている。窓際では、昨夜の塾の話をしている生徒がいた。前の席では、英単語アプリの連続記録を自慢する声が聞こえる。廊下からは、部活動の朝練を終えた生徒たちの笑い声が近づいてきた。
陸は、鞄の中から数学のワークを出しかけて、また戻した。
ページは半分しか埋まっていない。
途中まではやった。
でも、最後の文章題で止まった。
家では、そこで考え続けることができなかった。
昨夜、陸の家では、弟が熱を出して泣いていた。
母は夜の仕事に出ていて、帰りは遅い。
陸は、弟に水を飲ませ、額に冷却シートを貼り、寝かしつけようとした。テレビを消しても、弟はぐずった。アパートの壁は薄く、隣の部屋の物音も聞こえた。
勉強机はない。
折り畳みの小さなテーブルは、夕食の皿と薬とティッシュでいっぱいだった。
数学のワークを広げる場所を作るために皿を片づけた頃には、もう十時を過ぎていた。
スマートフォンで解説動画を見ようとしたが、通信制限でなかなか読み込まれなかった。
弟がまた泣いた。
陸はワークを閉じた。
明日の朝、早く起きてやろうと思った。
けれど、目が覚めた時には、家を出る時間が迫っていた。
だから、宿題は終わらなかった。
教室では、提出係がワークを集め始めている。
「数学ワーク、前から回して」
陸の列にも、ノートとワークの束が回ってきた。
陸は、自分のワークを出さなかった。
前の席の生徒が振り返る。
「陸、出さないの?」
「あとで」
「また?」
その言葉に、陸は何も返さなかった。
また。
たしかに、まただった。
提出が遅れることは増えている。
先生に注意されることも増えた。
やる気がないわけではない。
でも、その説明をするのが面倒だった。
何を言っても、言い訳のように聞こえる気がした。
担任の川辺先生が教室に入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
朝の挨拶が揃う。
川辺先生は、提出物の束を確認しながら言った。
「数学ワーク、未提出の人は昼休みまでに出してください」
その視線が、少しだけ陸の方へ向いた。
陸は机の木目を見た。
ホームルームが終わると、川辺先生が近づいてきた。
「陸」
「はい」
「ワーク、また出ていませんね」
「すみません」
陸は、いつもの言葉を口にした。
すみません。
それ以上は言わない。
川辺先生は、小さく息を吐いた。
「最近、提出が遅れています。授業中は聞いているように見えるのに、家庭学習が続かないと力がつきません」
「はい」
「同じ宿題を出しています。みんな取り組んでいます。陸だけ特別にはできません」
「はい」
陸は頷いた。
先生の言っていることは間違っていない。
同じ宿題。
同じ締切。
同じ授業。
自分だけが出せていない。
だから、自分が悪いのだろう。
そう考える方が、話は早かった。
川辺先生は、少し声を和らげた。
「わからないなら、聞きに来てください」
「はい」
「昼休みに出せますか」
「出します」
言いながら、陸は無理だと思っていた。
昼休みには委員会の仕事がある。
その後、給食当番の片づけもある。
文章題を解く時間は、たぶんない。
でも、また説明するのは面倒だった。
すみません。
はい。
出します。
その三つの言葉でやり過ごすのが、一番傷が浅かった。
その日の放課後、学校には外部から見学者が来ていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
世界の学校や学びの場を訪ねている先生だと、職員会議で紹介された。
灯理は、教室の後ろで一日の様子を見ていた。
宿題を出す生徒。
提出できずに目を伏せる陸。
先生の注意。
陸の「すみません」。
その短い言葉の奥に、何かが閉じ込められているように見えた。
放課後、川辺先生は職員室で陸の提出状況を確認していた。
数学ワーク、遅れ。
英語プリント、未提出。
理科レポート、期限後提出。
授業中の態度は悪くない。
小テストも極端に悪いわけではない。
でも、家庭学習と提出物が安定しない。
「やる気がないわけではなさそうなんですが」
川辺先生は、灯理にそう言った。
「でも、提出物がこれだけ遅れると、こちらも指導しなければなりません。同じ課題を出している以上、公平に見ないと」
灯理は静かに聞いていた。
その時、同じ学年の教師が職員室に入ってきた。
「先生、同じ宿題なんだから、できる子はできるし、できない子は努力が足りないんじゃないですか」
何気ない一言だった。
責めるというより、現場でよく聞かれる感覚に近かった。
同じ宿題。
同じ締切。
同じ教室。
だから、できるかできないかは本人の努力。
川辺先生も、完全には否定できなかった。
しかし、灯理は少しだけ間を置いて言った。
「うん。では、その宿題に向かう机は、みんなの家に同じようにあるのでしょうか」
職員室が静かになった。
机。
川辺先生は、その言葉に引っかかった。
宿題を出す時、問題数や難易度は考える。
授業で扱った内容かどうかも考える。
提出期限も考える。
でも、その宿題に向かう机が家にあるかどうかは、あまり考えていなかった。
静かな場所。
椅子。
照明。
聞ける大人。
通信環境。
時間。
睡眠。
食事。
それらは、学校の外側にある。
しかし、宿題はその外側へ出される。
灯理は言った。
「明日、先生方と一緒に、学びに届く条件を見えるようにしてみませんか」
翌日、職員研修の時間に、灯理は大きな紙を用意した。
そこには、匿名の生徒モデルがいくつか書かれている。
実在の生徒の家庭事情を直接さらすのではなく、複数の状況を混ぜたモデルだった。
灯理は黒板に書いた。
『学びに届く条件』
その下に、項目を並べる。
『静かに勉強できる場所』
『机と椅子』
『端末と通信環境』
『大人に質問できる時間』
『食事や睡眠』
『きょうだいの世話』
『通塾の有無』
『本や教材へのアクセス』
『安心して失敗できる環境』
『放課後に残れる場所』
教師たちは、少し戸惑いながら紙を見た。
灯理は言った。
「今日は、特定の生徒の家庭を暴く時間ではありません。宿題や課題に向かうために、どんな条件が必要なのかを見ます」
川辺先生は、ペンを持った。
モデルA。
静かな自室がある。
机と椅子がある。
保護者が帰宅後に質問に答えられる。
塾に通っている。
端末も通信環境もある。
モデルB。
自室はない。
食卓で勉強する。
家族の帰宅時間によって場所が変わる。
保護者は仕事で夜遅い。
端末は家族共用。
モデルC。
家に勉強机がない。
幼いきょうだいの世話がある。
通信環境が不安定。
静かな時間は夜遅くしかない。
質問できる大人が近くにいない。
川辺先生は、モデルCの欄で手が止まった。
陸のことが浮かんだ。
陸が本当にそうなのかは、まだ知らない。
知らないのに、提出遅れだけを見ていた。
灯理は問いかけた。
「同じ宿題を出した時、三人は同じところからスタートしているでしょうか」
若手教師が言った。
「同じではないですね」
「でも、課題は同じです」
「はい」
「評価や提出も同じ基準になりがちです」
職員室が静かになる。
川辺先生は、自分の言葉を思い出していた。
同じ宿題を出しています。
みんな取り組んでいます。
陸だけ特別にはできません。
その言葉は、公平であろうとして出たものだった。
でも、公平とは何だろう。
同じものを配ることだけが公平なのか。
同じものに届くための条件が違う時、それを見ないことも公平なのか。
灯理は言った。
「公平に学ぶとは、全員に同じものを配ることだけでしょうか。それとも、それぞれが学びに届くために必要な支えを考えることも含まれるのでしょうか」
川辺先生は、ペンを握り直した。
研修の後、川辺先生は陸と面談する時間を取った。
場所は空き教室。
陸は、少し警戒した顔で椅子に座っている。
また提出物の注意だと思っているのだろう。
川辺先生は、机の上に数学ワークを置いた。
「陸、今日は叱るためだけに呼んだわけではありません」
陸は何も言わなかった。
「提出が遅れていることは確認したい。でも、その前に、家で宿題に向かう時のことを少し聞きたいです」
陸の指が、制服の裾をつまんだ。
「別に」
「静かに勉強できる場所はありますか」
「……あんまり」
初めて、短い答えが返ってきた。
川辺先生は、急がなかった。
「机は?」
「ないです」
「どこでやっていますか」
「小さいテーブル」
「使える時間は?」
「弟が寝たあと」
「弟さんの世話をしているの?」
陸は、少し顔を上げた。
言っていいのか迷っているようだった。
川辺先生は言った。
「責めるために聞いているのではありません。宿題に向かう条件を一緒に見たいです」
陸は、しばらく黙ってから言った。
「母さんが夜いない日があるから。弟が小さいので」
「そうでしたか」
「ご飯とか、風呂とか、寝かせるのとか」
「その後に宿題を?」
「はい」
「通信環境は?」
「動画は、見られない時があります。すぐ止まるから」
川辺先生は、胸の奥が重くなるのを感じた。
陸の「すみません」の中には、こんな時間が入っていたのか。
机がないこと。
弟の世話。
夜遅くの宿題。
止まる動画。
質問できる大人がいないこと。
何も知らずに、自分は「同じ宿題」と言っていた。
「陸」
「はい」
「今まで、提出が遅れたことだけを見て注意していました。家でどういう時間を過ごしているのか、十分に聞いていませんでした」
陸は困ったような顔をした。
謝られるとは思っていなかったのだろう。
「宿題をしなくていいという話ではありません」
川辺先生は続けた。
「でも、今のまま同じ形で出しても、陸が学びに届きにくいことがわかりました」
陸は、小さく頷いた。
「学校の放課後に、学習スペースを開ける日があります。そこを使ってみませんか」
「学校に残るんですか」
「はい。もう一つ、市の学習支援施設とも連携しています。放課後に静かな机が使えて、質問できる大人もいます」
陸は、少しだけ目を動かした。
「お金、かかりますか」
「かかりません」
「弟は?」
「その時間をどう作るかは、お母さんとも相談しましょう。毎日でなくていいです。まず週一回でも」
陸は、机の上のワークを見た。
「行っても、わからないかもしれないです」
「わからないと言える場所です」
川辺先生の声は、少しだけ震えていた。
「そこから始めましょう」
数日後、陸は初めて学習支援施設へ行った。
駅から少し離れたビルの二階。
看板には、『まなびスペース ひだまり』と書かれている。
中に入ると、明るすぎない照明と、木の机が並んでいた。
大きな教室ではない。
でも、一人ずつ座れる机がある。
本棚には参考書や辞書があり、端末も数台置かれている。
奥では、小学生が支援員と一緒に漢字の練習をしていた。別の机では、高校生らしい生徒が英語の長文を読んでいる。
陸は入口で立ち止まった。
場違いな気がした。
自分がここへ来ていいのか、よくわからなかった。
「陸くんですね」
声をかけたのは、学習支援員の真田さんだった。
穏やかな声の人で、首から名札を下げている。
「川辺先生から聞いています。今日は来てくれてありがとう」
陸は小さく頭を下げた。
「ここ、好きな席を使っていいですよ」
真田さんは窓際の机を示した。
机。
陸は、その机を見た。
広くはない。
でも、ワークを開き、ノートを置き、筆箱を置ける。
弟の薬も、食器も、洗濯物もない。
テレビの音もない。
誰かの泣き声もない。
ただ、勉強するための平らな場所があった。
陸は椅子に座った。
数学のワークを開く。
止まっていた文章題。
昨日のままのページ。
真田さんはすぐに答えを教えようとはしなかった。
「どこまではわかりましたか」
その問いに、陸は少し驚いた。
学校でも聞かれることはある。
でも、ここでは急かされない感じがした。
「式を作るところまでは」
「では、そこまで見せてもらっていいですか」
陸はノートを見せた。
真田さんは頷いた。
「ここまでは合っていますね。止まったのは、割合をどう使うかのところかな」
「たぶん」
「たぶん、で大丈夫です。ここで一緒に見ましょう」
陸は鉛筆を持ち直した。
わからない、と言う準備をした。
それだけで、少し変な気持ちがした。
家では、わからないと言っても誰も答えられない。
学校では、わからないと言う前に遅れていることが恥ずかしくなる。
ここでは、わからないと言うための机があった。
一時間後、陸は宿題を終えた。
全部を完璧に理解したわけではない。
でも、ワークは埋まった。
途中の式も書けた。
間違えたところには、赤ではなく青い付箋を貼った。
『ここ、もう一度学校で聞きたい』
真田さんが言った。
「この付箋、川辺先生に見せてもいいですか」
陸は少し迷ってから頷いた。
「はい」
「自分でも何か書いておきますか」
陸は、学習支援施設のノートを開いた。
そこに、短く書いた。
『ここなら、わからないって言える』
書いた後、少し恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。
翌日、陸は数学ワークを提出した。
川辺先生は、受け取ったワークのページを見た。
途中式がある。
青い付箋がある。
学習支援施設での記録も挟まっている。
陸は、いつものように「すみません」とは言わなかった。
代わりに、小さく言った。
「ここ、もう一回聞きたいです」
川辺先生は、付箋の場所を見た。
「わかりました。授業の後に一緒に見ましょう」
陸は頷いた。
その日の職員会議で、川辺先生は学年の先生たちに話した。
「陸のことをきっかけに、宿題や提出物の扱いを見直したいです」
同僚の一人が言った。
「特別扱いになりませんか」
川辺先生は、少し前の自分なら同じことを言ったかもしれないと思った。
「宿題を免除するという話ではありません」
「では?」
「学びに届くための条件を確認します。放課後の学習スペース、支援施設との連携、端末貸出、提出方法の柔軟化。必要な支えを本人と一緒に選べるようにしたいです」
灯理が黒板に整理した。
『放課後の学習スペース開放』
『学習支援施設との連携』
『端末貸出と通信支援』
『宿題提出方法の柔軟化』
『家庭状況を責めない面談』
『できない理由を怠けと決めつけない記録』
『必要な支えを本人と一緒に選ぶ』
養護教諭が言った。
「家庭状況を聞く時は、慎重さが必要ですね」
「はい」
川辺先生は頷いた。
「事情を言わせることが目的ではありません。本人が学びに届くために、どんな支えが必要かを見ることが目的です」
別の教師が言う。
「放課後スペースを開けるなら、担当をどうしますか」
「曜日を決めて、学年で分担できないかと思います。支援施設とも連絡を取り、学校で見えたつまずきを共有できる形にします」
会議は簡単には進まなかった。
人手の問題。
場所の問題。
安全管理。
家庭への説明。
個人情報の扱い。
課題は多かった。
けれど、以前と違い、議論は「やる気のない生徒をどう注意するか」ではなく、「学びに届く条件をどう整えるか」に向かっていた。
川辺先生は、黒板の言葉を見た。
同じ教室にいる。
同じ机に座っている。
でも、学校の外へ出た瞬間、同じ机があるとは限らない。
その当たり前のことを、自分は見落としていた。
数週間後、学校では放課後学習スペースが週二回開かれるようになった。
図書室の一角に、数席の机を用意した。
誰でも使える。
特定の生徒だけの場所にしない。
質問できる教師が一人いる。
端末も数台貸し出せる。
学習支援施設との連絡ノートも作られた。
陸は、週一回は学習支援施設へ行き、もう一日は学校の図書室を使うようになった。
毎回順調ではない。
弟の体調で行けない日もある。
家の用事で遅れる日もある。
宿題がすべて期限通りに出るようになったわけではない。
それでも、陸は少しずつ言葉を増やした。
「今日は家でできませんでした。図書室でやります」
「端末を借りたいです」
「ここは支援施設で聞きました」
「この問題は、まだわかってないです」
川辺先生は、そのたびに記録をつけた。
『未提出』だけではなく、
『家庭で弟の世話』
『図書室で半分完了』
『支援施設で質問済み』
『端末貸出』
『次回、割合を確認』
記録の言葉が変わると、陸の見え方も変わった。
できない子。
やる気がない子。
提出が遅れる子。
それだけではなく、
条件が整えば取り組める子。
質問できる場所があれば進める子。
支えが必要な子。
自分で必要な支えを言えるようになってきた子。
ある日の放課後、陸は図書室の机で数学のワークを解いていた。
窓の外は夕方で、校庭には部活動の声が響いている。
机の上には、ワーク、ノート、借りた端末、青い付箋。
陸は、途中で手を止めた。
隣の机では、別の生徒が英語の課題をしている。
向かいには、塾へ行く前に少しだけ宿題をする生徒がいる。
それぞれ事情は違う。
でも、同じ机を使っている。
川辺先生が近づいた。
「どうですか」
「ここ、できました」
「見せてください」
陸はノートを見せた。
途中式が書かれている。
以前より、空白が少ない。
「いいですね」
「でも、こっちはまだ」
陸は付箋を貼った問題を指した。
「次、聞いていいですか」
「もちろん」
陸は頷いた。
わからないと言うことに、少しずつ慣れてきていた。
夜、灯理は学習支援施設を訪れた。
施設の机には、まだ数人の子どもたちが残っている。真田さんが、一人の小学生に漢字の形を説明していた。
陸は帰る準備をしていた。
鞄にワークを入れ、ノートをしまう。
灯理が声をかける。
「陸くん」
「はい」
「ここは、どうですか」
陸は、少し考えた。
照れくさそうに視線をそらす。
「静かです」
「はい」
「机があります」
「はい」
「聞ける人もいます」
陸は、鞄の紐を握った。
「家でできない時、ここに来れば、全部じゃないけど進みます」
「うん」
「前は、宿題出せないと、すみませんしか言えなかったです」
「はい」
「今は、どこでできて、どこでできないか、少し言えるようになりました」
灯理は頷いた。
「それは大きな学びですね」
陸は、施設のノートを開いた。
以前書いた一行の下に、新しい言葉を書いた。
『ここなら、わからないって言える』
『学校でも、少し言えた』
その文字を見て、陸は少しだけ笑った。
翌日、川辺先生は教室で話をした。
特定の誰かの事情には触れず、学習スペースについて全体に説明した。
「放課後、図書室の一角を学習スペースとして開けています。家で集中しにくい人、質問したい人、端末を使いたい人、少しだけ課題を進めたい人。誰でも使えます」
生徒たちは、少しざわついた。
「誰でも?」
「塾ある日までの時間でもいいですか」
「友だちと行ってもいいですか」
「静かに使えるなら大丈夫です」
川辺先生は続けた。
「みんなに同じ宿題を出すことはあります。でも、宿題に向かう条件は一人ひとり違います。静かな机がある人もいれば、ない人もいます。質問できる大人が近くにいる人もいれば、いない人もいます」
教室が静かになる。
「困っていることを、無理にみんなの前で言う必要はありません。でも、必要な支えがある時は、先生に伝えてください。できない理由を責めるためではなく、学びに届く道を一緒に考えるためです」
陸は、机の上のワークを見た。
以前なら、この話を聞いても自分のことだと思われたくなくて俯いていたかもしれない。
今日は、少しだけ違った。
自分だけの話ではない。
机があるかどうか。
時間があるかどうか。
聞ける人がいるかどうか。
それは、多くの人に関わる話だった。
放課後、川辺先生は灯理と校門の近くを歩いていた。
「白瀬先生」
「はい」
「私は、同じ宿題を出していることが公平だと思っていました」
「はい」
「もちろん、同じ課題に取り組むことも大切です。基準が必要な場面もあります」
「大切ですね」
「でも、同じ課題に向かう机が、みんなの家に同じようにあるとは限らなかった」
川辺先生は、校舎を振り返った。
「同じ宿題を出していたつもりだった。でも、同じ机があるとは限らなかった」
その言葉は、川辺先生自身の胸に深く残った。
灯理は静かに頷いた。
「その机を、学校や地域で少しずつ作ることもできますね」
「はい。学校だけでは足りません。支援施設、家庭、行政、地域。つながらないと届かない子がいます」
川辺先生は、手元の記録を見た。
そこには、陸だけでなく、学習スペースを使い始めた生徒たちの様子が書かれている。
『家では弟妹がいて集中しにくい』
『塾までの空き時間に学校で宿題』
『端末貸出希望』
『質問できる場所が必要』
『静かな机があれば進む』
見え始めると、支え方も見え始める。
それは簡単なことではない。
でも、もう「努力が足りない」の一言では戻れなかった。
夜、灯理は都市部の学校を出た。
校舎の窓には、図書室の明かりがまだ残っている。数人の生徒が机に向かい、教師が静かに見守っていた。
校門の外では、学習支援施設へ向かう道に、街灯がぽつぽつと灯っている。
陸はその道を歩いていた。
鞄の中には、提出できた数学ワークと、青い付箋が貼られたノートが入っている。
途中で立ち止まり、スマートフォンを見る。
母からのメッセージ。
『弟、今日は大丈夫。少し遅くなってもいいよ』
陸は短く返信した。
『支援のところで宿題してから帰る』
送信して、歩き出す。
以前なら、家でできなかった宿題は、ただ遅れになった。
今は、別の机へ向かう道がある。
全部が解決したわけではない。
家の状況が急に変わったわけでもない。
でも、学びに届くための線が一本増えた。
灯理は、少し離れた場所からその背中を見送った。
公平とは、同じプリントを配ることだけではない。
同じ締切を示すことだけでもない。
同じ教室に座っていても、その外側にある机は同じではない。
静かな場所。
聞ける大人。
通信環境。
食事。
睡眠。
家族の世話。
安心して間違えられる空気。
それらが違えば、同じ課題への距離も変わる。
だから、できない理由を怠けに閉じ込めない。
学びに届く条件を見えるようにする。
必要な支えを、本人と一緒に選ぶ。
灯理は夜の校舎を振り返った。
学校の中の机と、家にない机と、地域に用意された机。
それらが少しずつ線でつながり始めている。
どこかの机の上で、陸のノートが開かれる。
その端には、消されなかった一行が残っている。
ここなら、わからないって言える。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




